Saturday, August 6, 2016

原爆投下の心理を検証する:人類初めて人類に対する核兵器使用の71年目の記念日に際して


71年目の広島原爆記念日がやってまいりました。現在の世界状況と平和への取り組みをみていると、あの歴史的悲劇からの教訓があまり学び取られていない気します。平和教育といっても形だけのものが多く、それをやっている者の自己満足か、酷いものになれば、間違った方向の平和教育をやることで、他国への憎しみを煽るようなものまであります。こうした現状を是正しないと、本当に近い将来、人類は人類の手によって破滅させられてしまうかもしれません。

原爆投下について政治学的にあれこれ議論することは珍しくありませんが、私達はもっと心理学的な観点からもこうした問題を検証する必要があるのではないでしょうか?


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人類史上初めて人間がつくりあげた原爆を人間に対して広島で使った歴史的事実から71年目の記念日に思ったのですが、私達は今でも本当に私達自身の煩悩からあれこれと原爆投下は誰の責任だといったような偏狭というか、時と場合によっては偏狂的な、収拾のない議論をし続けていますね。大学で教えているようなインテリもそうですし、そうしたことを一層煽動することでセンセーショナリズムを拡張し続けて儲けるマスコミ、そして、それを政治利用することで自分の政治的権威や地位を肥やそうとする政治屋達。アメリカが悪い、いや、日本が悪い。。。。。こうした二元論的な責任議論は、本当に核兵器廃絶、世界平和、を希求することにおいて、不毛とは言わなくても、あまり意義がないものです。なぜでしょうか?

心理学的に考察すると、原爆投下の背景にあるものは人類共通の欲望と不安なのです。原爆投下前夜のアメリカはソ連を既に警戒し、ソ連に世界覇権をとられまいとして、覇権欲とソ連に対する不安から原爆投下へ踏み切りました。いつまでもしぶとく戦い続ける日本に戦争を止めさせ、日本が一度“黙殺”したポツダム宣言を受け入れさせ、日本本土戦を未然に防ぐことでこれ以上の犠牲者を出さないようにする、といったアメリカの公式発言はそれなりの正当性ないとはいえませんが、寧ろ、“建前”の正当化の屁理屈といってもいいでしょう。ごのアメリカの議論を支持すれば、論理的にみて、広島と長崎の一般市民の原爆による犠牲は、より多くのアメリカ兵や日本人の命を救う為の“代償”、必要悪”的な”ものであるという屁理屈を正当化することになります。こうした議論を正当化するのは、大学の哲学の講座をとった方なら今でもご存知でしょうが、“功利主義”という西洋文明の賜物です。まともな哲学の講座であれば、かならず功利主義について批判せよという試験問題があるはずですが、あなたの哲学の教授が一度も功利主義についての批判を促さなかったならばその哲学教えて飯食べている資格はありません。そうであれば、大学の授業料利息付で返してもらいましょう。

そもそも、欲望と不安、これはアメリカ人、かつての西洋列強特有の心理ではありません。実は、日本が黒舟来航以来、西洋列強の真似事に奔走した結果、あのような醜い軍国主義に陥り、アメリカだけでなくアジア諸国をも敵にまましてしまった愚の根底にあるものです。黒舟でびびらされ、ロシア南下の脅威から、ロシアに東アジアの覇権を取られまいと、東洋のバルカンともいえる朝鮮半島の地政学的利害をめぐり当時朝鮮をコントロールしていた清と戦争し、日本の大陸での覇権拡張の礎を築き、ロシアとの覇権抗争はエスカレートし、そのプロセスに、日露戦争があり朝鮮併合があり、満州国があり、日中関係がよりこじれはじめ、これにアメリカがたかり始め秘密裡に中国軍を装って日本を攻撃する準備をすすめ、ABDC包囲網経済封鎖をされ、ハルノート、そして、真珠湾攻撃、燃料資源を求め、東南アジアへ進出、統制の利かない戦局拡張と悪化、そして、原爆投下。

考えてみてください。アメリカが日本に原爆を落とした時、これによりソ連をびびらせ、アメリカの世界覇権の地位を確かにしたと思い込んでいましたが、ソ連はアメリカの原爆使用に触発され、独自の原爆開発を国を挙げて行い、数年のうちにアメリカに追いつきました。そして、冷戦時代に育った私の世代とその前の団塊の世代などがよく覚えているような東西両陣営間の核兵器増産競争。そうです、この背景にも本質的には同じ、欲望と不安が一体となった心理、そして、この二つの心理が絡み合う妬みというもう一つの心理があるのです。

私達が本当に核兵器を廃絶し、世界平和をめざすのならば、いつまでのどこの国がどうのこうのだといった韓国や中国が日本に対して執拗にするようなレベルの低いナルシシスト的な議論を止め、こうした欲望と不安という人類共通の心理とどう向き合い、こうした心理が二度と核兵器の使用をさせないようにする為には私達一人一人に何ができるのか、国は国際社会には何ができるのか、ということから考えていく必要があるのではないでしょうか?

よく、“ユダヤ人がキリストを殺した”、と言うが人今でもいますが、こうした間違った聖書の解釈をすることが反ユダヤ思想と発展し、ヒットラーによるホロコースト以前より何世紀ものあいだ西洋のキリスト教徒達はユダヤ人を迫害してたという歴史的教訓の無知を示しています。キリストを殺した本質的なものは、ユダヤ人でもなく、当時ユダヤ人の住んでいた地域を支配していたローマ人でもありません。こうした表面上の根底にあるのは、やはり、不安という人類共通の心理なのです。マタイ27:18 には、キリストを殺した心理的背景にはねたみがあることをも示唆しています。妬みにしろ、不安にしろ、こうした心理は何もユダヤ人だけのものでもなく、人間、というか、人間を含めた、感情に関わる大脳編延帯を持つ動物であれば誰もが持つものです。だから、心理学的に考えると、キリストを殺すようなこと、そして、原爆を使用するようなこと、はどこの国の国民であろうが、どのような人種であろうが、どのような宗教観をもっていようが、人間だれでも、時と場合によれば、勝手に正当化してやりかねないことなのです。

これは仏教で咎める煩悩そのものの愚であります。私達はこうした煩悩ゆえ、自らの煩悩に対し盲目にしてしまい、相手だけを悪いようにしたてあげる幻想を抱き、煩悩に気つかないまま、人類破滅へ走り続ける危険な可能性を秘めているのです。キリスト教的にみれば、これは、アダムとイブが犯した原罪の賜物といえましょう。その初めての問題化は、アダムとイブの長男であったカインが弟のアベルを妬み故に殺したという創世記の話しに遡り、私達はこのカインが犯した殺人の背後にある妬みという不安と欲望が絡んだ心理を心のどこかに秘めているので、キリスト教、特に、カトリックでは私達自身を常に悔い改める必要がある罪人と見なし、いつも神の慈悲による赦しと正義の導きを謙虚に求めるのです。だから、“神の名において”、とか、“神の裁き”、だとかいうことで原爆投下や戦争などの問題を議論することがいかに間違っているかお分かりでしょう。

私達が日本国憲法にあるように本当に世界平和を希求するのならば、私達一人一人が先ず、内省し、各々の心の中を検証し、そこに潜む不安や欲望、そして、それらが絡んで生じる妬みなどといった心理的要素にどうのようにして建設的に対処していけるか真剣に考えることが必要です。さもなければ、いくら、“戦争はいけません”というだけの薄っぺらい平和教育や、“悪いのはどこの国だ”とかいったような議論をするだけの偏った平和教育、では、歴史の愚は繰り返され、今度は本当に取り返しの付かないことになるかもしれません。


広島と長崎の教訓を決して無駄にしない為にも、私達は先ず、各々の心を深く検証することから平和への誓いを新たにしましょう。

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