Friday, January 24, 2014

いのちの二面性 ー 仏教的にみたいのちの意義深さとありがたさ



久しぶりに日本語でのブログです。いのちについてです。

近年の日本、バブルによって物を大切にしなくなっただけでなく、ついには、いのちまでも粗末にするようになった感じがして、懸念されます。そこで、改めて、いのちについてちょっと思索してみたいと思います。

浄土真宗、大谷派、東本願寺、の新聞、“南御堂”、平成26年一月号の第四面に“いのち輝け!今、いのちがあなたを生きている”というコーナーがあり、その第46回目の連載に、“ふたつのいのち”という記事があります。大阪教区、竹中慈祥 先生による執筆です。

この記事は竹中先生ご自身が、かつて、信國淳先生が“世界は呼んでいる”(難波別院刊)において“寿命”について、ふたつのいのちがあると表現されていることを改めて指摘しておられます。

“寿命”という、日本人にとってはありふれた日本語による言語表現にあるこの言葉で、広辞苑には、“いのち、よわい、生命。転じて、物がいたまずに保つ期間”とあります。つまり、物質的ないのちを示唆しております。まあ、これが普通、私たちが意識している“寿命”という言葉の意味であり、それは“よわい”(齢)の積み重ねであり、その積み重ねがいのちであり、それがいたまずに継続するのが寿命であると考えます。そして、こうした意味にはどこか限りがあるということを示唆しています。

仏教的に“寿命”という言葉を解釈すれば、これは単に、齢(よわい)の積み重ねであり、限りのある生物学的、物質的ないのちだけでなく、無量寿という仏教において大変重要な意味を持つ、人間の意識や価値観に左右されないという超越的ないのちをも含んでいると言えましょう。

仏教おいて“無量”という考えは、計り知れない、という意味であり、転じて、永久性、恒久性をも示唆しています。仏教において、無量という言葉は、阿弥陀如来仏からの十二の光のひとつで、無限の恵みの光明であり、無量無辺光のことです。

正信偈には、“帰命無量寿如来、南無不可思議光” (むりょうじゅにょらいにきみょうし、ふかしぎこうになむしてたてまつる)、いう言葉があります。これは、無量寿如来に帰命し、ということを更に、不可思議光に南無したてまつる、ということで言い換え、強調していると考えられます。というのは、帰命と南無という言葉は同じ意味だからです。つまり、“南無阿弥陀仏”という念仏に集約される、阿弥陀如来の無量の光の恵みにすべてをゆだねますという私たちの素直な心、癒しや救いへの望み、を表現したものと他なりません。

つまり、“寿命”の“寿”は正信偈の“帰命無量寿如来、南無不可思議光”という念仏(南無阿弥陀仏)の本質をついた無量寿という超越的で計り知れない阿弥陀如来の永遠の光とつながっているということです。

キリスト教信者が洗礼により主イエスキリストを救世主(メシア)として受け入れることで、単なる生物学的で限りある命だけでなく、イエス様を介して与えられる父なる神からの永遠の命の恵みに預かるということのように、仏教では、“寿命”という解釈から、素直な心で仏の道を修行しながら歩むものは、阿弥陀如来の無量寿の光の恵みをも授かることができるとも考えられるでしょう。しかも、仏教の教えは主イエスキリストの教えと食い違うものでもなく、むしろ、イエス様の教えはお釈迦様の教えと共通するところが多々あるので、仏教的な修行を通して主イエスキリストの教えの道を歩むこともできます。そうであれば、人間の命はただ限りある生物学的、物質的なものだけでなく、スピリチュアルで超越的な恒久性のある命をも含んでいると考えることができます。これは、とてもうれしいことです。ただ、限りある命をこの世でいきていて、それが終われば、もうおしまい、というのではなく、生物学上、物質的ないのちの終わりを越えて、永遠に続くいのちもあるということです。そして、この恒久性を帯びた、無量のいのちをより実感することで、私たち人間は阿弥陀如来仏や父なる神からの恩恵を深く感じ取り、ありがたく思うものです。そして、信じる人はこうした恩恵を通して、より深い生きがいを体験できます。

竹中先生は、信國先生の、“私を私としてそのまま生かしているいのち”こそ“寿”である、という教えに沿って、寿命の“命”という字の背景には、長い短い、多い少ない、損得、といったような価値を量って生きる姿であり、やがては自分自身をも思い量り、見棄ててしまうこともあるということであると説いています。一方、“寿”という字の背景には、無量寿の名が示すように、前者にあるような人間の価値観(特に、齢にまつわるような物質的、計量的価値観)に左右されることなく独立した、しかも、人間の意識を超えたレベルから、自分自身を見棄てることなく常に、“これでいいのか?”と問いかける本来のいのちの姿そのものであると諭しておられます。

つまり、人間の意識を超えたところ、人間には到底計り知れない、つまり、人間にとって無量である、無量寿とつながる、自分を自分としてあるがままに生かしているいのちが、齢で量れる、物質的、計量的で限りのあるいのちと共存しているのが、いのちの二面性であり、ふたつのいのちなのです。

更に、興味深いことに、竹中先生はこう述べられています。

今、いのちがあなたを生きている”とは、“今まさに‘我がものと執着している概念の命’の奥底から無量寿が生きてはたらいてくださっている”ことでしょう。人間の理解では量れません。いのちはそもそも輝いているものです。その輝きを曇らせ続けている“いたずらもの”がどうやら私であったと、改めて載されます。(引用ここまで)

な~るほど、実は、“寿命”の“寿”という字はどうやら“正信偈にある”無量寿“のほか、密教的な唯識心理にある”四無量心“の智慧とつながっている感じがします。

竹中先生がいう“いたずらもの”とは唯識でいう“阿頼耶識”という一番深いレベルの心のすぐ上にある“末那識”という自我執着心という“曲者”に相応すると考えられます。そして、この末那識による“いたずら”がもたらす“幻想”を“現実”と混乱しがちな凡夫の精神的な弱み、盲点を克服するすべが、慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心、といった四つの良き心からなる四無量心なだと考えられます。

唯識では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識、阿頼耶識の八つの識があり、特に、末那識という自我執着が作用し、現実を、森田療法でいうような“あるがまま”の状態で受け入れることが困難になります。そうであれば、“寿命”のうち、齢で計り知れるレベルの生物的、物質的な“命”のレベルにとどまって、煩悩に苛まれます。しかし、”寿命“というふたつのいのちのうち、”命“の上にある”寿“といった無量寿の恵みをありがたく認識し体験しはじめることで、私たちのいのちはより四無量心によるものとなり、末那識の”いたずら“に影響されがちな識のレベルを超えたものとなっていくいことでしょう。そして、それが無の境地へと私たちのいのちを導いてくれるのでしょう。

こうした二面性を持ついのちを与えられ、生かしていただいている今、それだけでありがたいことです。たとえ、末那識の“いたずら”により、思ったより長く生きられなくても、たとえ、願っていたほど齢を重ねられなくても。。。今、生きているというより、生かされていることを悔いなく、よりしっかりと体験しておきたいものです。そして、こうした体験と感謝の心が“寿命”の中の、“寿”にある無量寿へつながり、四無量心へと心は成長し、無の境地に至り、開眼できるのですから。
合掌

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