Saturday, October 24, 2015

"人身受け難し、今既に受く" - 無常観 からの生きる意味

仏教の三帰依文に、“人身受け難し、今既に受く”という言葉があるが、どういう意味だろうか?

人身受け難し、というのは、肉体的な意味での生命、つまり、この世に生まれ落ちてからの人生というのはその肉体(身体)という物質的な器故にあれこれと厄介なことがあるという意味なのであろう。確かに、肉体は諸行無常の中の儚さの象徴的なものともいえる。このことは、誰か身近な人が死に、通夜や葬式に行けばいやでも思い知らされる。また、医療現場や戦場において毎日のように死に行く人達を看取っている人達も痛感させられていることでしょう。嗚呼、人の人生とは何と儚いものであるかと。特に、遺体を火葬場に運び、火葬後、骨上げの儀式をする時、たとえ既に生命のない亡骸であっても、つい一時間ほど前まではただ寝ているように見え、一見してまだ生きていた時と同じような外見を呈していても、火葬により簡単に箸で拾い上げ、壷に収めることができるような白骨という姿になってしまったことを自分の目で確かめれば、より一層、こうした、人身の無常さ、儚さがよくわかるものである。

いつまでのこうした人身に執着していると、病気となり身体の容貌が変化し、死を思い起こさせ、非常に不安となり、絶望的になりかねない。そうであれば、キルケゴールが書いた“死に至る病”をも彷彿させるほどである。しかし、生まれという苦に始まり、生きることに苦あり、苦に病、病という苦を味わい、そして、やがて死という最後の苦、というライフサイクルの現実に絶望しない為に、釈迦は解脱、涅槃への道を八正道の教えで説き、キリストは福音の教えで説いた。つまり、こうした悲観に陥りかねない苦に特徴つけられる身体のある生の中に希望と苦と向き合いながら生きていることに意義を感じる為である。しかし、苦ありの人生において希望や意義を見出せず、絶望したり逃避しようとすると、Viktor Franklが説くNoogenic Neurosis、つまり、スピリチュアルな要因による精神的危機に陥り、これはPaul Tillichがいう実存的危機でもあり、精神分析学の派生である対象関係論でいう自己喪失という究極的な対象喪失でもある。森田療法の観点からみて、こうした精神的、スピリチュアルな危機の背後には、”生の欲望”があり、それが自我への執着により、“人身受け難し、今既に受く”の意図する真実ということに対し盲目にするからであるといえる。

そもそも、四諦の教えの一つに、苦諦があり、その苦を悟る、つまり、避けることや逃げることができない受け入れるべき現実として諦めることの一つとして、生まれてくることがあり、その結果、この世において年をとりながら生きていること、そして、病気となり、やがては死を迎えることである。これは、この世に身体をもって生まれ落ち、行き、病を患い、やがては死ぬという諸業無常の流れの中における四苦であり、それを認識し、悟り、諦めることが解脱への道の第一歩なのである。よって、“人身受け難し”というのは四諦のうちの苦諦にある四苦の認識、悟りを意味するのであろう。

老子の無為自然、つまり、あるがままに現実を受け入れることの教え、は森田療法臨床的根本概念でもあり、ひいては、仏教の四諦の教えにある苦諦の意義へとつながる。よって、人生は苦に特徴つけられるがその取り組みかた、つまり、苦諦の真実としてあるがままに受け入れることで、”生の欲望”を当世でき、生に執着することがないので、生が苦であっても。生きていることに希望と建設的な意義を見出せ、精神的に成長し続けていくことができる。だから、人生というのは苦がつき物だと早く悟り、諦めていると、というか、それを無為自然、あるがままに受け入れると、生への非現実的な執着や妄想を抱かずに、生きることができる。寧ろそうした方があまり悲観的になることもないし、森田療法で臨床的にも実証されていように、生きていることへの苦が軽減されていく。だから、“諦める”イコール“悲観的”と一次方程式に考えるのはよくない。寧ろ、”諦める”ということは、無為自然に、つまり、あるがままに現実を受け入れることであり、四苦という苦諦の真実をそのように捉えることので生きていることへの苦を感じず、絶望せず、寧ろ、希望と意義を感じつつ成長することが“人身受け難し、今既に受く” が私たちに教えんとすることではないだろうか。

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