Tuesday, May 17, 2016

ペンタコストと武士道精神:神の“神風特攻隊”が聖霊に力付けられて飛び立つ日



私の洗礼名かつ堅信名はフランシスコ。平和と調和を愛し、荒廃しはじめていた西欧の教会の建て直しに励んだアシシの聖フランシスコに因んだものですが、多くの日本人にとって、フランシスコという名は、イスパニア出身で、最初の布教先であった天竺から危険をかえりみずに遠い異国の日本へ1549年12月8日にやってきて布教した聖フランシスコザビエルの名前としてのほうがお馴染みでしょう。実はこのフランシスコザビエルというイスパニアのイエズス会士は、戦国武将織田信長もどこか心打たれるところがあったといわれる“かえりみはせじ”の信念に燃えていた男です。だから、フランシスコという名を冠する以上、宣教師としての私もそうでなくてないけません。実際、フランシスコザビエルは伝道布教へ“出陣”して依頼、まずインド、続いて、ジャワ、更に日本へ。そして、次の“攻略地”であった中国への伝道の旅路において病に倒れ、イスパニアはピレネーの山岳にある故郷バスクの土を再度踏むことなくその信念の人生を全うしました。
こうした背景もあり、今日のお話はペンタコストに因み、フランシスザビエルのような宣教師になったつもりでさせていただきます。

だから今日の私“お説教”は気合が入っています。そして、この気合っていうのは実はペンタコストの意味する聖霊の力なんです。

まあ、“ペンタコストと武士道精神”という演目のはじめの部分はいいとしても、後半の、“神の‘神風特攻隊’”という部分は刺激的かもしれませんが、そのほうがいいでしょう。刺激のない説教なんて子守唄同然ですからね。説教するお坊さんや牧師さんにとって居眠りしている人が観衆の中にいることほど辛いものはありませんから。。。

それでは、はじまり、はじまり。

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主に賛美!そして、聖霊の降臨に感謝!
今年の5月15日、日曜日、はペンタコストという聖霊が天からエルサレムにいたキリストの弟子達へ降り注がれ、弟子達に後戻りができない変化が起きたことを記念する日です。この神秘的な現象はイエスが復活してから50日目に起こったので50を意味するギリシャ語からペンタコストといわれ、イエスの昇天後から10日目です。

さて、信者にとってこのペンタコストという日は、死することをも躊躇せず覚悟を決めた“神風特攻隊”出陣のような日である、と言うと、皆さんはどう反応されるでしょうか?恐らく信者の方でもそのようなペンタコストの考えは前代未聞だとおっしゃる方が多いかと思います。そうだからこそ、この機会において一発“爆弾”を落としておき、こうした人達の未だ開いていない心の部分に風穴を開けてみたいとおもいます。

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キリスト教をあまり知らない人、また、キリスト教徒であっても、クリスマスやイースターに対しては何か特別な感じを抱きつつも、ペンタコストについてはあまり感じない人も結構います。しかし、聖霊により敏感で聖霊による教会刷新に熱心な信者にとってペンタコストはクリスマスやイースターに並ぶ特別な日というよりも、寧ろ、これらとはかなり違う意味がある日です。というのは、クリスマスとイースターにおいて主キリストが主体であるのに対し、ペンタコストの主体は私達だからです。

そもそも、ペンタコストはイエスの復活から50日間にわたるイースター(復活祭)の締めくくりの日でもあり、イースターとは切っても切れない縁があるのです。つまり、イースター抜きにペンタコストは語れないということです。しかし、イースターそのもの十字架でのはりつけによるイエスの死なくしては語れないこと、更に、イエスの死はイエスの誕生なしには語れないよううに、どどのつまりは、ペンタコストはイースターとクリスマス双方と関連付けなければなりません。

そもそも、天の父なる神は先ずイエスという第一のParakletosを聖霊を乙女マリアの穢れ無き体に注ぎ込むことでLogosをイエスという生身の人間としてこの世に送り込み私達と交わるようにしました。しかし、私達はイエスを受け入れることができず、ついに“始末”してしまいましたが、イエスは死界から聖霊の力により復活し、また私達と交わるようになりました。始め私達は復活の意味が分からず、怯えと懐疑心でイースターを迎えましたが、復活後のイエスとの度重なる密度の濃い交わりにより徐々にそれまでの私達の煩悩により閉ざされた心が開き始め、イエスを心底から受け入れられるようになりました。それを認識したイエスは聖霊の降臨を父なる神の約束であるからそれが実現するまでエルサレムで待機するように命じ、また、この聖霊の降臨により私達がイエスの証言としてこの世界の果てまでどこへでも伝道することになるとも預言し、天の父の元へと昇天していきました。勿論、黙示録にあるように、再降臨を通して再会することをも約束して。そして、辛抱強く待っていたところ、ついにこの聖霊による降臨が実現し、私達の集いは教会として新たなスタートを切りました。これがクリスマスとイースターと関連付けたペンタコストなのです。

ペンタコストの聖霊降臨により、信者はそれまでとは違い、世界の全ての言葉によりイエスの福音の教えをイエスの証言者として話せるようになったのです。ただ、ここで忘れてはいけないのは“証言者”ということばは新約聖書の言語であるギリシャ語では殉教者“という意味があり、つまり、イエスの証言者たるものは殉教してもあたりまえであり、その覚悟で聖霊に導くままに世界のどこへでも送り込まれるということなのです。こういった言い方をすると違和感を感じる人にいるでしょうが、はっきりいってペンタコストとは、イエスの兵士として私達は悪霊がはびこるこの世界のどこへでも悪霊との戦いへ生きて帰ってくることがないと覚悟して出兵する”特攻隊員“なのです。普通の人間は、このようなことに怯えてしまい、逃げることを考えるでしょうが、聖霊の降臨を受け、聖霊で満たされ、その様々な恵みで”武装“し、聖霊の力で強化されていれば、怯えることはありません。寧ろ、神の栄光の為であれば喜んで殉教できるようになるのです。

つまり、ペンタコストというイエスの復活より50日目の日、聖霊が降臨し、私達信者に降り注がれ、私達の心をその力と恵みで満たすことにより、私達を主キリストの為のmartyrとして聖霊という誘導波が導くままに神の国の建設の邪魔をする悪霊と戦う為に飛び立って出陣する日なのです。使徒伝2:1-11にあるように、ペンタコストにおける聖霊は旧約聖書創世記1:2にあるような天地の創造前夜の水の上を吹きまくる強い風(ruah)を彷彿させる強い風の如くすごい音と共に降臨してきました。勿論、この“風”の源は天の父なる神であり、こうした意味において聖霊とは“神風”といえましょう。そして、神、キリスト、の兵士として陣中で待機していた信者はこの聖霊という“神風”の力によって世界中へ飛び立ち、神の国の邪魔となる神の敵と勇敢に戦い続けるのです。それは、教会というペンタコストの聖霊降臨によって命を得生まれた、パウロがコリント人への第一の手紙12章でいうようなキリストの体に例えられる、教会という聖霊で満たされた信者の共同体がこの地における神の国の基盤をも防衛することです。この教会という共同体を内外の敵から守ることは、黙示録に記された、キリストが最高の王として再降臨する際に新郎として娶る新婦を守ることでもあるのです。その為の戦いをする神風特攻隊“の出陣がペンタコストなのです。

かつての特攻隊員は、“大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせじ”と歌いましたが、ペンタコストの日に聖霊で満たされ出陣する神の“神風特攻隊”は“キリストのようにこそ死なめ、かえりみはせじ”と歌いながら飛び立っていけます。

キリスト教徒の本懐である武士道精神の基本はペンタコストにあり!といえましょう。

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カトリックの宗教教育にも長年携わってきた私は堅信の秘蹟を受ける為の準備教育を行う際、よくこの話しをし、本当に主キリストの“神風特攻隊”として“かえりみはせじ”に“出陣”していける14歳ぐらいの子供達だけを推薦します。この“出陣”の覚悟ができていない子供は“落第”させ、覚悟ができるまで推薦しません。ということは、私は、或る意味では、主キリストの為の勇敢な“神風特攻隊”の育成をする教官であるといえましょう。カトリックのしきたりにおいて、堅信の秘蹟とは、武家の男の子が元服し、自分の刀を授かる、ということのようなものです。生半可な武士道精神しかない男の子には元服はありませんし、当然、刀を持たせるわけにもいきません。同じように、ペンタコストと比較される堅信の秘蹟は、生半可な信仰心しかない子供には受けさえることはできません。主キリストの“神風特攻隊”としての資質があることを証明できた子供だけが与えられる元服の刀に象徴できるものがペンタコストの証に例えられる堅信の秘蹟なのですから。
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最後までご静聴ありがとうございました、というか、最後まで居眠りせぐにお読みいただきありがとうございました。それでは、今日はここでお開きに。

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