Sunday, September 13, 2015

言葉の影に潜む侵略的覇権要素とそれに関わる偏見を意識した言霊を敬う異文化コミュニケーションの重要性

大抵の人は、普段忙しいので毎日使っている言葉についてあまり考えることはないかと思います。しかし、私は、臨床心理、そして、臨床宗教といった分野においてアメリカという多民族、多文化の社会で英語という言葉を主体として様々な言語を母国語とする方々とコミュニケーションをしているので、言葉そのものについて、また、その言葉の背景などについても度々考えることがあります。

先日、異文化適応におけるストレスについて相談にいらしたある在米日本人の方と話していると、日本人なのにアメリカ生活は殆どいつも英語ということに違和感を感じませんか、という問いかけに会話が展開していきました。

確かに、改めて言われてみれば、日本人なのに、ほぼ9割近くのコミュニケーションが英語という外国語であることについて考えてしまいます。英語圏で暮らしているのだから、母国語が何であれ英語でやりとりするのが当たり前といえば確かにそうですが、でも、そうとはいえ、やはり、何かどこかしっくりこないものを感じます。

もし、英語でなく、私たちの母国語である日本語が現在の英語のような世界の普遍的公用語であれば、このような考え込みなどすることはないのでしょうが。。でも、日本語が現在の英語のような世界の公用語的なものであるとしたら、そうなるまでに日本は一体どれだけ数多くの国とその文化や言葉を侵略し、破壊してきたことでしょうか。そう考えると、恐ろしく感じ、やはり、日本語が英語のような世界の公用語的な存在でない故、母国語でない英語でやりとりしていることの方がいいのだと納得します。

そこで、どうして、20世紀以来、英語が世界の公用語的な言語となり、それゆえ、どうして、世界中の学生が競って英語を勉強するようになったのでしょうか、考えてみました。日本でも、英語がよくできることが、あたかも”国際人”であることの常識であるかのように考える傾向があります。でも、どうして、英語でなければならないのでしょうか?

この問いかけについて考える上で、やはり、英語という言葉の背景について触れねばなりません。

当たり前のことですが、英語というのは、もともとイギリス人の言葉です。その英語を母国語とするイギリス人とその末裔にとっての大祖先は、5世紀あたりまで現在のデンマークやバルト海に面したドイツ東北部に居住していたアングル族やサクソン族といったゲルマン人です。

ご存知のように、英語はイングリッシュ。そのイングリッシュというのは、アングロの原型、アングル族のアングルがなまったものだといわれています。これも、英語の歴史を知れば、納得いきます。

ゲルマン人といえば、確か、既に中学の社会科で”ゲルマン人の大移動”という5世紀ぐらいのできごとについて習いましたね。あのアーサー王の伝説もこれに絡んでますから、大抵の人は知ってるでしょう。勿論、バイキングの話を知らない人はいないでしょう。
この現象の一貫として、現在のブリテン島がアングロサクソンの島となったといったことも、高校の世界史や大学教養レベルの英語の歴史の講座では常識です。それまでブリテン島を支配していたラテン語のローマ帝国の統治力が5世紀ごろに緩み、ゲルマン人がやってきて、この島へ入植し、英語という言葉が醸成され始めたのです。

でも、それまでのローマ帝国支配化でも住み続けていたブリテン島の先住民であるケルト人の運命はそれ以降どうなったのでしょうか?英語というアングロサクソン入植者が醸し出し始めた言葉の発展に伴い、ブリテン島先住民のケルト人と彼らの言葉や文化はどうなったのでしょうか? 

これは、ブリテン島に大移動することで乗っ取ったアングロサクソンの末裔が16世紀よりブリテン島から大西洋を渡り北米新大陸へ移住してから、北米大陸先住民達に起こった悲劇に並行できます。アメリカやカナダに行った人なら知ってるでしょう、出会う人達のいったいどれくらいが本当のアメリカ大陸の先住民なのか。。。ニューヨークの街角で、祖先の言葉や文化を今でも維持する純血先住民族とどれくらいの頻度で出会いますか?

アングロサクソンがやってきてから、ブリテン島の先住民であるケルト人は、略奪され、殺戮され、生存者はアイルランドなどへ追いやられた。そもそも、現在の西ヨーロッパの殆どの先住民はケルト人だったんですが。。。ゲルマン人の大移動以来、激減してしまいましたね。

これは、まさに侵略ではないでしょうか?なのに、どうして”大移動”という表現で教えているのでしょうか?ゲルマン人の”大侵略”と教えることはタブーなのでしょうか?そのくせ、日本の大陸や半島への進出だけ”侵略”としなければいけないと固執するのでしょうか?

確かに、帝国主義下のかつての日本の朝鮮半島、台湾、中国大陸などへの進出に侵略的特徴があったことは確かです。これは、安倍首相の戦後70年談話が戦後50年村山談話、そして、戦後60年小泉談話と同様に再認識していることでもあり、私達は反省しなければなりません。しかし、歴史的な反省という名において、日本のかつての侵略的行為のスケールよりも大きい英語という言語を醸成してきたアングロサクソンとその祖先であるゲルマン人による侵略的行為をあえて侵略として認識できないことに疑問視することは別の問題です。こうした問題にチャレンジできない頭脳は、普遍的に使われている言語を操る世界的に影響力のある政治的な力学による偏見に毒され、批判的思考力を失ってしまった危険性があります。戦後の平和教育を受けた日本人の頭脳はそうなってしまったのでしょうか?

そういえば、日本が西洋列強的な帝国主義へ変遷し始めるきっかけとなったペリー提督の黒舟来航、5世紀にブリテン島に侵略しケルト人から奪い取り、そして、16世紀に北米大陸に侵略しチェロキーなどの様々な先住民族から奪い取り、はじめは東部だけの侵略であっても、それに飽き足りず、ミシシッピ川を超え、更に、他の先住民族を殺戮し、追いやり、19世紀半ばまでには西海岸までを征服し、かつては、原住民の様々な言語とスペイン語やフランス語が使われていたミシシッピ川以西のアメリカ大陸が、完全に英語圏となりました。しかし、英語という言葉をケルト人から奪い取って5世紀以来醸成してきたアングロサクソンは、アメリカ大陸西海岸制覇でも飽きたりず、今度は、太平洋の向こうへとその野望の手を伸ばしはじめました。その延長線上に黒舟来航があり、その後、50年以内に、アメリカ西海岸と日本の間にあり、日本とも国交のあったハワイ王国はアメリカとの通商が始まって比較的短い間に、完全にアングロサクソンのアメリカに乗っ取られてしまいました。これは、5世紀のブリテン島、そして、16世紀の北米大陸でのパターンと同じだといっていいでしょう。

こうした背景でもって黒舟が来航。そして、侵略とみなされにくいようにする為に、先ずは、通商を要求してきました。しかし、当時の江戸幕府の役人達は、英国が清国との通商を要求し、清がそれに応じた結果、清と英国にアヘン戦争などの様々な問題が起こり、これがきっかけで、清は英国から侵略され始め、それに便乗して、他の西洋列強も中国侵略を始め、英国のように領土獲得とまではいかなくても、上海などで租借地をむさぼりはじめました。こうした背景の中、しかも、5世紀以来、度重なる侵略により英語という言葉を醸し出し、広めてきたアングロサクソンの末裔が、突然、黒舟で現れ、傲慢な態度で日本との通商を執拗に要求したのです。

当時のアメリカにとって、日本はハワイ同様、イギリスや他の西洋列強にひけをとることなく、中国を侵略征服する為のステップだったのかもしれません。しかし、幕末の日本人は偉かった。だから、屈辱的にアメリカの要求を受け入れたとはいえ、速やかに、西洋列強に負けないように近代化に努めました。勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、などの戦略的思考があったからこそ、ハワイのように日本は英語圏化されることなく、また、香港やシンガポール、更に、フィリピンのように英語漬けにされることなく、日本語を使い続けることができたのです。

今日の国際社会における英語の普及とその国際公用語的な現実の背景にはこうした5世紀以来の侵略と制覇の歴史があり、その流れの中で、実に多くの民族とその言語や文化が抹消され、歪められてきました。世界の国々のあらゆるところで英語を母国語としないのに一生懸命に英語を勉強している人達のうち、一体どれくらいの方々がこうした英語の背景いついて知っているのでしょうか?まあ、英語を実用的な外国語として学ぶ人達の多くは、そのようなことに無関心なのでしょう。そもそも、英語とは彼らの功利主義や実用主義の便利な道具なのですから。

しかし、こうした実用主義を重視するだけの薄っぺらい英語教育には、一方的な観点からしか教えない歴史教育と同じ危険が潜んでいるのではないでしょうか?

こうした目先だけの実利的教育では、日本でも、世界の国々のどこでも、英語教育に熱を入れながら、歴史教育ではゲルマン人のブリテン島侵略を単なる”大移動”とし、新大陸へのアングロサクソンなどの白人入植を”侵略”として教えず、あたかも、賞賛すべきパイオニアスピリットの成果としての文明化の民族移動であるかのように教えていますね。それに、かつての大英帝国の数世紀にも及ぶアジアアフリカ侵略と搾取については殆ど道義的問題を提議するよりも、寧ろ、誇らしげに語り継ぎ、その賜物として、アメリカ覇権主義の産物同様、英語が現在の国際社会で公用語的な地位を占めているということを教えることは殆どありません。

日本がもし、明治以来、こうした西洋列強の模倣をし続け、列強を徹底的に駆逐し、その植民地を占領統治したまま戦争に勝ち続けていれば、英語を母国語とするアングロサクソンではなく、日本語を母国語とする日本人が世界の覇権を握り、国連を操り、必然的に日本語が世界における公用語となっていたかもしれません。そうであれば、徹底的な洗脳教育をその政治的影響力で行い、だれもが日本語の普及の背景には度重なる侵略的な歴史があることを問いかけたりせず、ただ実利的な目的で世界の公用語となった日本語を競って学ぶことでしょう。しかし、こうした世界制覇はアングロサクソンとその末裔によるものとなった。よって、彼らの言葉である英語が世界の公用語となり、国連での第一言語ともなったのである。そして、こうして世界の覇権的な公用語となった英語の侵略的な歴史について問うことはあたかもタブーであるかのようにもなった。こうした状況をあまり知らずに、世界中の学生やビジネスマンが一生懸命に実利性の為に英語を学んでいるのが現実です。そして、英語を母国語とするアングロサクソンをはじめとする英語圏に生まれ育った人達、所謂、英語のネイティブスピーカー達は、ただそれだけで、非英語圏の国々で英語を教え、利潤を享受できるんです。自分が母国語とする英語にこうした侵略的な歴史があるからこそ、母国語はお金になるんですね。しかも、こうしたネイティブスピーカーの英語の先生は、英語圏の歴史の背景にあるパイオニアスピリットについて誇らしげに語る傾向があります。

一方、日本は蝦夷と琉球を同化させ、台湾、朝鮮、満州、樺太などと同化への試みを拡張させたが、完遂できなかった。よって、日本語の侵略的な普及範囲はアングロサクソンの英語に比べ、また、英国やアメリカ以前に世界の派遣を握っていたスペインの言葉、スペイン語、などに比べ、実に限られたものである。よって、現在の日本語の世界的な普及は、侵略的な要素からではなく、平和的文化交流によってなされています。

パイオニアスピリットといえば、日本の蝦夷樺太開拓、台湾統治、朝鮮統治、満州進出、満州国建国もそうじゃなかったではないですか?これらの土地は、日本人入植(日本人の”大移動”、”侵略”)以前は、殆ど未開拓で生産性の低い土地でした。それなのに、どうして、日本が行ったことだけが”侵略”とされ、ゲルマン人であれ、その一部であるアングロサクソンであれ、それらを含めた白人が同じことすれば、ただの”大移動”であり、パイオニア精神であり、文明化開拓であって、”侵略”と表現しないのでしょうか? こうしたギャップは偏見によるものではないと断言できるでしょうか?

日本人が先述の地域に入植してから、日本語教育を行い、同化政策を行いました。しかし、日本人による入植により、女真族、朝鮮民族、中華民族、台湾原住民などに対し、アングロサクソンによるケルト人の迫害、そして、アメリカ先住民への迫害のようなことが起こったのでしょうか? 

今、かつての満州、中国東北部に行けば、女真族と出会う頻度はアメリカの主要都市でアメリカ先住民に出会う頻度と等しいでしょうか?女真族の減少は、日本統治よりも、中華民族による民族浄化政策によるものが大きいのではないでしょうか。同じように、台湾原住民の減少も、日本統治よりも、中華民族による支配によるものが大きいのではないでしょうか。また、現在、朝鮮半島にいけば、朝鮮民族と出会う確率は、英国でその先住民であるげーリックなどのケルトの言葉を話すケルト人とであう確率と同じでしょうか?

侵略し、先住民から奪い取り、殺し、追いやったアングロサクソンなどのゲルマン人の蛮行は侵略ではなく、”大移動”であり、賞賛すべきパイオニア精神によるもの。でも、日本人が”大移動”し、入植すれば、憎むべき”侵略”。これが世界の常識とさせてしまったのは誰なんでしょうか? そして、この延長線上に東京裁判史観があり、戦後の日本教育があるといえましょう。その背景には英語を母国語とするアングロサクソンとその末裔がいました。だから、東京裁判も英語でしたね。

おかしいなと思いませんか?

このような批判的な問いかけをするからといって、かつての日本の西洋の模倣である帝国主義や武士道を忘れた軍国主義を肯定したり、こうした過去の間違った日本がアジア諸国の人達にもたらした苦しみを否定しようというのではありません。

まあ、福沢諭吉のような西洋被れの考え方では理解できないかな?彼は、勝海舟と違って、咸臨丸でアメリカを訪問してから、一転して、アメリカ被れ、西洋被れとなり、帰国後、脱亜論を提唱し、その後の明治政府の入欧脱亜論の礎となり、ひいては、かつての日本の帝国主義の侵略的要素の根底にもあったのです。どちらもかつての日本帝国主義に影響したとはいえ、福沢の脱亜論は、平岡浩太郎や頭山満などによる玄洋社のアジア主義的な考えと対照際立つものです。

そもそも、みんな一生懸命習いたがる英語、世界の共通語って言いますが、そして、それ使えると確かに便利ですが、忘れてはいけないのは、この英語の歴史は、アングロサクソンの血生臭い”大移動”という欺瞞的な言葉の背後にある侵略によって普及したことです。だから、アングロサクソンの血を引かない私達は、いくら英語に堪能となっても、決して、祖先から受け継いだ大和言葉とその言霊を忘れてはなりません。だから、文系教育をつぶそうとする最近のお上のやりかた、非常に危険です。下手すると、中国による民族浄化政策のような問題となり、大和民族にとっての精神的、実存的危機をも招きかねません。言霊の考えから言えば、祖先から受け継いだ言葉を知らない民族なんて、ただの生物学的な存在でしかなく、精神的に死んでいるのと同じです。

このことは、大和民族との接触により、祖先からの言葉を失いつつあるアイヌや琉球民族などの、所謂、日本の少数民族といわれる人達の問題でもあります。このことは、大和民族の蝦夷、琉球への”移動”も、それなりに、ゲルマン人のブリテン島への”移動”にあった侵略的な要素があったことも確かです。だからこそ、アイヌや琉球の言葉、それに、様々な日本各地の方言などを消滅させない努力をし続けねばなりません。また、アイヌや琉球民族の言語が、蝦夷や琉球への大和民族の入植により抑圧され、今では、その存続の危機にあるということは、日本語を母国語とする私たち日本人が反省しなければならないことです。そもそも、こうした大和民族の歴史とその言語である日本語の歴史の背景には、ゲルマン人の派生であるアングロサクソンの歴史とその言語である英語の歴史的背景に並行できる侵略的要素が否めないことを認識することが大切です。こうした謙虚な認識と反省に基付いて、改めて、大和民族、日本人として日本語を母国語とし、国際人として国際的公用語といえる英語を使いながら、大和民族の日本語との接触により存続の危機にあるアイヌや琉球の言葉、そして、アングロサクソンの英語の広まりにより失われてたり、存続の危機に晒されてきた様々な民族の言葉についても考えることが大切です。

英語であれ、日本語であれ、何であれ、普段私達は言葉を何気なくコミュニケーションの道具として使っています。しかし、どの言葉にせよ、それぞれの言葉には、それを母国語とし、それを醸成してきた民族とその歴史があることを忘れてはいけません。そして、こうした言葉の背景には、様々な他の言葉とそれらを母国語とし培ってきた他の民族とのダイナミックな交流があり、その中には、侵略もあったということを認識せねばなりません。また、それにより失われたり存続の危機にある言葉とそれらを母国語としてきた民族についても理解しなければなりません。

こうした認識でももって母国語であれ様々な外国語であれ、世界中の人達とコミュニケートできれば、異文化間の国際的関係も、歴史的反省を踏み石として、より建設的で意義深いものとなるのではないでしょうか?なぜならば、こうした認識は、対話の相手のそれぞれの言葉にある言霊への思いやりにも繋がるからです。

これからの異文化コミュニケーションは、言霊にも気を使った、単に心のレベルだけでない、魂のレベルでの意思伝達、相互理解の手段でありたいものです。それと同時に、アングロサクソンであれ、何であれ、世界で普遍的な言葉をかもし出してきた民族による欺瞞的なビジョンに私たちの見方考え方を汚染させてはいけないということです。悲しいことに、先述の福沢諭吉は、アメリカの物質文明に圧倒され、大和魂を失ったともいえましょう。それに、いつの間にか、我々の先祖の素晴らしい八紘一宇のビジョンがかつての日本帝国主義の侵略の哲学であると白人の欺瞞的なビジョンによりすりかえられてもいますし。とはいえ、間違った八紘一宇の考えは、大和民族とその言葉である日本語の歴史の流れの中で、同化という名で侵略されたアイヌ民族や琉球民族の文化と言葉の事実への認識に対して盲目的にしてしまう危険があります。

国際人(私は、この薄っぺらい無意味な言葉は好みません)というよりも、国際的センスがある日本人として、世界中の人達と異文化、多文化コミュニケーションをする上で、ただ実利的に英語を使いこなすのではなく、英語という言葉の背景にある侵略的要素を認識しつつ、更に、私たちが祖先から受け継いできた日本語を大切にする一方で、日本語にも英語と同じような侵略的要素があったということをも認識することが重要です。そうすることで、私達は、国際社会で英語を運用する上で、英語を母国語としない人達とのコミュニケーションにおいて、英語を母国語とするアングロサクソンなどの人達よりも、より繊細な思いやでもって相手の文化と言葉を尊重し、日本文化や日本語への関心を高めていただけます。

そもそも、大和民族としての日本人は、世界にも類を見ないほどのもののあわれの感受性による美の感覚を持ち、視覚的な芸術作品だけでなく、日本語という言葉によってもその感受性と美的感覚を表現し続けてきました。日本語という言葉の背景には英語にはないこうした感情的豊かさと美しさがあるのです。そして、更に大切なのは、大和民族は言霊を大切にする民族であるということです。このことが顕著に示されているのが万葉集をはじめとする和歌です。例えば、万葉集五巻八九四で山上憶良、”神代より言ひ伝来らく そらみつ大和(倭)の国は 皇神のいつくしき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり 今の世の人もことごと 目の前に見たり知りたり”、と詠んでいます。 

つまり、日本は古来より言霊に恵まれた国であると言い継がれているということです。更に、続日本後紀の第十九には、”倭の国は 言玉の 富ふ国とぞ 古語に 流れ来れる 神語に 伝へ来れる 伝へ来し”、と記し、言霊の豊かさが日本を特徴付けるものであることをしましています。そして、大鏡第一巻には、” いはひつることだまならばもの年ののちもつきせぬ月をこそみめ”、とあり、祝福の言霊なら恒久に尽きることはないと表現し、鈴木重胤による祝詞講義には、事の極みは言語より外無し。然れば、言語は人の霊を導 くの使命なる事云も更なり言語は霊を導き、霊を養ふの器たる事明なり”、とあり、物事の真髄は言霊を持つ言葉で示すことができ、言葉は人の命の真髄である霊を導き養う器でもあると定義しています。これは、ルドウィック ビトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の形而上学的な言語の民俗学における重要性についての議論とも相通ずるものがあると言えます。

私達日本人にとって、言葉は人間の生命の真髄である霊の器であり、こうした言霊による言葉により単に心のレベルを超えた、霊的、スピリチュアルなレベルにおいても以心伝心でき、とりわけ、相手を祝福することではその霊的な力が無限である素晴らしいものであります。一方、そうした言霊を含む言葉を悪用すれば、それは、相手に対する呪いのようなものともなり兼ねず、それ故、相手の言葉だけでなく、その人の心や霊までも侵略してしまう恐ろしい力ともなるのです。こうした言霊の二面性を認識し、相手の尊厳への侵略的な手段にしないことが大切です。

更に、お互いの言葉の背後にある言霊を無視したコミュニケーションは、その意図の如何にかかわらず、経済的政治的勢力などの不均衡さから、侵略的な結果をもたらしかねないということ、そして、このような状態に陥れば、被侵略者の言葉や文化の背後にある価値観が歪められるということを肝に銘じておかねばなりません。

こうした配慮を怠らずに、大和民族か古来より伝承してきた言霊本来の素晴らしさである、相手を敬い祝福できるような態度でもって、国際的センスのある日本人として世界中の人達との思いやりのある異文化多文化コミュニケーションこそ、英語の運用力以上に大切なのではないでしょうか。

こうしたテーマについてさらに詳しく、社会心理学のバイアスの概念や、社会心理学の一部門である文化心理学やその同列にある文化人類学を、ユングなどによる深層心理学や密教にある唯識論などを含めて学ぶと更に言葉と言霊の民俗学的な意義への理解が深まり、よりよいコミュニケーションが可能となるはずです。

英語であれ日本語であれ、どの言語にせよ、自分の文化的先入観による偏見から言葉を相手に発すると、それは、相手にとっての霊的な侵略となりかねないのです。


自分が使っている言葉が多文化国際社会の中で英語のように普遍的なものであるほど、その言葉の歴史の流れの中で沢山の言葉とその文化が侵略され、それを母国語としていた人達の霊もが傷つけられてきたことを認識しつつ、こうした悲劇を繰り返すことがないように、そうした言葉を運用していきましょう。

ただ便利だから、国際人だからといったような利己的、実利的な理由で英語を学び、英語のような実用性がない母国語の学習を疎かにすることで、先祖から伝承される文化と言霊を忘れてしまうようであれば、他の英語を母国語としない人に対して侵略的な態度を取るリスクが高くなることも肝に銘じておきましょう。それが、アングロサクソンの何世紀にも渡る侵略の歴史を反映した英語の背景からの教訓であり、また、アイヌや琉球の言葉を侵略した日本語の歴史からの反省でもあるのです。

Saturday, September 5, 2015

Ephphatha! Jesus Removing Obstacles out of Spiritual Pathways

In the Gospel reading for the 23rd Sunday in Ordinary Time (Cycle B), Mark 7:31-37, perhaps, Jesus’ Aramaic word, “ephphatha” is a very powerful word to register in our heart. The word, in English, can mean “be opened”.

The Gospel narrative (Mark 7:31-37) describes Jesus healings the speech and healing impediment of a Galilean. But, in reviewing the flow in the Sunday Gospel readings from the 17th Sunday on to this Gospel reading for the 23rd Sunday, I am convinced that  “ephphatha”, as spoken out of Jesus’ mouth, is intended to open up our “spiritual pathways, removing obstacles between God and us. This is symbolic to healing our spiritual ignorance.

On Cycle B, the Gospel readings from the 17th Sunday to the 21st Sunday in Ordinary Time (John 6) and the Gospel reading for the 22nd Sunday (Mark 7:1-8, 14-15, 21-23) describe how our spiritual ignorance (agnoia) responds to God’s grace (John 6) and deals with the Law (Mark 7:1-8, 14-15, 21-23).

In John 6, the spiritual ignorance let people chase Jesus not to appreciate his divine salvific power’s signs but simply to be fed again and again. As he began his Bread of Life Discourse, Jesus reminded the Galileans, who were miraculously fed to satisfaction (John 6;1-15)  but still live in hunger (peina), were ignorant about the meaning of his miraculous sign in the feeding (John 6:26). This suggests that the Galileans’ hanger recurs as long as they remain ignorant.

The Bread of Life Discourse (John 6:22-59), which is read from the 18th to the 20th Sunday in Ordinary Time (Cycle B),  describe Jesus’ Bread of Life Discourse, as his way to help such ignorant Galileans to wake up to the truth that their ignorance (agnoia) keep them in an endless samsara-like cycle of hunger (peina) and to become awaken to the meaning of the Living Bread of Life that Jesus is offering as his self gift to overcome this problem. However, as John 6:60-6, which is read for the 21st Sunday, describe, they choose to remain ignorant and their ignorance prompted them to reject Jesus and what he offers: the Living Bread of Life. Because of their ignorance, they were unable to understand the hidden meaning in the Living Bread of Life (ho artos ho zon), which is symbolized in Jesus’flesh (sarx) and blood (haima).  And, the meaning if the essence of life as both sarx and haima are metaphor of life (zoe) and its essence. In other words, their ignorance prompted the Galileans to reject life that Jesus offered and let them remain in their life of ignorance and hunger. Ignorance keeps them in ignorance and insatiable hunger.

In Mark 7:1-8, 14-15, 21-23, which is read for the 22nd Sunday, the spiritual ignorance (agnoia)  is described with the Pharisaic fundamentalism toward the Law. Therefore, what is common in these Gospel narratives is that our spiritual ignorance is a stumbling block to our transcendence, which is a necessary condition to understand Jesus and his teaching – to appreciate what he offers, namely, what God provides – grace and the Law.

The transcendence is about taking our senses beyond physical and natural phenomenon into mysterious, spiritual, and supernatural phenomenon, as Jesus intended in his Bread of Life Discourse. It is also about liberating our consciences from the Law to the cleanliness of our heart. In his epistle to the Romans, Paul further address this matter.

As the spiritual ignorance grounds our senses to natural and physical world, it also keeps us as slaves of the Law. That is why ignorant people, such as the Galileans in John 6 failed to understand the spiritual aspect of the miraculous feeding and the spiritual aspect of the Living Bread of Life.  And, this resulted in rejecting Jesus – the Messiah.  The same problem blinded the Pharisees’ spiritual eyes to the inner defilements and kept in an illusion of fundamentalist observance of the Law.

The Gospel reading for the 23rd Sunday (Mark 7:31-37) symbolizes the removal of this stumbling block – the spiritual ignorance, with Jesus’ powerful word of ephphatha!

Of course, if you choose to remain spiritually ignorant, Mark 7:31-37 is a mere miracle healing story of Jesus curing a man with speech and hearing impediment – just as the ignorant Galileans regarded the Jesus’ miraculous feeding only as a material and physical feeding event, rather than a spiritual sign, even Jesus later explained this spiritual aspect through the Bread of Life Discourse. But, if you let Jesus remove the obstacle, which is ignorance, then, your spiritual path ways get unclogged and opened up. Then, you can appreciate Mark 7:31-37 as a narrative of Jesus’ work of opening our spiritual senses to overcome ignorance through a metaphor of healing the hearing and speech problem.

As our ignorance is removed, we can hear the Word of God and can speak right words, accordingly. We live a life of wisdom, rather than a life of ignorance. Because of the reciprocity between wisdom and the   Holy Spirit (Isaiah 11:2), a life of wisdom is a life in Spirit (Romans 8), as well as life lived according to the gifts of the Spirit (Ephesians 5:22-23), which correspond to the cardinal (heavenly) seven virtues to counter seven deadly sins (vices).  As Paul extensively describes in Romans 8, a life in Spirit, which is a life of wisdom, free from ignorance, is also a life of transcendental freedom. Therefore, in this freedom, we no longer suffer from fundamentalist mentality, which grounds us only to what human senses can understand – namely, natural reality. In this freedom – a life of wisdom – a life in Spirit, we understand that the Living Bread of Life leads us to resurrection and eternal life, as it is the spiritual food, rather than a natural food. We also understand that flesh and blood of Jesus, which are what Jesus describes as the Living Bread of Life, symbolizes the very essence of Jesus’ life that comes through the Living Bread of Life. We do not get trapped in literal expression, such as flesh and blood. Likewise, we do not become apprehensive about the letters of the Law, as our focus is to keep our heart free from defilements.

To rejoice in a life of wisdom, a life in Spirit, a life in light, and life in the risen Christ, as Paul says, we must first let our life in flesh be crucified (Galatians 2:20, 5:24  ) in order to overcome our defilements, rooted in our carnal desire (epithumia)  – to cleanse our heart of leaven of the Pharisees (Matthew 16:6), as this “fungi” all the problems with defilements, including ignorance (agnoia) and hunger (peina), as well as other carnal desires (epithumias) arises, as indicated in Mark 7:21-23, as read in the Gospel reading for the 22nd Sunday.


Let Jesus shout “ephphatha” to us – to unclog our spiritual pathways for our heart’s cleansing, so that we our spiritual eyes can see and our spiritual ears can hear (i.e. Isaiah 35:5) – so that the Holy Spirit is upon us to keep us in a life of wisdom, keeping us from a life of ignorance, as in Isaiah 11:2.