Wednesday, March 15, 2017

有限の中の無限:円周率、数学教育、スピリチュアルな喜び



昨日、3月14日は国際的なパイ、つまり、円周率、の日でした。そこで私は自分のフェイスブックで関孝和の円周率に関する貢献について紹介しました。その時、思ったのは、円周率というのは、とどのつまりは、人間にとって、近似によってしか把握できないもので、それは関孝和が図で示したように、円という有限の世界の中で近似という概念でしか見出せない無限の世界を垣間見るような好奇心的な喜びではないかと言うことです。そして、こうしたことが、宗教、信仰心をもつことにあるスピリチュアルな喜びにもつながるのではないかと思います。


関 孝和がやってたように、円周率を考える上で、円に内接する多角形の角の数を増やし続けることでその多角形ができるだけそれを囲む円に近つくことは数式を敬 遠しがちな自称数学嫌いの人でも視覚化できますよね。数学っていうのはごちゃごちゃ数式暗記することに労力を費やすのではなくこうした視覚化能力をまず幼 稚園の頃から鍛えることが大切なんですが。。こんなことを幼稚園の図画工作の時間に紙と鋏を使って楽しく遊びながら、小学校へあがるまでに数学的センスを 涵養できるんですよ。しかも、この教育法は,Piagetの認知能力発達理論にも沿ったものです。まあ、兎に角、小学校を卒業できる能力をもっている人であればだれでもこのことは理解できます。




















さて、じつはこうした視覚的想像が高校で習う無限と連続という微積分のイントロだと気がつく人は意外と少ないものです。そして、このような教え方で数学を教えて飯食ってる教師も案外多くないのが残念ですね。大抵、多くの数学教師は受験テクニック的なことを教えるのに明け暮れてますから。だから、いい数学教育というのはこうして幼稚園の子供でもわかるような視覚的な概念をできるだけ駆使してやるのが一番です。でも、視覚障害のある学生への数学教育となるとそうは問屋がおろさないので、相当な工夫とparadigm shiftが要求されます。視覚障害と言っても、先天性の場合と後天性の場合があり、後者のケースではある程度の視覚経験があるのでそれを基に想像力を引き伸ばして教える事ができます。しかし、前者の場合、生まれ付き目が見えないのでこうした教え方は、ある意味では不可能に近いものかもしれません。こうしたことは、この場では説明できないので、失明の病理に詳しい、私の高校時代の同級生でもある眼科医の清水朋美先生などの考えを取り入れながら取り組んでいきたいと思います。


兎に角、Piagetの理論にもあるように、人間の認知的知能というのはいきなり抽象的な議論ができるようになるものではありません。どんないい車でも、いきなり一速ギアから五速ギアへぶっ飛ばせるのは無いですよね。人間の脳の発達もこれと同じようなもんなんです。だから、Piagetも論ずるように、先ずは、五覚による体験を幼い頃に充分しておき(だから、保育園や幼稚園でのお遊戯や図工は大事なんです!)、そして、その記憶を基に徐々に発展させていくものです。特に、理数教育というのは幼稚園から高校、そして、大学まで、このパラダイムによって行うものなのです。そうでないと、そのような抽象論というのは一種の幻想でしかないかもしれません。

話を戻しますと、円に内接する多角形の角の数を無限に増やしていくと、それはやがて外接する円となると仮定でき、それを”証明”したがるのが数学者です。まあ、大学で数学を専攻しなくても、高校の微積分で習う極限値の概念でもってこの数学的仮定の妥当性にうなずくことができるでしょう。

関孝和も実は、鎖国時代、Leibnitz NewtonEuler などの西洋の微積分を構築した西洋の数学に触れることなく、独自の円周率についての研究から極限についての概念、そして、それを土台とする微積分の考えへと発展させていたのです。まあ、もしかしたら、オランダ人が”密輸”って言うか、お土産としてもってきた西洋の数学書をひっそりと勉強してたかもしれませんが。。。



で、円に内接する多角形の角の数を無限に増やすとその極限は外接円に等しくなるという仮定は、実は、統計学の正規分布などの分布グラフの数学的理解においても同じことなのです。理系志望者は高校で既に統計学の基礎をマスターしてますが、そうでなくても大学で統計概論をとった人であればこのことは理解できます。でも、この極限的近似法が、幼稚園の図工の時間でもできるような円に内接する多角形の極限近似と本質的に同じものであることに気がついた人は何人いるでしょうか?



小学校の算数、多分、3、4年、でヒストグラムについて”棒グラフ”、という名前で習います。そう、算数で”グラフと表”という概念を確か既に2年生ぐらいから習い始めますよね。これも、数量をイメージできるようにする視覚化パラダイムの一つです。で、高校の確率統計のはじめに、かつて小学校の”グラフと表”の項目でならった棒グラフ、つまり、ヒストグラム、をまず再検証します。で、その中央値をmedian, 最頻値をmode、そして、平均値をmeanという横文字で習い、更に、これら3つのstatistical central tendency indexesが一致する場合において正規分布、normal distribution、となる、と習いました。で、大抵の高校や予備校の先生は、正規分布のカーブの中にヒストグラムを合わせて、このヒストグラムの無限極限近似が正規分布のカーブになると仮定できる、ということを教えてくれたはずです。そして、こうした理解を得て、大学に入学し、大学の統計学の講座で、正規分布の曲線グラフを確率密度関数という微積分レベルの数学で検証すると、関孝和が描いた円に内接する多角形の極限近似と微積分の関係と同じようにヒストグラムの極限近似も微積分的にすんなりと理解できるんです。






要は、世の中、白黒はっきりわかりにくい事がありますが、あまり神経質にならず、極限的近似ですべてを収めればいいんです。

近似のありがたさを極限までもっていける楽しさを数学教育で得た人は幸せですね。というのは、いつまでもいつまでも無限に続くと仮定できる円周率の数を追い掛け回して人生費やすよりも、無限の喜びを限られた時間に感じることを経験、例えば、彼女、嫁さん、(或いは、彼氏、旦那)が瞬くあの一瞬を盗み取るが如く、”ぶちゅっ!”とキスして、二人で無量の愛の喜びを分かち合うとか。。。



限られた時空間の中で何か無限、無量、なものを体験すること、これは、一瞬という刹那の時空で無限無量の愛の喜びを分かち合う男女の体験であれ、関孝和がやった円という限られた空間の中に多角形を内接させ、その角数を無限に増やすという円周率の研究であれ、本質的には同じことなんです。


一見有限な時空、たとえそれが儚きものであっても、その中に何か計り知れない無限なものを認識し、それを喜ぶことができる、というのは、円周率、微積分、そして、日本人の心を象徴すべきものともいえる”もののあはれ”の概念、にもつながるのではないでしょうか。更に、南無阿弥陀仏の念仏にある、阿弥陀という言葉が”amita”というサンスクリット語で意味する、無量性、を認識することで無限大の仏の慈悲と智慧に触れる喜び、また、キリストの教えにある人間の知恵を超越したところにあっても信仰という心の持ち方しだいで限られたこの世の人生において身近に体験できる神の王国といった宗教的、スピリチュアルな概念や体験にもつながるものではないでしょうか。と言うことは、円周率や正規分布を視覚化と微積分的な極限近似などを通して数学を学ぶ本質はスピリチュアルな体験の醍醐味へ連動するものだといえます。





私が教授として雇ってもらいたい”バカ田大学”では、このことを”これでいいのだ!”と結論する、というか、そう仮定し、そして、その正当性をその無限極限において”証明”できます。やっぱり、”これでいいのだ!”。だから、これ以上、あれこれと議論しても人生の無駄なのだ!だから、今日はここでお開きなのだ!





Tuesday, January 3, 2017

新年の誓い:歎異抄と福音書を通した自戒のすすめ




新年あけましておめでとうございます。本年もこのブログをよろしくお願いいたします。

さて、新しい年の年頭といえばやはりnew year’s resolutionと言われる新年の誓いですね。今年こそ、こうしたこと、ああしたこと、をやってのけるぞ、といった自分自身への近い。自律による自戒の念がこもっています。しかし、いったいどれくらい持続できるのか、ちょっと不安なことも否めませんね。

新年の誓いをより持続可能なものとし、その勤めが意義深いものとする為にも、自分はいったい何を戒め、その為にはどのようにして自分を律していけばいいのか真剣に考えねばなりません。そこでちょっと改めて読んでみたくなるのが“歎異抄”です。なぜた新年の誓いをたてて実践精進していく上で“歎異抄”なのというと、“歎異抄”は親鸞聖人がその教えで指摘した正しい信心による生き方とそのそうした正しい生き方とはかけ離れた生き方のギャップを修正せしめんとする指針となるからです。つまり、私達が新年の誓いをたてる理由は、私達は本来、信心のよる生き方、或いは、そのような正しい生き方を実践したいという願望を持っているからなのであり、こうした意味において、“歎異抄”は私達の心にある正しい生き方をする為の、反省に基付いた羅針盤となるものです。そして、“歎異抄”だけでなく、これに類するものや並行比較できる教えをも参照したいものです。

ところで、親鸞聖人の弟子である唯円が記したと言われる“歎異抄”はいったい何について歎(嘆)いているのでしょうか?

前半十章において親鸞聖人の教えが師訓十章として記されいますが、これと対照して、後半の八章が人々の信仰のありかたへの批判が異議八章として記されています。ここにいて、人々の信仰の現実が親鸞聖人の教えである本当の信心とは違うものである現実を歎いていることから、つまり、あるべき姿と現実が異なっていることを歎いていることを記しているから歎異抄なのです。

これはイエスが当時のユダヤの現実が神がシナイ山でモーゼと交わした約束とはとてもかけ離れたものであることを嘆き、つまりlamentして約束の更新をせんとしたことをイエスの弟子達が記したされる新約聖書の福音書とも比較できるかと思います。

そもそも、法然聖人の弟子であった親鸞聖人は、鎌倉時代において、平安時代の貴族政治体制に癒着して腐敗していた日本の仏教を、改革、改新せしめんとしただけでなく、当時の武家封建体制に支持された禅宗に対し、形式ばったことなどよりもよりも、念仏によって阿弥陀様の本願に素直に生きていく一般民衆の日常生活に密着した仏教としての道を示そうとしました。このことは、イエスが当時偽善的な宗教指導者によって腐敗していた宗教体制を批判しその改新を腐敗した宗教体制によって抑圧されたり疎外されたりしていた人達のレベルから改新していく運動を起こしたことと相通ずるところがあります。

つまり、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願への回帰を“南無阿弥陀仏”(阿弥陀仏に南無、つまり、自我を捨てて素直に帰依いたします)の心で精進することを説き、イエスは自らの身をもって父なる神のヘブライ語でいうchesed or hesed (חֶסֶד)という慈しみのある愛に回帰することを教えました。そして、イエスは自分自身をこの愛を本願とする父なる神へ回帰への唯一の道でありかつこの本願の真実そのもの(ヨハネ14:6)であるとも説きました。

年頭にあたり、私達は新しい一年を通して精進していくことの誓いをたてますが、それが具体的に何であれ、阿弥陀仏の本願、或いは、父なる神の本願、といった計り知れない智慧への回帰を目指すものにしたいと思います。

除夜の鐘を108回鳴らすことで108あると言われる煩悩を払いのけ、清められた心でもって迎え入れた新しい年です。これに先立ち、カトリックのクリスチャンは、洗礼者ヨハネが教えたように悔い改める心でもって12月25日の主キリストの降臨(クリスマス)を迎え入れ、キリストと共に父なる神への道を歩んでいく決意を新たにしました。この一年を通して、主イエスキリストの降臨を迎え入れた喜びの清い心、そして、除夜の鐘の効果を維持する為にも、改めて神や阿弥陀仏の本願からかけ離れた私達の生き様の現実を嘆き、反省し、常に本願への回帰をする努力を怠らぬように精進しましょう。

新年の誓いは、旧年中の生き方にみられた信心による生き方との違い、つまり、阿弥陀仏の本願、或いは、神の本願、からかけ離れた私達の勝手な思いとの違い、を素直かつ謙虚に自覚し反省した上でなければ、また同じ過ちを繰り返す確率が高くなります。こうしたことを鑑みても、“歎異抄”を福音書と比較対照しながら読み直したいものです。

私達の新年の誓いが、自我無きものであり、反省と自戒による本願達成の為となりますように。阿弥陀仏の本願を更に超えて神の本願とするならば、キリスト教的にみれば、こうした無我の本願達成の為の誓いはAd Majorem Dei Gloriam、という神のより偉大な栄光の為でもあります。