Tuesday, January 30, 2018

コーヒーと学問, コーヒーと私



私はコーヒーが好きである。一口にコーヒーと言っても、その種類、そして、その作り方もよりどりみどりで、ピンからキリまである。見栄張ったような言い方をさせていただくならば、フリーズドライのインスタントなんぞ論外。根っからのコーヒー党の私にとってコーヒーといえるのは、炒った豆を挽いて、化学の実験室にあるようなサイフォンで湯を沸かしてつくる飲み物である。

相変わらず稼ぎの悪い私にとってこれはたいそう贅沢な嗜好ではあるが、コーヒーは私の実存的要素の一つであるが故、本と並んで、これはどんなに貧乏になろうが譲れないものである。コーヒーや蔵書を手放すというのは自分そのものの一部を金の為に切り取って売ってしまうようなものである。しかし、シェークスピアの“ベニスの商人”的に言えば、私が世界一のコーヒーを手に入れる為に返せないような借金をしたとして、シャイロックのような高利貸しから、“払えないのならお前さんの肉を切り取って払ってもらおうか”、といわれれば、指一本を単価としてでもそのコーヒーをキープするであろう。まあ、アントニオのような幸運に恵まれれば、そんな痛い目をせずに、高利貸しを追っ払ってコーヒーをキープできるわけでもあるんだが。。。ここに私のコーヒーについての実存的ジレンマパラドックスがある。

あれは修猷館高校3年の時だった。当時、東大大学院独文研究科を修了後、赴任された英語の浅田先生は、放課後、私のような物好きを集めて“ドイツ語倶楽部”なるものを主宰され、ご専門であるドイツ語、ドイツ文学、そして、ドイツ文化、について興味深いお話で私達を魅了され、また、英語教師でもいらっしゃるので、英語とドイツ語の密接な関係をかつてのプロシアやデンマークをふるさととするアングロサクソンの歴史に因み興味深く説明してくださった。普通の高校の授業では教わることのないようなドイツ文化に関することを学びながらドイツ語のイロハを習う機会に恵まれた。それと同時に、本当のコーヒーの醍醐味を味わったのはあの時だった。というのは、浅田先生は筋金入りのコーヒー愛好家でもあられ、ご自分で選ばれ、惹かれた豆をサイフォン式のコーヒー沸かしにかけ作られたコーヒーの味はいつまでも忘れられないものである。オーソドックスなコーヒーという“媒体”を通した浅田先生の興味深いドイツ文化についてのお話、いや、寧ろ、ドイツ文化のお話という“媒体”によって私はコーヒーの奥深い世界へと魅了されたといったほうがいい。浅田先生のドイツ文化についてのお話というコンテクストでしった本当のコーヒーは、当時の私をちょっと既に大学生になった気分にもさせてくれた。おかげで、J.S.バッハのカンタータ211番、Schweigt stille, plaudert nicht (a.k.a. “Kaffeekantate”) なんかを大いに楽しむことができるようになった。この カンタータ, コーヒーを飲むことで落ち着きがなくなりお喋りが過ぎるようになる事をユーモラスにに描写。そういえば, コーヒーに染まった晩年のカントにもこのカンタータを彷彿させるものがある。落ち着きがない? お喋りが過ぎる? いや, それはコーヒのカフェインの効果で知性が活性化し活発な議論をしたがるようになるからである。

それまではネスカフェのインスタントがコーヒーだとしか思っていなかったが、選りすぐられた豆を炒って挽くあのアロマ、更に、サイフォン式の湯沸しで作られるコーヒーの奥深い味、これが本当のコーヒーなんだと、浅田先生の“ドイツ語倶楽部”を通して知ったのである。

それから大学へ進むと、教授の中には結構コーヒー愛好家が多いということがわかった。コーヒーのマグカップを片手に講じる教授は珍しくなく、更に、大学院に進み、より少人数のゼミなどではいつも教授も学生もコーヒーを飲みながら活発に議論しあった。大学、大学院を通して、コーヒーとはインテリの飲み物だということを実感した。

こうした背景から、私にとって、コーヒーと学問は一体的であり、コーヒーなくして学問は学問であらず、そして、学問なしのコーヒーはコーヒーにあらずでもある。勿論、期末試験や学位論文作成などの持久力が要求されるような時、コーヒーによる“景気付”なしには成果を収めることができなかったことは言うまでもない。つまり、私が紆余曲折の末に大学を卒業し、大学院で二つの修士の学位を得ることができたのも、コーヒーあってのことであるといっても過言ではない。

もし、私が大学などで講じる機会があれば、劇場のような大講義室ではなく、教授の研究室のようなこじんまりとした部屋をカフェのようにし、学生も私もコーヒーを味わいながらいろいろな名著を読み、シラバスに縛られず自由闊達に議論しあえるようにしたいものだ。そもそも、私が教える立場にあれば、シラバスなんていうのは、一応、私が担当する講座の“予定表”や“規則”とはいえ、”subject to change as necessary”であり、統計学でいうような“degree of freedom”がその根底にあり、更には、コーヒーがある。だからこそ、皆でコーヒーを楽しみながら自由闊達な議論の成果を共に享受できるわけである。そう、コーヒーは学問の自由の象徴的な飲み物でもある。で、コーヒーを飲みながら名著について議論していくうちについつい飲み続けるコーヒーに連動して歌いたくなるのが、Die Gedanken Sind Frei、というドイツの伝統的な学生歌です。そう、思想の自由、学問の自由、を意気高揚に歌うんです。学府にはこうした自由があり、それに付き物なのがコーヒーなんです。だからバッハはプロイセンの王がコーヒーをご法度としていたことにプロテストせんと、コーヒーカンタータとあだなされるあのSchweigt stille, plaudert nichtを書いたのです。そう、コーヒーは抑圧なんぞに負けない自由の象徴の飲み物だ、と言っても過言ではないでしょう。


コーヒーは大脳生理学的観点からみても、その覚醒作用や神経信号伝達促進機能により、私のような脳足らずでも思わぬ思考力を発揮させてくれる事やひらめきもあるので、天才でも秀才でもない私にとってコーヒーはとてもありがたい。時々、脳みそが倍増したようないい錯覚に陥るものである。


私は学者として生計を立てているわけではないが、あっちこっちで教える事があり、学問とは無関係な生活をしているわけではないので、やはり、良書とおいしいコーヒーなくしては私としての私は存在しないのである。


“クリープを入れないコーヒーなんて”という、コーヒーに入れる粉ミルク、“クリープ”の昭和40年代のコマーシャルにこのようなキャッチフレーズがあったことを今でも良く覚えているが、これを捩って言えば、“コーヒー、そして、本のない私なんて。。。そんな私なんて私ではない”という私自身の実存学的なstatementができる。 皆さんはどうですか? 皆さんにとっても、コーヒー、ただ好きだというだけでなく、自分が自分である為には切っても切り離せない実存学的なものでしょうか?

ええ? 私はただの“コーヒー中毒”ですって? 寅さんの言葉を借りるなら、“それをいっちゃ~おしめ~よ~!”、というか、こうした挑戦を受けるのであれば、“中毒”や“依存症”というのは、自分の後天的本質性の一部なのかどうであるかということを哲学的、心理学的、かつ生物学(生化学、生理学)的に議論しながらそうした挑戦を論破したいですね。そういえば、“Reality Therapy” という認知行動療法的な心理療法を編み出したWilliam Glasserというアメリカの精神科医が”positive addiction”という面白い臨床概念について議論していたが、これがいい反論の武器になりそうだ。。。しかし、Glasserは”positive addiction”について実存学的な観点からは議論していなかった。。だから、私がそれやらなければならない。。勿論、コーヒーを飲みながら。。そして、こうした議論に挑むというのも学問というものです。



嗚呼、珈琲。。。これは何にも誰にも抑圧されない自由のシンボル。これが自分の実存的な要素であれば、Ich bin frei、なんです。 Ich bin frei, solange Ich trinke Kaffee und lese Bücher!

Prost!


おまけ:

J.S. Bach: Terzetto "Die Katze lässt das Mausen nicht" from "Coffee Cantata", BWV 211


バッハのSchweigt stille, plaudert nichtの最後の部分にある, Die Katze lässt das Mausen nicht, die Jungfern bleiben Coffeeschwestern,  という, 猫がネズミを追い続けるように,  処女たちはコーヒーとは切っても切れない関係になる, といったユーモラスな三重(terzetto) です。



Die Gedanken sind frei