Saturday, June 10, 2017

自我からの開放、平和、平安、をめざす三昧



芥川龍之介の“蜘蛛の糸”を無量寿経にある阿弥陀如来の四十八誓願の中の第十八誓願に照らし合わせて読むと改めて自我への執着が結局自分を惨めにするものであるかが分かります。阿弥陀様の慈悲の恩恵ですらぶっ壊してしまうのですから。これはキリストが教える福音の真実に対して盲目な人ほど自我への執着が強いということに似ています。

犍陀多という悪人が血の池地獄で苦しんでいるとき、慈悲深き阿弥陀様はかつてこの悪人が一匹の蜘蛛を助けたことから彼を救わんと、あたかも蜘蛛の恩返しとでもいうような形で、一本の蜘蛛の糸を差し出し極楽の方へ上ってくるように計らいました。まさに無量寿経や親鸞聖人による悪人正機説でいわんとしている、悪人をもふくめたすべての人たちを救わんという阿弥陀様の慈悲の本願がこの蜘蛛の糸によって犍陀多にしめされたのであります。しかし、犍陀多にこの阿弥陀様の計り知れない慈悲の心という他力が理解できませんでした。だから自我のままにその救いの糸にしがみつき、地獄で一緒だった他の悪人達も自分に続いて救われようとその糸にしがみつきはじめると糸が切れて自分も他の悪人も諸共にまた地獄へ突き落とされることを恐れ彼らを蹴飛ばしました。そして、この救いの蜘蛛の糸が切れたのです。つまり、救いの糸が切れたのは他の悪人達の重みによるものではなく犍陀多の私欲による他の悪人達を救いの糸からけり落とすという行為だという比喩的論点により教えんとすることは、いかに自我というものが阿弥陀様の慈悲の計らいですら破壊してしまうようなものであるかということを自戒することだと考えられます。

更に思ったのは、他力本願の意味が分ると自己主義的な生き方から自分はまわりの人たちだけでなく様々な対象のおかげで生かされているということを悟り、それらに対し、思いやりや労りの心が膨らむようになるということです。特に、普段、見過ごしがちになったり、つい見下してしまいがちな、人達や生き物へこうした感謝と共感の念を向けることです。つまり、自我の毒を中和するいい薬は阿弥陀如来という他力の御心ともいえる本願に全てを委ねて帰依することしかないのではないでしょうか?これが、第十八誓願に示されている本当の他力本願であり、自己中心的な自力本願という妄想をぶち壊すものだといえます。そして、浄土真宗を禅宗的に行うのであれば、様々な災いの背後にある自我とそれがもたらす自力本願の妄想を克服せんという真摯な願いより阿弥陀仏に南無、つまり、帰依、せんという念仏三昧によって禅定するのことが必要なのです。いくら苦行しても、こうした念仏の素直な心がないと無意味でしょう。というか、“私は他の人ができないような苦行をして耐えてきたからこそ、それなりのご利益が得られるのだ”なんていう自我自力むき出しの考えで精進すれば、それは寧ろ百害あっても一利もなしでしょう。

東洋の代表的な仏が釈迦だとすれば、中東の代表的な仏はイエスだといえましょう。、まあ、イエスの場合、真実に覚醒しているという意味では仏ですが、実はそれ以上の存在であり、三位一体の考えからみれば神そのものなのです。でも、その教えはやはり釈迦ととても似通ったところがあり、彼の福音による救いの教えには、やはり、自我がその妨げであることを示唆しているところが幾つもあり、それ故、イエスは、自分を善き羊飼いに、そして、私達をそれが愛し世話し導く羊達だという比喩でもって自我をすてイエスという羊飼いの教え、導きにある真理に“南無”、帰依しなさいとヨハネによる福音書第十章で教えています。そして、この教えを更に補強せんと、最後の晩餐のときの説教において、自分が天の父に属する如く、私達もイエスに属するのである(ヨハネ14:20)、と説き、つまり、自分が父に従順であるように、私達もキリストであるイエスに従順でありなさいと教えているのです。更に、ヨハネによる福音書第15章のはじめの15節においてイエスという神である仏は、今度は自分をぶどうの木の幹にたとえ私達をそれとしっかりとつながっている枝に例え、イエスと私達との一体的従属関係を教示しています。そして、私達が枝として幹に属していることは、イエスの愛の中に生きるということ、そしてそれが喜び(ヨハネ15:9―11)であるとも教えています。だから、イエスはその後、お互いを愛しあいなさいとヨハネ13:34で“Mandatum Novumとして教えた隣人愛、兄弟愛、の教えを再度強調しているのです。こうしたイエスの福音の教えに対し自我やそれによる自力といった概念は妨げになるなるのです。

もし犍陀多が無量寿経や新約聖書の福音書をしっていれば、“おお、地獄の仲間の皆の衆も付いてくるんだな。この細い糸、大丈夫かな?でも、気にしない、気にしない、だって、これはすべて阿弥陀様、キリスト、の慈悲のお計らいなんだから拙者のような凡夫があれこれ案じて心配するより、ただただありがたくこの救いの糸を感謝し、私だけでなく皆一緒に救われたらそれこそ本望であり、喜びもひとしおだ”と悟ることができたのでしょうね。犍陀多がこうして自我をあの時克服していれば、阿弥陀様も地獄にいた皆も共に喜びを共有し、めでたしめでたしだったのでしょうが。

本当の意味で念仏三昧へと精進すれば、その過程で得られる阿弥陀様の無量の慈悲という他力の衆生救済本願への素直は、生きとし生けるものすべてへの思いやりが高め、私欲の飽くなき追求による幸せではなく、全ての対象との共存にこそ喜びと感謝の念を見出す生き方ができるようになります。そして、こうした仏教的な生き方はキリストの教えの中でも一番大切な隣人愛、兄弟愛、相互連帯の愛の教えにもつながるのです。

巷では、よく平和、平和、とやみくもに叫び、好き嫌いの感情的要素に踊らされて、憲法がどうだの、条約がどうだの言っても、これらはすべてそれぞれ考えが違う人たちの自我に触発された心の計らいのぶつかり合いでしかありません。そんな状態では本当の平和なんて生まれるわけがありません。平和といってもそれは見せかけであり、所詮、相対的、無常なものなのです。なぜならば、それは征服者、戦傷者などの強者が強引につくりだす妄想の平和だからです。かつてのPax Romana,そして、戦後日本を含めた現在の西側諸国の Pax Americanaなどがその歴史的ないい例でしょう。しかし、こうした妄想の平和はいつまで続くかわかりません。現に、冷戦からその終焉をも越えて戦後の世界体制をリードしてきたPax Americanaも、ロシアや中国という新台頭勢力による飽くなき世界覇権競争により揺さぶられているではありませんか。現在進行形で存在する地球を何度も完全破壊できるほどの核兵器や近年より活発になってきた世界的テロ活動なども、こうした一時的強者によってもたらされる妄想の平和の問題を露呈しているといえます。そして、こうした国際政治学的常識の背後にうかがえるのが自我によって操作される自力の概念がもたらす数え切れないほどの災いなのです。しかも、その多くが“平和”とか“社会正義”といった無智な私達が飛びつきやすそうな仮面をつけているので厄介です。

阿弥陀如来がいう平安、キリストがいう平和、を理解するならばやはりこれらをすべ見抜き、自我がもたらす様々な弊害を超越したところに三昧、無念無想、の境地を見出さねばなりません。その手引書として経典にある仏法があり、聖書にある福音があるのです。これらが一連して教えているのは、自我の咎めなのです。よって、自我のままで平和や社会の正義などを議論しても不毛であるといえましょう。確かに古今東西、経典や聖書は教え継がれてきましたが、やはり“論語読みの論語知らず”の感が否めません。だから歴史の悲劇は繰り返すのです。心を入れ替え、素直な南無、つまり、帰依の心でこうした東洋の仏である釈迦や中東の仏であるイエスの智慧を改めて学ぶことで自我という障害を認識しその災いを未然に防ぐことが救いにいたる平和、平安を享受する為に必要です。

自我の牢獄にいるかぎり本当の平和、救いはないのです。阿弥陀であれキリストであれ、いくら救いの手を差しのべても私達自身が自我という牢獄から真摯に出たいと願わない事には、犍陀多の私欲が蜘蛛の糸をぶっちぎってしまったように救いの効果を得るとができないのですから。犍陀多の本当の地獄は地の池というよりも彼自身が克服しきれなかった自我だったのです。そして、自我の牢獄から抜け出す手引きが経典は聖書に見出せるのです。


No comments:

Post a Comment