Friday, April 7, 2017

批判と非難:礼儀ある批判、礼儀知らずの非難

“君の言っていることは間違っている”、“君の主張は的外れである”、“君の言っていることは屁理屈で何を言っているのか分らない”。

こうした発言は“批判”なのか、それとも“非難”なのか?それらの分水嶺は、このような発言の後に続くフォローである。

例えば、“君の言っていることは間違っている。なぜならば、君が示したAという議論は、XYZというAそのものが意図することから逸脱していると考えられるからだ”、という理論的な理由付けをするのが礼儀である。また、科学的な議論においては、エヴィデンンスや相手の方法論を理論的根拠でもって批判するのが常識。しかし、こうしたフォローなしに、ただ、“それは間違っている”というだけでは論理的に正等な批判なのか、それとも非難なのか相手にとってはわかりにくいので失礼である。

批判すると言うことは真実の探求の為に、私情を抑えできるだけ客観的に、それ故、論理的に相手の主張の間違いと思われることを指摘し、相手が自ら自分の議論を再検証し改正できるように促すことである。こうした礼儀ある行為が議論における礼儀というもおである。しかし、こうしたフォローをするという礼儀を欠き、ただ相手に対して、“君の主張は間違っている”、というだけでは論理的に正等な批判、礼儀に沿った批判とはいえない。

誰かの意見や主張、論説、を批判する時ほど、自分が使う言葉の重みを実感し、その責任を全うしなければならない。ただ、感情のままにこうした発言をすると、それこそ、屁理屈同様かそれ以下の非難でしかない。

知的な会話、議論、において批判はとても重要である。なぜならば、理論的な批判なくしては真実の探求は健全に行われず、それ故、学問の進歩もない。批判のない議論なんていうのは、同じ考えしかできない人たちの内輪の集まりでしかなく、違った意見や見解を自分達のサークルへの脅威と直感的に捕らえてしまい、過剰に批判的になる。それでも、論理的に批判できるならいいのだが、感情に支配されると、人間の心はどうも前頭葉の機能が大脳辺縁帯のそれよりも相対的に弱くなり、面倒な論理的な批判をするよりも、ad hominenの愚を犯しがちになる。

まさに、夏目漱石が“草枕”の冒頭で言った、“智に働けば角が立ち、情に竿させば流される”、です。つまり、理論的にあれこれ議論すると必ず誰かと衝突するのは当然のことで、それを恐れて、つまり、自分の論理を主張したくてもこうした意見の衝突に対する不安や恐怖といった感情に流されてしまってうまく言えずに葛藤の陥る、或いは、自分の考えに対して挑戦的な議論をしてくる人を自分の感情のまま非難するようになる。
真理の探究によって発展する学問にとって批判は不可欠であり、批判すること、されることを恐れていては、正等な議論はできず、そのような人は学問発展にとって貢献し難い。そうした人ほど、ただ自分の感情の流れるままに相手の議論を論理的に批判するというよりも、相手そのものを非難するad hominenという礼儀を欠いた行為をとるものである。智に働けば角が立つのは当たり前であり、そうした論議の上で必然的な角を違う観点から論理的に切磋琢磨しあうことで角は丸くなり、やがて角に隠れていた新しい真実が見えてくるのである。そうしたことを可能にするのが礼儀のある論理的に正等な批判なのである。


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