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Monday, March 30, 2015

聖なる一週間の聖書朗読の背景にある恐ろしい人類共通の潜在的精神病理




宗教教育及び臨床パストラル心理の専門家の観点からみて、受難の主日に始まり、イースターへと続く聖なる一週間は、心の中に潜み続ける精神病理のカビ、あるいはその胞子を見つけ出し、取り除く一層の努力をする時です。でないと、私達、だれもが、思いがけなく、妬みや不安が引き起こす憎しみや怒りの固まりのような人間へとあっという間に変貌してしまうかもしれないからです。2,000年ほど前のエルサレムでこうしたことにより無罪の男が処刑されました。その男の名はイエスです。そして、この悲劇の背景には沢山の偽善者がいました。

当時、偽善者達は自分達の心のカビ故に、自分達の都合のいいように神の名を使い、神の御子であるイエスキリストをローマ総督、ピラテ、や自分達が神の名において導いていた民衆を扇動し、処刑させました。これを記念するのが聖なる金曜日なのです。

偽善者とは自分の心にカビが生えていること、まだカビが生えていなくてもその胞子があることに気つけない無知な人のことです。こうした意味では、当時、エルサレムにいた一般市民もそうでしょう。彼らは、始め、イエスを救世主だと信じ、称えながら救いへの願いを声高く唱えていましたが、たった一週間もたたないうちに、イエスを熱狂的に憎しみ、彼に対して、排他的になり、あたかも村八分の八つ裂きにする如く、処刑に付しました。平和を好む善良な市民といった平然は顔をして。なぜならば、イエスを処刑する陰謀は、イエスという男はローマ帝国の平和を脅かすからだという政治的イデオロギーでしたから。そして、そうしたイデオロギーで民衆やローマ総督を扇動、洗脳、したのはイエスに対して妬みを抱き、その妬みが憎しみとなった当時の偽善的宗教指導者だったのです。
批判的思考力や道義的勇気がないが故、当時のエルサレムの民衆は、はじめ救世主だと称えていたにも拘らず、見せ掛けの平和主義によって本当の平和、救世、をもたらすイエスを殺したのです。2,000年以上たった今でもそれが分らずにいる人がいることは極めて遺憾です。こうした無知さゆえ、いつの時代でも偽善の平和主義者が現れ、争いの終わり無きサイクルが続いているのでしょう。

今年は終戦70年目の節目の年です。それ故、私達日本人は過去の私達のありかたについてより深く反省する時でもあります。どうして、私達はあのような戦争を許してしまい、日本人だだけでなく、諸外国の人達の命まで犠牲にしてしまったのか、今まで以上に真剣に考えねばなりません。しかし、こうした反省において、このブログの前の記事でも強調しましたように、左右からの横風的なイデオロギーに邪魔されずに、日本人としての良心と批判的思考能力を活かして本質を突いて考えなければなりません。そうでないと、私達は当時のエルサレムの偽善的愚衆と同じような平和主義者に陥ってしまいかねません。

戦後、日本では靖国神社を軍国主義の象徴でもあるかのように考える人がいます。しかし、精神病理学的にみて、この考え方の影には、前述したキリスト処刑当時のエルサレムの偽善的善良市民が持っていたのと同じような心のカビ、あるいはその胞子が潜んでいます。

こうした心理の人は、靖国神社をあたかも平和の敵であるかのような考え方をします。しかし、正常な日本人の心でもって平和を願う人であれば、もし、自分の青春時代が70年前だったら。。という問いかけから当時の日本人の様々な姿に共感します。

もし、あの辛い時に自分が青春時代を生きていたなら、そうであったとした場合の自分を当時太平洋に咲き散っていった桜に投影しながら、彼らの心に想いをはせてみる。。。そうすると、涙が込み上げ、感謝の気持ちで一杯です。そして、どうしても靖国神社に参拝に行きたくなります。今の日本の平和の背後には靖国神社に祀られている英霊があるということを素直に理解できます。

A級戦犯の霊も祀られているから、靖国は軍国主義の象徴だから、そのようなことで、英霊達の平和への願いをやみに葬り去ることができるという心理、異常だとしか思えません。
本当に平和を願う人はそのような考えをしません。

靖国で祀られている英霊達も平和の敵である軍国主義という悪魔の仕業の犠牲者なのです。自分の異常な心について無知な故、どうしても偏った見方しかできない偽善的平和主義者などは靖国イコール悪といった一次方程式的な考えしかできず、それに執着したままなのです。

もし、あなたがこのような教育を受けた故、このような考え方であったとしても、あなただって、もし70年前に青春時代を送っていたならば、日の丸振りながら彼らを送り出していたはずです。それとも、非国民とされて厳しい処罰を受けることを覚悟して、戦争反対、若い命を無駄にするなというプラカードを立てて憲兵隊に向かっていけるだけの勇気がありますか?そういった意味では、結局は、2,000年ほど前、イエスを救世主と祭り上げておきながら、いともたやすく扇動、洗脳されてたった5日で、イエスを極悪人扱いしたエルサレムの群集と精神病理学的には同じなのです。

本当に心から平和を願う人は、揺ぎ無い良心、同義的勇気と批判的思考力を備えつつ、高い共感性を持っており、紛争や戦争がもたらす苦しみを受けた人すべてに心を寄せることができます。こうした共感においてつまらないイデオロギーを入れて分別しないのです。そして、こうした共感の教えはイエスの教えにも、釈迦の教えにもつながるものなのです。

確かに、靖国を政治的利用に使おうとするのは危険です。これは、イエスの教えから生まれたキリスト教という宗教を政治的利用する危険性と同じです、だからこそ、靖国神社に祀られている英霊達に心を寄せることができる人は平和を願う故に、靖国を軍国主義の復活に政治利用されないように戦うことができるのです。同じように、本当にイエスの教えに従い実践することに精進している人は、教会が政治利用されないように戦っているのです。これが分らない無知の暗闇にいつまでも生きる人は偽善者であり、偽りの平和や救いを唱え、世界を危険な方向へ導く悪魔の手先なのです。

そうせてしまえば、私達は2,000年ほど前に起こったキリストの十字架での死を無駄にしようとしているのです。そうさせてはなりません。これは、戦時中犠牲となった人たちの御霊を侮辱することと同じです。

以前、このブログでも書きましたが、四旬節とは灰の水曜日からイースターまでの主日を除く40日間を心と魂の悔い改めと清めの精進に充てる期間でります。これは、主の復活、イースター、に向けての準備期間です。聖書学的にみて、40という数は何かに向けての準備という、ことを示唆し、イエス自信も、救世に向けての活動を始める前の準備として砂漠で40日間の断食の修行を行いました。そして、この四旬節という大切な準備期間の最後の大詰めが、イエスが私達罪深き人間の救いを目的とした受難の為にエルサレムにやってきたことを記念する受難の主日に始まる聖なる一週間なのです。

*****

聖なる一週間の始まりに行う受難の主日のミサは、2,000年ほど前、過越祭を前に多くの人で賑わっているエルサレムにイエスが驢馬に乗ってやってくる、十字架で処刑される5日前を想い起しながら始めます。

ザカリアの預言書9:9には、救世主は驢馬に乗ってやってくると書いてあり、しかも、過越祭は、かつて神が神の民であるユダヤ人をエジプトでの苦しい奴隷生活からモーゼを指導者として起用し導き開放したことを想い起し、神に感謝する祝日です。よって、過越祭を前にして各地から集まってきた人達で活気あふれるエルサレムに驢馬に乗ってやってくるイエスを見た人達は彼こそが先祖代々待ち望んでいた救世主だと思い、私たちを救いたまえ!と、椰子の葉を振りながら叫んで歓迎しました。

しかし、ミサの中での長い福音書朗読にあるように、イエスが驢馬に乗ってやってきた日曜日にこうして称えながら歓迎していたエルサレムの群衆、一週間もしないうちにイエスに対する態度をコロッと180度変えてしまい、ローマ帝国の総督、ピラテ、に向かって、”こいつを貼り付けの刑に処せよ!貼り付けに処せよ!”と怒り狂ったように叫び続けるようになります。

ほんの5日前は喜び称えていたのに、殺してやりたいという憎しみに変わってしまう心理とはいったい何でしょうか?

この心理、戦後、あたかも一夜にして批判的思考能力を失い、終戦までは熱狂的に支持していた政策や政治家を、憎しみの対象へと化してしまいました。戦争での苦しみ、そして、敗戦のいたたまれない悔しさ、をこうした人達にぶつけました。そして、戦後70年たった今でもそのような感じです。マスコミもそうです。

だから、かつて八紘一宇、八紘一宇、大東亜共栄、大東亜共栄、大日本帝国万歳、大日本帝国万歳、と熱狂的であったのに、終戦により、コロッと180度かわり、こうしたことを忌々しさの対象にしてしまいました。そして、そうすることで精神的に自分達の過去の戦争責任を清算しようとしているかのようです。しかも、自分の心の奥底に潜み続けているカビや胞子について無知のままで。だれかのせいにすれば、自己検証しなくていいですし、カビにとってもいい温床となります。

心理学的にみて、こうした戦後日本人の態度の変化、単刀直入にいえば、たった5日でイエスに対する歓迎の心を憎しみの心にコロッと変えてしまい、処刑させた2,000年前のエルサレムの群集の心理と同じパターンのものです。そして、日本人の態度の変化の背景にはGHQによる心理的工作、そして、2,000年前のエルサレムの群集の態度の変化の背景には当時の宗教指導者による心理的工作があります。

こうした、大衆の心を短期間で効率的に変えてしまう心理的戦略は、ヒットラーが行ったものと社会心理学的にみて同じ毛色のものです。批判的思考力の欠如、そして道徳的、道義的勇気のない人ほど、こうした大衆心理動員工作の餌食となりやすいのです。

戦後70年目の聖なる週間を迎えた今日、私達日本人は、キリスト教徒であろうがなかろうが、2,000年ほど前に起こったキリストの受難が人類共通のこうした潜在的精神病理によるものであるということを認識せねばなりません。左右からのイデオロギーにあやつられ、お互いを責めあいながらの議論をやり続ける限り、憎しみの心理が優越しており、いつこの病的心理が殺傷的テロ行為や戦争へとつながるか分りません。

それなのに、戦前戦時中の反省をしない人、しようとしない人達の無知が問題であることは勿論ですが、実は、自分は戦前のことを批判し、否定しているから平和的な人間なんだと思い込んでいる人の無知ほど、偽善的であり、精神病理学的にみてより恐ろしい可能性を秘めているといえましょう。ただ自分や周りの人はそれに気付いていないだけです。そして、両者にある無知が二極化対立を促し、それとともにお互いの憎しみもより危険なレベルへと高まっていきます。実は、いままでの歴史の中において、さまざまな戦争防止の条約などを作っても、この世の中がいまだに平和ではないのは、こうした心理的な問題が私達の無知さゆえ皆の心の奥底に潜み続けているからです。

聖なる一種間が私達に教えることは、人間だれでもこうした恐ろしい精神病理の可能性を秘めていることを認識し、こうしたことが問題化しないように精進していくことが救い、あるいは、涅槃への道へとつながることを理解し、行動していかねばなりません。これは、仏教的にいえば、仏になる為に不可欠な悟りでもあります。

こうした悟りを得た人は、謙虚となり、凶悪事件や戦争などの責任は特定の犯人や戦争犯罪人だけではなく、被害者、加害者などの区別を問わず、人間だれもが潜めている、目に見えないカビの胞子のようなものであると理解しているので、こうしたことが起こる度に、誰かを憎んだり責めたりするよりも、自分自身をより深く洞察することの教訓としています。そして、犯人は責任者も、こうしたことを悟り、改心していくことを祈り、支援するのです。

こうしたことこそ、博愛精神のキリスト教であれ、慈悲の心の仏教であれ、何かを信仰する人がとるべき態度ではないでしょうか。

戦後70年目の聖なる一週間、イースターを前に、何がキリストを殺したのか、その背景にある人類共通の潜在的病的心理を自覚し、その対処に精進しつつ、私達日本人は一回り精神的に成長しなければなりません。

昨日まであんなに敬い、称えていたのに、今日となっては、憤りと憎しみの的。昨日まで善良な市民だったのに、今日は世間を振るいあがらせる凶悪犯。どうして?
この聖なる一週間において、自分の心に潜み続ける精神病理のカビの胞子を見つけだし、適切に処置できる方法を悟り、実行し始めた人ならこうした問いへの答えは分るはずです。なぜならば、それは、ある意味では自分自身の認めたくはない可能性でもあるからです。

過越祭においてカビの一種である酵母を使ってパンを焼くことは神がモーゼに与えた律法では禁じられています。聖なる一種間の後、イースターを迎えるにあたり、私達は自分自身の心に隠れている小さな憎しみや妬みなどの精神病理というカビの胞子を取り除かねばなりません。その為には詩編51にあるように、神の恵みを請いながら、清い心を目指さねばなりません。

無知は心のカビにとっての最高の温床を作り上げますから、この今年の四旬節の締めくくりのこの聖なる一週間、改めて心のカビ、胞子の存在を調べ、早期対策に励み、主の復活を清い心で迎えましょう。

Monday, April 22, 2013

Good Shepherd Sunday (Year C) Reflection


This Sunday is Good Shepherd Sunday because this day honors Jesus Christ as the Good Shepherd, reflecting on the Sunday Gospel reading (John 10:27-30).

Though in this segment of the Gospel reading for Sunday Mass itself did not say that Jesus is the Good Shepherd, he identifies himself so in a relevant scene to this Sunday’s reading scene. 

To better appreciate what Good Shepherd Sunday is about – what this Sunday’s Gospel reading is about, I suggest that we read the entire chapter 10 of John. In particular, it is very helpful to read John 10:1-21 to get a better picture of the background of today’s Gospel reading. 

Jesus began to reveal his identity as the Good Shepherd in response to accusation against him for giving sight to a man, who was born blind (John 9). Jesus got in trouble with the Pharisees, whose fat ego always prevents them from believing in and understanding Jesus’ supernatural abilities as they are.  

Jesus’ identity as the Good Shepherd actually makes a smooth connection from last Sunday’s Gospel reading (John 21:1-19).

In the last Sunday’s Gospel reading, Jesus asked Peter to take care of his sheep in his three-fold command (John 21:15-17). In doing this, Jesus was entrusting Peter to lead his mission of salvation. Taking care of Jesus’ sheep is the mission given to Peter as the leader of the Apostles. No to mention, Jesus’ sheep are us. Who followed the Way of Jesus as his sheep, who hears and follow him (i.e. John 10:3-5).

Because Jesus has sheep, he is a shepherd. By the time Jesus asked Peter to take care of his sheep in chapter 21, he had already made his Shepherd-identity known in chapter 10 in John’s Gospel.

As Easter season is when we get to know more about Jesus, the one who has resurrected, through John’s Gospel (every year) and Book of Revelation (Year C), while learning about how the Apostles had changed through their encounters with the resurrected Jesus, through the Acts of the Apostles. 

In this Sunday’s Second and Gospel readings, we see further revelation about Jesus’s identity: the Lamb at the throne (second reading: Revelation 7:9, 14b-17) and the Shepherd (Gospel reading: John 10:27-30). This Sunday’s readings help us understand this dual identity of Jesus: both the Lamb and the Shepherd.
To understand better about Jesus as the Lamb and as the Shepherd, it is important to read Revelation from chapter 5 on to today’s Second reading.

A mighty angel asks who is worthy to open the scroll. Opening the scroll symbolically means engaging in God’s mission of salvation. Because no one can do it, John, who saw this vision, was in despair. But, he was comforted by the fact, the Lion of Judah, from the root of David, can complete this difficult salvific mission of God as the Lamb of God.  Thus, “Worthy is the Lamb that was slain to receive power and riches, wisdom and strength, honor and glory and blessing.”(Revelation 5:12). This also invokes John 10:11, 15, Jesus stating, as the Good Shepherd, to lay his life for his sheep, a metaphor of his Crucifixion to save us (his sheep). 

Revelation chapter 6 describes how this mighty Lion of Judah, as the Lamb to be slain, broke the first six seals of the seven seals in order to open the scroll. Opening the scroll means to execute God’s salvific plan.  Today’s Second Reading (Revelations 7:9, 14b-17) follows this and is followed by the Lamb breaking the 7th seal in chapter 8.

Breaking 6 seals, meaning opening the scroll more, Jesus reveals God’s plan of salvation, the scroll, that those who have endured the great distress will be cleansed by the blood of the slain Lamb (Christ) and will be shepherded by the Lamb to springs of life-giving water, where there is no more tears and suffering.  Therefore, our life, as Christians, sure comes with sufferings and tribulations. 

Because it is a great multitude that no one could count (Revelation 7:9), the object of God’s salvation plan are not limited to the twelve tribes of Jacob (Israel), the Jews. It means that the Gentles are also included in God’s salvific plan. Today’s First Reading (Acts 13:14, 43-52) also indicates this. 

Citing Isaiah 49:6, Paul and Barnabas declared, “It was necessary that the word of God be spoken to you (Jews) first, but since you rejected and condemn yourselves as unworthy of eternal life, we now turn to the Gentiles. For so the Lord has commanded us, ‘I have made you a light to the Gentiles, that you may be an instrument of salvation to the end of the earth”(Acts 13:46-47), as the Jews in Antioch persecuted Paul and Barnabas for speaking God’s salvific plan of Christ, the Lamb and the Shepherd. 

It was jealousy that made the Jews in Antioch angry at Paul and Barnabas to attack them. The Jews became jealous of Paul and Barnabas because their preaching on Christ grew so popular in Antioch, especially among the Gentles there. Perhaps, the Jews in Antioch felt threatened by Paul and Barnabas. While jealous Jews did not appreciate the Word of God on God’s saving plan to lead to eternal life, the spiritually hungry Gentiles became so delighted to learn that they are worthy of eternal life, which Jesus has revealed to lead to as the Lamb of God (Revelation 7:17) and to give as the Shepherd (John 10:28).

After all, this Sunday’s readings is about these words of Jesus, “I am the good shepherd; the good shepherd lays down His life for the sheep.”(John 10:11).  This is perhaps the most important thing in the scroll that the Lamb of God opened to save us. 

Jesus is the Good Shepherd, who came to give his sheep life abundantly (John 10:10).

Jesus is the Good Shepherd, who lays his own life for his sheep (John 10:11, 15).

Jesus is the Good Shepherd, who never leaves his sheep, expose them to danger and let them scatter out of fear (John 10:12).

Jesus is the Good Shepherd, who knows his sheep, and his sheep know him (John 10: 14).

Jesus is the Good Shepherd, who knows his Father and is known by his Father (John 10: 15)。

Jesus is the Good Shepherd, whose sheep hear his voice and form one flock with their one shepherd (John 10:16). 

Jesus is the Good Shepherd, whom Father loves, because he lays his life to take it up again (because he dies and resurrect) …for his sheep (John 10: 17).

Jesus is the Good Shepherd, whose life cannot be taken by anyone but be laid down by him, because he has power to take it again, according to a command he has received from his Father (John 10:18).

So, to put these aspects of Jesus’ identity as the Good Shepherd to this Sunday’s readings, it goes as follows: 

Because Jesus is the Good Shepherd, who lays his own life (John 10: 11, 15, 18), he is the Lamb of God, whose blood saves his sheep, those who believe in him and follow him, by cleansing them with his own blood (Revelations 7:9). 

Not to mention, John 10:27, echoes John 10:16; John 10:28 and Revelation 7:17 echo John 10:10; John 10:29 echoes John 10:12; John 10:30 echoes John 10:17, further revealing the respective qualities, which were expressed earlier. 

Now we know more about our Good Shepherd. Do we know him? Do we hear his voice? Do we follow him? 

Ever since Jesus ascended 40 days after his resurrection, Peter and his successors, Pope, have been shepherding us, commissioned by Jesus, as his Father had commissioned him to take care of his sheep.