Monday, October 31, 2016

Parental Guide for Halloween - A Catechist's Thought



October 31 is Halloween. On this day, during dusk hours into early evening, many children, accompanied by their parents or guardians, are strolling the neighborhood everywhere in the US, shouting, “Trick or treat!” in front of neighbors’ door steps.  This scene is rather comical, as both the children and their parents/guardians, as well as the neighbors, are having fun. 

If you ask children in the US, what comes to their mind first on Halloween, many will say, “Trick or treat”, or simply, “a lot of candies”.  

For children of the faithful Christians, however, Halloween should not be reduced to mere fun candy collection “trick or treat” strolling in the neighborhood.  Besides a health concern for children having excessive sugar intake from these collected candies, there is a very important spiritual concern about Halloween – if these children are not taught what Halloween really is in light of the Church’s tradition. 

First, it is important that Christian parents teach their children that Halloween is like Christmas Eve or Holy Saturday (Easter Eve). It is the eve of All Saints Day. Thus, it is the eve of all hallows day. The name, “Halloween” came out of “all Halloween”. If children ask, “what ‘hallow’ means, you can easily remind them of the Lord’s prayer, “Our Father, who art in heaven, ‘hallowed’ be thy name…”, and tell that ‘hallow’ means ‘holy’.  So, Halloween means the eve of the feast day of all holy people, namely, saints. 


Most Christians believe that saints are in heaven, based on Revelation 5, though their bodily remains stay on earth. As the Catholics, Anglicans and Orthodox, believe that Mary was assumed into heaven, Christians of these denominations can envision, St. Mary being in heaven. In this regard, we can see Elijah (2 Kings 2:11) and Enoch (Genesis 5:24) being in heaven, too.  Regardless of where saints are now, we know that they are the people holy enough to be in heaven, even though many of us are not yet so worthy to be there. For this reason, Catholics believe that most of us need to go to purgatory, upon death, to make more spiritual refinement of our souls, to be truly worthy for heaven – to be saints.  Because of this spectrum from earth to heaven via purgatory for most people, while saints are the ones who took an “express way” straight from earth to heaven, we observe  All Souls Day, following All Saints Day, praying for the souls in purgatory, after praying for holy souls of saints in heaven. 


For this reason, Halloween is a day to prepare for this feast for holy people and for the souls of those who are in their final process to become holy, while we are working hard to be holy and to be worthy to be in heaven, through our practice of faith in Christ. 


With this authentic Christian understanding of Halloween, children can have fun collecting goodies, dressed as their favorite saints or the saints they are named after, as neighbors are offering whatever they can for these “little saints” to honor them. 


The fact that these children “tricking or treating” often dressed like little demons.  This may be appropriate for children of diabolic parents. However, if you are Christian parents and want to make sure that your children observe Halloween as it is meant, then, you and your little ones can dress like saints and enjoy your neighbors’ admiration for saints in heaven, as they pay their respect for these saints through goodies. 



Yes, Christians can have fun on Halloween. It is not as a satanic practice, as some Christian critics may say, though many “trick or treaters” and their parents do not seem to understand that their way of observing Halloween can be honoring demons. Unless you want to raise your children to be diabolic, we must guide our children on the right path.  

Saturday, October 29, 2016

秋の候、仮庵について想う事 - 旧約聖書、新約聖書、生、死、復活、を考える悲嘆パストラルカウンセリング

先日、東京四谷の聖イグナチオ教会(カトリック)で聖霊による教会刷新の為の集いのリーダの方からいただいたメールにユダヤの仮庵祭についてのとても興味深い回想がありました。このメールの内容に触発され、私が以前行ったカトリック信者への悲嘆カウンセリングにおいても仮庵の比喩を用いたことを思い出し、まとめてみました。

ここに書いてある内容は、キリスト教、ユダヤ教、新旧両約聖書、などにあまり親しみのない方にとってはかなり不可解なものかもしれませんが、これらのテーマについての関心や理解を深めていただけるきっかけとなれば幸いです。

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秋も本格的で、日本では稲の収穫も終わり、各地で五穀豊穣を祝い感謝する村祭りがにぎやかに行われている頃でしょう。“む~らの鎮守のか~み様の、きょ~うはめでたいお祭り日、どんどんひゃらら、どんひゃらら~”、の節で始まる“村祭り”とい童謡を思い出します。とはいえ、安い外国産の輸入食料で溢れる飽食の今の日本、日本人にとっての食糧供給地であった農村の過疎化は高齢化に伴い更に進み、以前のような村祭りの活気が今でも残っているか心配です。

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さて、聖書を勉強されている方は、古代ユダヤの習慣においても秋祭りがあることをご存知でしょう。しかし、ユダヤの秋祭りは仮庵(Sukkot/ סוכותの祭りと言われ、彼らの祖先が神の加護により過越でもってモーゼに率いられて400年以上虐げられてきたエジプトを脱出し、その後40年にもわたり厳しい自然環境の荒野で流浪の民として仮庵生活を耐え抜き、やっと神が約束したカナン地方の地に定住してもそのまま仮庵での暮らしを続けながらも豊作に恵まれるようになったことを神に感謝する祭です。出エジプト記23:16において、農耕のサイクルの終わりに収穫する頃に祝うことが記され、レビ記23:33-36、39-43、に更に詳しく書かれているように、具体的にはユダヤの暦の第七月であるティシュリの15日から一週間の間、その年の収穫物を神に捧げます。また、それと共に、この一週間、テントのような仮庵を設けその中で暮らすことで祖先がかつて40年ものあいだこのような狭い仮庵で寝泊りしながら荒野の旅を神の加護によって乗り越えてきたことを、こうした体験えもって忘れないようにする意義があるのです。こうした意味では、ユダヤの仮庵祭には、今は亡き遠い先祖の試練の体験を仮庵で寝泊りすることで共有しようという試みでもあり、世代を超えて心を一つにするという意義もあります。この祭りの初日と8日目である最終日は安息日となっています。

旧約聖書に記されているこうした歴史的背景からわかるように、仮庵はもともと荒野の中を40年間旅をし続けたユダヤ人の一時的な住処だったのですが、これはtabernacleをも意味し、神が宿るこの世の一時的な聖なる場にも呼合します。だから、聖体の秘蹟が収められている聖櫃とも関係があるわけです。つまり、カトリック教会の中のにある聖櫃は、ミサにおいて私達の中へ入れられるまで間の一時的な仮庵なのです。

先に触れたように、日本では伝統的に五穀豊穣を祝い感謝する秋の村祭りの伝統があり、天皇陛下が宮中で執り行われる新嘗祭も来月です。私達にとって、聖櫃に納められているキリストの聖体は、聖霊の力により収穫された麦という穀物から作られたパンがtranssubstantiate (聖変)したものです。聖体に収めるキリストの聖体にふさわしいようなパンを作る為の麦はその年の新鮮な収穫でなくてはなりませんから、そういった意味でも、伝統的に五穀豊穣を祝い感謝する私達日本人にとっても比較文化的観点からもとても馴染み深いユダヤの大切なお祭りだといえましょう。

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仮庵といえば、以前、大切な家族の主を亡されたカトリックの遺族の方へグリーフケアをさせていただいた時、この世での人生を一時的な仮庵に例え、イエスがヨハネの福音書14:2-3で触れている私達が最終的に落ち着く所を恒久的な天庵などに例えてパストラルカウンセリングを行ったことがあります。つまり、仮庵に例えられるこの世での人生は、最終的な天庵が完成するまでの間の生活の為の一時的な住まいであるという比喩です。この例えでもって、生きることと死ぬことの意義を考えると、葬式ミサの冒頭で司祭が述べるように、死は終わりではなく、イエスが信者に約束した永遠の命への道程における変化なのです。この世での人生とは、仮庵に例えることができる肉体というやがて死に朽ちていく物質的な体に魂が宿っていますが、死後、死んだ肉体から離れた魂はイエスの再降臨の際に新しい体を得ることで、私達は復活し、恒久的な天庵に落ち着くというわけです。

遺族の方はこうした、仮庵から天庵への道程というコンテクストで大切な人の死を改めて認識すると、悲嘆による精神的苦痛が軽減していき、意義深い悲嘆を体験していただくことができました。

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受胎以降、肉体に魂が宿っている仮庵の人生、つまりこの世の人生、から死後にイエスが再降臨する際の復活によって得る事ができる新しい不朽の体(コリント人への第一の手紙15:51-54) に魂が宿る天庵での暮らしに向けた人生への移行の道程を、旧約聖書の出エジプト記からヨシュア記にかけて記されているエジプトから紅海を超え、荒野の中を40年間歩み抜き、やっとヨルダン川をも越えて神が約束した肥沃はカナンの地で農耕を営むことでだれの奴隷にもなることなく定住できるまでの過程に並行します。この間、ユダヤ人は神から律法を与えられ、これにより神との関係が明文化され、更に、神が宿る為のアークとそれを収納する為のテントが作られました。このテントはヘブライ語でohel/ אֹ֫הֶל といい、”幕屋“、テント”という意味もありますが、本来、“住む所”という意味であり、tabernacle, とも言われます。 先に、sukkot/ סוכות‎ という仮庵を意味することばを紹介しましたが、これはsukkah/ סֻכָּהの複数形です。

仮庵もテント同様なので、sukkah/סֻכָּהohel/ אֹ֫הֶלも、似ているといえば似ているといえましょうけど、必ずしもそうではなく、前者は主としてユダヤ人が荒野での40年間に住んでいた時の構造的にはあまり強くない簡素なテントのような仮庵であり、後者は前者に比して強く出来ており、耐久性もあります。神が宿る為のアークを収納するのにはsukkot/ סוכות‎では弱々し過ぎます。勿論, 教会の中にある聖体を収納する聖櫃はユダヤ教でいう掟(神との約束)の箱(aron/ אָרוֹן, ark,アーク)のようなものですから、やはり、ohel, tabernacle、といった強化されたものでなくてはなりません。ユダヤ教でいうaron、アーク, の中にある掟(神のtestimony, covenant)(出エジプト記24:7)とは、キリスト教ではイエス自身が新しい掟、covenant, であり、このことはキリストの血において象徴さえています(マタイ26:28)。だから、キリストの体である聖体を収納する聖櫃は新約のaron/ אָרוֹןであるキリストが宿る箱といえ、その為の幕屋がsukkah/סֻכָּהよりも頑丈なohel/ אֹ֫הֶלtabernacle、なのです。また、聖霊による懐胎後イエスを身篭っていたマリアもある意味ではohel/ אֹ֫הֶלtabernacleであり、とくに子宮はaron/ אָרוֹן (ark) であったといえましょう。

因みに、英語で掟の箱を, the Ark of the Covenant,と言い、ark、とは箱という意味ですが、これはboxとは違い、それよりも頑丈に作られた箱を意味します。だから教会の中の聖櫃(tabernacle)もユダヤ教の掟の箱(the Ark of the Covenant)も普通の箱(box)よりも頑丈に作られているのです。これは、中に収納されている者、聖体、掟、が何よりも大切なものであり、それを何が何でも守ると言う意味がこめられているのです。俗的な例えで言うならば、柔らかいがとても大切な脳を収納する頭蓋骨や心臓と肺を守る肋骨の堅さ、また、耐震性耐火性の頑丈さで作られている金庫や原子炉格納庫なども連想できます。

出エジプト記25章から40章にかけて(特に35:4-40:34)、シナイの山上でモーゼが律法を神から授かった後、イスラエル人達は荒野でアーク(掟の箱)を収納する為のohel/ אֹ֫הֶל(幕屋)と捧げ物の祭壇、洗盤、などといった神の崇拝に必要なもの一式を神の令により造りました。つまり、まだ荒野の中でsukkot/ סוכות(仮庵)で生活している時に神の為には自分達の仮庵よりも上等なohel/ אֹ֫הֶל(幕屋)を造ったのです。そしてアークが入っていてカーテンがついている幕屋、祭壇、洗盤などの崇拝に必要な一式は、約束の地での定住生活が進み、やがて王国を建ててから3代目の王であるソロモンの時に始めて、エルサレムに恒久的な形式とするため、寺院を建てたのです。しかし、ソロモン王の立てた立派な神殿も、バビロニアの侵略によって破壊され、バビロン捕囚後に帰還して二代目の神殿を建てました。ところが、これも後にギリシャによる侵略に遭い、ヘロデ王が三代目の寺院を建てました。イエスのその腐敗を厳しく指摘し、このような堕落した寺院は今に取り壊されるであろうが、自分が3日目にそれを建て直す、と宣言した寺院がこれです。そして、三代目の寺院も紀元70年にエルサレムがローマ帝国により焼き落とされた時に破壊され、それ以来、再建されていません。しかし、イエスが預言したように、新しい神殿はもう既に建てられていて、それはつまりイエスの復活した体のことなのです。そして、パウロは私達信仰のある者の共同体が教会と言うものであり、それをキリストの体に例えています。つまり、教会という私達信者の集い、共同体、が復活したイエスの体としての新しい神殿といえましょう。

旧約聖書においてユダヤ人がもっとも神聖なものとして非常に大切に扱ってきたのが掟の箱であり、それが収納する掟(神と私達との関係を示す証言/testimony、約束/covenant)なのです。そして、この掟の箱を大切に保護するように収納する丈夫な幕屋がtabernacleであり、かつてのエルサレムの神殿の中では最も神聖なところでした。しかし、ローマ帝国による神殿破壊によりこれらもすべてなくなってしまい、かつてユダヤ人達が出エジプト記25章から40章までに記されている時代以来恒久的なものとされてた幕屋もその中の掟の箱もすべて無(亡)くなってしまったということです。こうした意味では、長い目で見れば、丈夫に作られていた幕屋も所詮、仮庵のように諸行無常の摂理の中にあるものなのです。しかし、新しい掟であるキリストとその復活後の体は、永遠の掟の箱であり、それを格納している恒久性のある幕屋でもあり、永遠に破壊されることがないイエスが約束した神殿そのものなのです(ヨハネ2:19)。勿論、イエスが約束した永遠の神殿はそれまでの神殿のような物質的な建物ではなく、諸行無常の摂理を超越した形而上的なものなのです。このことは、私達の今生きている生物学的な命が仮庵のような一時的なものであっても、その中に宿る永遠の魂と私達の弛みない信仰心ゆえに、キリストが約束どおりに再降臨し復活する際に与えられる新しい体(1コリント15:51-54)はそれまでの仮庵に例えられた朽ちていった肉体とは違う不朽の体であることを理解する上で並行できるものなのです。

エジプトに例えられる苦しみや死のある人生から、神が約束したヨルダン川を越えたカナンの肥沃な新しい定住地に例えられる死を超越した苦しみから解放された自由な人生への変遷、成長のプロセスとも例えてみることができます。更に、このプロセスは、創世記3章以降の、原罪による失楽により体験するようになった、罪、苦痛、死、悲嘆、を伴う、悪魔の誘惑や攻撃との戦いの人生から、黙示録22章にある新しいエルサレムとされる恒久の楽園への救いの流れとも考えることができます。だから、お呼びが来て、朽ちていく肉体とそれへの執着を捨ててこの世を去るということは、黙示録22章にある新しいエルサレムへ向かう旅立ちであると悲嘆の中にある遺族の方に考えていただけるように示唆したわけです。そして、こうした形而上的なエルサレムの天庵に落ち着くまでの長い長い魂の旅の過程に死という通過点があり、それまでの肉体をもった人生が仮庵の人生であり、かつて栄華を極めたエルサレムの神殿とその中の幕屋も更にその中の掟の箱もすべて仮庵に例えられる私達の肉体のように諸行無常の摂理により消滅しても、この摂理を超越した恒久の新しい掟であり復活後の新しい体を持つキリストに帰依することで、私達もいずれ、不朽の新しい体でもって復活でき、魂がそれに宿り、新しい永遠の形而上的エルサレムの天庵に落ち着くことができるという、旧約聖書から新約聖書すべての流れの本質をも理解できるのです。


すると、この遺族の方は私と一緒にこの仮庵の比喩について聖書を通してより詳しく話し合いたいとおっしゃったので、ごく簡素化してはいますが、概ね、創世記から黙示録までの聖書全体を一つの流れ、スペクトラムとして次のように話しました。

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まず、この世に人生にある肉体を仮庵に例え、こうしたこの世における生物学的な人生を出エジプト記にある40年間の荒野における仮庵生活だけでなく、アダムとイブが原罪により失楽して依頼人類が何世代もの間体験し続けている罪や苦と死のある、旧約聖書の話を特徴付ける生活を、私達が生きていく中で体験する様々な苦痛や喪失、離別による悲しみなどと並行していただきました。そして、旧約聖書の苦痛や死や悲しみのある物語の中で神がどのような形で罪深き人間を救いへ導き続けてきたか、律法や預言者の意義に注目して考えていただきました。そして、ここから、旧約聖書から新約聖書へと移行し、慈悲深い神の恵により、およそ2,000年前に私達と同じような人間に肉体で神がイエスとしてこの世に現れた“クリスマス”、の意義を改めて思索していただきました。そして、そこにはヨハネ3:16にあるように、この世における苦しみや死と向き合って生きている私達への愛を示し、このことが、イエスという人間の人間の肉体を通して私達と交わることの目的であると示していることを再確認しました。それ故、イエスは罪深い人、苦しみが多い人、死を体験した人などに対してより親密に交わっています。新約聖書の四つすべての福音書は異口同音に、イエスの降臨の目的は私達がその罪深故に救いの可能性を失わないようにする為に受難し、そして、受難から3日目に復活し、死を超えた神の命の力を示し、信仰によって私達がキリストを通して得ることができる新しい命とはこのような死をも超越できる永遠の命であると教えたことがよくわかるようになります。そして、復活後40日目の帰天を前に、聖霊の降臨を約束し、またそれはヨハネの福音書14章にもあるように、イエスが最後の晩餐の時の説教で預言した、やがてその姿を消す彼にとってかわる存在である“もう一つのparakletos“として父が彼の名において送り出す聖霊でもあることを再認識して、福音書に続く使途伝の2章に記されている聖霊降臨による教会の誕生の意義が理解が更に深まります。

こうして、私達は着実にイエスが約束した神の国という救いへスピリチュアルな旅を続ており、この旅は、出エジプト記にあるユダヤ人が40年ものあいだ荒野の中で様々な試練に耐え抜いて、ついには神が約束したカナンの肥沃な土地で定住できた話とも並行できます。そして、死を含めた苦難のある人生とは、仮庵に例えられる、やがて死に朽ちていく肉体のある人生、創世記3章にある失楽以降の人生を特徴付けるものであります。しかし、イエスの教えとイエスがもたらす様々な恵、そして彼の名において父なる神が送り込む聖霊とその恵、中でも、命の水、命のパンに例えられる恵みに注目して、聖霊降臨を受けて教会という共同体として新たに生まれ変わった私達信者の、神の国という最終目的地までの旅を使途伝に続くパウロの書簡などを通して更に考え、聖書の最後の話である黙示録の内容を思索しながら、私達が避けて通れないし、そして、死に関する不安や悲嘆などの苦痛の意義、そして、肉体という仮庵がある故に体験する様々な病や苦痛の意義についても一緒に思索しました。

私達がこの世で経験、体験、するものは神の言葉であり本質でもある、ロゴス、を含めた霊的なもの意外、仏教の諸行無常の教えにもあるように、すべて”無常”であり、流れていくものです。臨床宗教学的に見て、こうした対象への執着は、発達精神医学的にいえば、神との愛着形勢の問題、そして、それによって神を信頼できないという精神的、スピリチュアルな不安定の兆候です。だから、スピリチュアルな自慰行為ともいえる偶像崇拝に代表、象徴される唯物主義、拝金主義、依存症などへと魂を腐敗させていく危険があるのです。こういった意味でも、ギリシャ語でいうpistisという信頼という意味をも含む信仰の教えは、仏教で咎める、無知、執着をかもし出す欲(パウロが咎めるような肉欲)、怒に代表される前頭葉による統制ができない暴れ放題な感情への咎め、という三毒の観点からもよりよく理解できるかと思います。つまり、信仰とは神を知ることで神に対して無知ではなく、神を信頼することで神に帰依でき物質的なものなどへの執着をしないようになり、と聖アウグスチヌス(St. Augustine)がいうように、神に自分の心を置くことで心が安泰になるということです。

だから、今この世で生きているということは、肉体という諸行無常の摂理の下の
仮庵で生きているわけで、肉体的な死というのは、この肉体の仮庵がもう必要でなくなり、この時点からはいつでも神の正当な裁きにより神の国の永遠の庵へ向かう事ができるということです。その間に、キリストが再降臨し、眠りという形で待機中の私達の本質である魂を呼び起こし、新しい体(聖書ではそれを”肉体”(sarx)という言葉で記しており、ただ一般的なsomaというギリシャ語で記していることに留意)でもって復活し、永遠の天庵である黙示録の最後にある新しいエルサレムの住民となり、永遠の祝福を享受しながら生き続けるわけです。

そして、この天庵がある私達が目指す本当の故郷である黙示録22章に描かれている新しいエルサレムには命の水の川が流れており、食べ物が豊富です。これは、私達の祖先であるアダムとイブが原罪によって失ったエデンの園とは比べ物にならないようなすばらしい楽園でもあります。これが与えられるという神の約束を信じ、それを目指すゆえ、私達はその過程にある様々な無常の対象惑わされたり誘惑され、それらに執着して寄り道したり、間違った道へはまり込んではいけないのです。ある意味では、こうした私達のこの世の肉体的人生における肉体という仮庵の旅は、ユダヤ人の出エジプトの40年にわたる荒野での試練の旅にも例えられるようなものでしょう。彼らも、神が約束したヨルダン川を越えた地に辿りつくまでは(そしてその後も自分達の王国を建てるまでは)ずっと仮庵でしたし、それに、道中、のどが渇ききってもう死にそうだという時、神はモーゼに水源の岩を示し、命拾いの水の恵みに預かることができました。しかし、信仰心の弱い連中はこの間、偶像崇拝の誘惑に負け、死滅してしまいました。

エジプトから神が約束したカナンの肥沃な土地までの40年にもわたる荒野の厳しい旅において、生き抜く上で大切なのは水でした。エジプトを脱出し、紅海をわたり、追いかけてくるエジプト軍を完全に振り切りやっと脅威から開放されたと思いきや、空腹に襲われた後、いたたまれなく喉が渇いてきて、水が必要でしたが砂漠の真っ只中ですからそのようなものはありません。そこで困ったリーダーのモーゼはまさに“苦しい時の神頼み”で喉が渇いて死にそうだと不満をこぼす仲間達の為に神に祈り、それを聴き入れた神は水を与えたという話(出エジプト記17:1-7)があります。

イエスはイザヤの預言書58:11を受けて、ヨハネの福音書7章38節において触れている命の水とはペンタコストにおける聖霊降臨との掛詞的なものでもあり、尚且つ、ヨハネの福音書4:10においてイエスがサマリア人の女に井戸端で教えた、これを飲めばその後ずっとのどが渇くことがない恒久的な命の水、つまり、復活に繋がり、恒久的な庵へと導いていく永遠の命の水、をも受けているものです。実は、このイエスが教え、私達が求めるように勧める命の水とは、イエスによってしか与えられない恵みであり、イエスの名においてイエスが天の父のところへ帰った10日後に強風と共に大雨のように降り注がれた聖霊の力の恵みでもあるわけです。信仰による共同体としての私達、つまり、ecclesiaという教会という新しいキリストの体は、こうした天からイエスの名によって父なる神が降り注いだ命の水である聖霊の力でもって産まれたのです。これなくして、悪霊がうようよしているこの世における仮庵生活はより一層危険なものとなるでしょう。

また、ここでいう命の水とは、実は、ゼカリアの予言書14:8にある命の水、更にさかのぼり、イザヤの預言書8:6で触れている水でもあり、また、ヨエルの預言書3:18にある流れる水を受けたものであるともいえましょう。さらに、極めつけともいうべき旧約聖書のおける預言では、この命の水とは、エゼキアの預言書47:1に記されているバビロニア捕囚からの帰還後に復興するエルサレムで新しく建て直された寺院の基から東にむけて流れ出る水の流れをも示唆し、この流れの水が黙示録22章に描かれている最終的な庵である楽園に流れる命の水の流れを暗喩的に預言しているものだといえます。

ゼカリアの預言書でもエゼキエルの預言書でも、イエスが約束した永遠の命の水を預言していると言える新しく建て直された寺院から流れ出る水は、バビロン捕囚帰還後に復興させた新しいエルサレムにあります。ゼカリアの預言書14章にあるエルサレムとは、本質的に、エゼキアの預言書40から48において触れられているバビロン捕囚後に神の恵みと導きにより復興されたエルサレムであり(原爆投下後に復興した広島や長崎、そして、大空襲後に復興した東京を始めとする日本の各都市、そして、東日本大震災などの震災による大被害から復興した地域にも例えることができますね)、これが黙示録22章にある私達のこの世における試練多き悪霊との戦いにおける仮庵生活の末にある恒久的な庵である、本当の平和の都市、形而上的で永遠の霊的なエルサレムへとつながるのです。

私達の信仰でいう永遠の形而上的エルサレムとは“エルサレム”(Jerusalem)という地名が意味することそのものでもあります。なぜならば、エ(イェ)ル(Jer)は場所、都市、を意味し、サレム(英語ではよくサーレムと発音)(salem ->shalom, salaam)とは平和、平安、安泰 と意味するという語源的構成になっています。つまり、ヘブライ語でエルサレムとは平和を意味する都市なのです。と言うことは、これはアウグスチヌスの有名な書、Da Civitate Dei contra Paganos (日本語では神の都市というより、神の国、と訳されていますね)の意図するところとも呼応している感じがします。神の敵や霊的腐敗などによってローマは衰退しても、霊的腐敗との戦いを貫き信仰を守り通した者が永遠の祝福をうける”Da Civite Dei”の君臨とその恒久性が、ゼカリヤの預言書の最後である14章にあるエルサレムであり、私達にとってこのエルサレムとは中東にある地政学上のエルサレムではく、寧ろ、霊的、形而上的なエルサレムであると捉えておくことが大切です。でないと、この預言書が書かれた頃よりはるか前より続く中東での紛争や、かつての大日本帝国の国粋主義的なシオニズム(Zionism)を煽ることになりかねませんから。ここで大切なのは、私達の魂の旅の最終目的地である形而上的な永遠のエルサレムというのは、スピリチュアルなものであり、聖アウグスチヌスが言うように、仮庵生活の私達の不安な心を信仰により神に帰依することで安泰なものとするようなプロセスの目的であるということなのです。だから、shalom,  salaam, 安泰、を意味するエルサレムなのです。地政学的な執着のままエルサレムを思っていても本当のエルサレムには到達しません。

私達が私達の為のエルサレムという永遠の定住地へ辿りつくまでは様々な試練があり、当然、”戦争”もあります。出エジプト記の続編であり完結版ともいえるヨシュア記を読めば、ヨルダン川を越えた最終目的地へ定住できるまでの道程において様々な妨害を受け、それらと戦いぬき、勝利を重ねていることがわかります。私達の信仰の旅、仮庵から天庵までの旅も、様々なスピリチュアルな戦争があります。

戦争中の兵士達、どのような形態で寝泊りしているでしょうか?自衛隊員の方や大東亜戦争で戦った方であれが誰よりもお分かりでしょう。その形式は様々であれ、仮庵ですね。移動する兵士達の生活は、ある意味では遊牧民がテントという仮庵で寝泊りしながら食料を追い求めて移動して生活することにもたとえられるでしょう。そして、私達信者のこの世の生活とは、交戦中の兵士達のように常に悪霊や霊的腐敗と戦い、また、神が与える日々の糧、つまり、聖体、を求めて、神が導く方向へと聖霊の誘導によりDe Civitate Deiである本当の庵であるエルサレムへ到達するまでの長い長い仮庵生活の旅なのです。そして、エペソ人への手紙6章の10節から18節を読むと、この長い仮庵生活と霊的な戦いを聖霊の力でもってどう乗り切り、私達の目指す最終的、恒久な(そして、高級でもあるでしょう)庵であるエルサレムまで脱落しないように、また、悪魔からの誘惑や混乱により神の軍隊から逃げたたりするような裏切り者にならない為のアドバイスを汲み取れます。

まだまだこれからも悪霊との戦争が続きますが、聖霊の力という形の神の加護と聖霊による命の水と命の糧である聖体と御血でもって、私達はこの霊的な荒野での厳しい肉体の仮庵生活を乗り切り、私達の将軍であるキリストが最降臨する際に復活し、パウロが後任者テイモテへの第二の手紙4:7-8に書いたように信仰を守りぬくことで勝ち残った者であれば、それはエペソ人への手紙4:13で触れているような、キリストの完全性のような性質を帯びており、まさにパウロがコリント人への第一の手紙15:52で記しているような新しい不朽の体で復活できるということです。そして、この復活の際の不朽の新しい体とは黙示録22章に描かれた永遠の庵で祝福された生活をするにふさわしい完全性のある体を得ることができるわけです。そして、ペテルス ロンバルトゥス(Petrus Lombardus) は“命題集”( Magister Sententiarum)4:43-44において、この際の復活の体はこの世における仮庵であった肉体での生活の時の性別はそのままであるが、その際の新しい体は誰もが(死亡した時の実際の歳に関わらず)キリストが死んだ歳と同じ32歳3ヶ月であると書いています。これが本当にその通りかどうかは、今の仮庵生活を乗り越え、悪霊との戦争に勝ち抜き、復活して、永遠の庵で再会するときに皆で確かめ会いましょう。

今まだこの世で仮庵という肉体と共に、そして、その肉体との軋轢による問題や罪と戦いながら生きている人も、もう既に肉体を離れ魂だけでいる人も、キリストの再降臨の際には皆、パウロによるコリント人への第一の手紙15:35-54に記されているように復活できるわけです。しかし、復活の際に不朽の体を得てそれに相応しい神の国、形而上的で永遠のエルサレムの天庵で罪や苦痛や死から完全に自由に定住できる為には、まだこの世で肉体の仮庵生活をしている過渡期の間にパウロがエペソ人への手紙4章に記しているように完全な人間の姿を示すキリストと一心同体となるべく弛まぬ努力をしながら悪間との戦いを勝ち抜いていかねばなりません。勿論、その為には常に聖霊の力と禊による刷新をし続けねばなりません。目指すは、中東の紛争の中にあるエルサレムではなく、イエスが王として君臨する神の国の首都である形而上的な本当のエルサレムに用意されている復活後の私達の天庵です。この長い戦いの道程における避ける事ができない通過点が肉体というやがて朽ちて消滅する仮庵を捨てるという死なのです。そして、信仰により、聖霊の力強い導きにより、この死という通過点を超える前に、エスが与える命の水の恵やキリストの肉体である命のパン(ヨハネ6:35、47-51,53-58)の恵みをしっかりと享受しておきましょう。“腹がへっては戦には勝てぬ”と昔武士達が言ったものですが、私達の仮庵生活においても然りで、霊的に空腹となり悪魔に打ちのめされない為にも、これらの恵によってしっかりと腹ごしらえをしておきましょう。ヨハネ6:63でイエスは名言しています、こうした命の水であれ、命のパンであれ、これらすべての恵の本質は永遠の命の本質である聖霊そのものなのです。

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先述の遺族の方も、私と一緒にこうして聖書を通して、悲嘆を超えたコンテクストで受胎というこの世で生を受けてから死までの仮庵生活と、その後にある新しい体での天庵定住生活の流れで悲嘆の意義を考えると、キリストが最降臨する時に先立たれた夫と一緒に天庵用の新しい体で復活することを楽しみにしているとおっしゃっていました。しかもそれがお互い32歳3ヶ月の姿での再開ということを想像して少しにこにこしていました。そして、ちゃんとこの天庵お誂え向きの体で二人で一緒に神の国で定住できる為に信者として自分が今しなければいけないことに心の重点を移すことができるようになりました。だから、この未亡人の方は、もうこの世での仮庵生活への執着も薄れつつ、今という時の仮庵生活を今まで以上に意義あるものと信仰によって精進しています。