Tuesday, January 3, 2017

新年の誓い:歎異抄と福音書を通した自戒のすすめ




新年あけましておめでとうございます。本年もこのブログをよろしくお願いいたします。

さて、新しい年の年頭といえばやはりnew year’s resolutionと言われる新年の誓いですね。今年こそ、こうしたこと、ああしたこと、をやってのけるぞ、といった自分自身への近い。自律による自戒の念がこもっています。しかし、いったいどれくらい持続できるのか、ちょっと不安なことも否めませんね。

新年の誓いをより持続可能なものとし、その勤めが意義深いものとする為にも、自分はいったい何を戒め、その為にはどのようにして自分を律していけばいいのか真剣に考えねばなりません。そこでちょっと改めて読んでみたくなるのが“歎異抄”です。なぜた新年の誓いをたてて実践精進していく上で“歎異抄”なのというと、“歎異抄”は親鸞聖人がその教えで指摘した正しい信心による生き方とそのそうした正しい生き方とはかけ離れた生き方のギャップを修正せしめんとする指針となるからです。つまり、私達が新年の誓いをたてる理由は、私達は本来、信心のよる生き方、或いは、そのような正しい生き方を実践したいという願望を持っているからなのであり、こうした意味において、“歎異抄”は私達の心にある正しい生き方をする為の、反省に基付いた羅針盤となるものです。そして、“歎異抄”だけでなく、これに類するものや並行比較できる教えをも参照したいものです。

ところで、親鸞聖人の弟子である唯円が記したと言われる“歎異抄”はいったい何について歎(嘆)いているのでしょうか?

前半十章において親鸞聖人の教えが師訓十章として記されいますが、これと対照して、後半の八章が人々の信仰のありかたへの批判が異議八章として記されています。ここにいて、人々の信仰の現実が親鸞聖人の教えである本当の信心とは違うものである現実を歎いていることから、つまり、あるべき姿と現実が異なっていることを歎いていることを記しているから歎異抄なのです。

これはイエスが当時のユダヤの現実が神がシナイ山でモーゼと交わした約束とはとてもかけ離れたものであることを嘆き、つまりlamentして約束の更新をせんとしたことをイエスの弟子達が記したされる新約聖書の福音書とも比較できるかと思います。

そもそも、法然聖人の弟子であった親鸞聖人は、鎌倉時代において、平安時代の貴族政治体制に癒着して腐敗していた日本の仏教を、改革、改新せしめんとしただけでなく、当時の武家封建体制に支持された禅宗に対し、形式ばったことなどよりもよりも、念仏によって阿弥陀様の本願に素直に生きていく一般民衆の日常生活に密着した仏教としての道を示そうとしました。このことは、イエスが当時偽善的な宗教指導者によって腐敗していた宗教体制を批判しその改新を腐敗した宗教体制によって抑圧されたり疎外されたりしていた人達のレベルから改新していく運動を起こしたことと相通ずるところがあります。

つまり、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願への回帰を“南無阿弥陀仏”(阿弥陀仏に南無、つまり、自我を捨てて素直に帰依いたします)の心で精進することを説き、イエスは自らの身をもって父なる神のヘブライ語でいうchesed or hesed (חֶסֶד)という慈しみのある愛に回帰することを教えました。そして、イエスは自分自身をこの愛を本願とする父なる神へ回帰への唯一の道でありかつこの本願の真実そのもの(ヨハネ14:6)であるとも説きました。

年頭にあたり、私達は新しい一年を通して精進していくことの誓いをたてますが、それが具体的に何であれ、阿弥陀仏の本願、或いは、父なる神の本願、といった計り知れない智慧への回帰を目指すものにしたいと思います。

除夜の鐘を108回鳴らすことで108あると言われる煩悩を払いのけ、清められた心でもって迎え入れた新しい年です。これに先立ち、カトリックのクリスチャンは、洗礼者ヨハネが教えたように悔い改める心でもって12月25日の主キリストの降臨(クリスマス)を迎え入れ、キリストと共に父なる神への道を歩んでいく決意を新たにしました。この一年を通して、主イエスキリストの降臨を迎え入れた喜びの清い心、そして、除夜の鐘の効果を維持する為にも、改めて神や阿弥陀仏の本願からかけ離れた私達の生き様の現実を嘆き、反省し、常に本願への回帰をする努力を怠らぬように精進しましょう。

新年の誓いは、旧年中の生き方にみられた信心による生き方との違い、つまり、阿弥陀仏の本願、或いは、神の本願、からかけ離れた私達の勝手な思いとの違い、を素直かつ謙虚に自覚し反省した上でなければ、また同じ過ちを繰り返す確率が高くなります。こうしたことを鑑みても、“歎異抄”を福音書と比較対照しながら読み直したいものです。

私達の新年の誓いが、自我無きものであり、反省と自戒による本願達成の為となりますように。阿弥陀仏の本願を更に超えて神の本願とするならば、キリスト教的にみれば、こうした無我の本願達成の為の誓いはAd Majorem Dei Gloriam、という神のより偉大な栄光の為でもあります。