Thursday, February 1, 2018

与謝野晶子の情的な歌で考える思春期心理と性:私のプラトニックすぎた初恋体験からの教訓



柔肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君

与謝野晶子

この歌、ちょっとウエットなものも含め、いろいろな解釈がありますが、私にとって、中学時代の初恋のあの女の子の当時の胸の内を改めて察っせさせる歌です。それと同時に、この歌は、当時の私の彼女の気持ちへの鈍感さを反省させるものでもあります。

私が思うには、与謝野晶子がこの歌に詠み込んだ若い女の男への恋心は、中学時代の私の初恋の女の子が私に対して思っていたことと何となく似ているような気がしてなりません。後で知ったんですが、セーラー服がよくお似合いだった彼女、ずっと私に気があったんですが、恥ずかしがりや(だから、“からかい上手な高木さん”というアニメにでてくる、クラスメートの西方君への思いをからかいという手段で西方君に伝えようとする高木さんとは違うんですけど)で私に対する自分気持ちをずっと表現せずに3年の卒業式の直前まで自分の胸の中にしまっていました。中学の頃の私は硬派でシブいというイメージが面子で、小学校からの延長のように女の子なんて退屈だから興味なんかないという“ふり”をしていました。まあ、女の子なんかにうつつぬかさずにひたすら勉強して偏差値の高い進学高校へ合格して欲しかった親からみればそのほうが安心だったんでしょうが。。。

勿論、私はちゃんとした大脳辺縁帯を備えた健全な脳みそ(でも、知能と深い関係のある大脳皮質のほうはちょっと疑問ですが。。。)をもった思春期の男の子だったんで、当然、外的変化が著しくなってきた女の子に興味が湧いてきました。小学校の時、まったく気にならなかった女の子になぜか目を奪われそうになることがあったんですが、当時、心理学なるものをまだ知らなかったので、その理由がわからず、そのまま、また、知らんふりをしていました。勿論、蕾が膨らんでいくように変化していく女の子の胸に全然目が惹かれなかったといえばうそです。でも、面子にかけて“観察”したくても見てないふりするのに精一杯でしたが。。。勿論、私の一番の関心の的は、小学校6年生の頃には既に思いを抱き始めていた、一緒に同じ中学へ上がった、初恋の女の子です。そして、怒涛のように高まる彼女への情にのまれそうになりながらも、それを抑えようにもなかなか抑えられませんでした。まさに漱石が草枕の冒頭でいった“情に竿させば”っていう感じです。でも、なんとかやっとそうした大脳変延帯から湧き出る彼女への気持ちを前頭葉が司令する硬派でシブい仮面の裏に接着剤のように塗りつけて、硬派の仮面がはがれないようにしていました。しかも、中学3年間ずっとです。そのような自己否定に忙しかった私を、ずっと好きでありながらも彼女もまた自己否定的に自分の気持ちを閉じ込めていたんです。でも、その閉じ込めていた彼女の気持ちは、“ねえ、仲田君、私、あなたのことをおもふ度に血潮が騒ぎ肌が熱くなるのを感じるのよ。あなた、数学よくできるから、数学の難問はわかってても、こうした私のあなたへの気持ちはどうして分らないの? クールな仮面つけて、級長とかやってるけど、いつこうした私の気持ちわかってくれて目を向けてくれるの”、ってなものだったんでしょうね。でも、彼女、奥ゆかしいから、“あら、私としたことが。。。ごめんね。別に仲田君を困らせようとしたんじゃないの。ただ、ちょっと感情の高まりを感じたんで、つい。。。”、っというようにすぐに彼女の前頭葉からの司令に従ってしまい、また胸の奥へと押し込んだんでしょう。彼女らしい。。。

ええ? 思春期初期のぎこちない心理から一向に成長していない単なる私ののろけ幻想? いや、そうじゃないんです。のろけでも、心理的未熟さによる幻想でもありません。卒業式の前にとうとうしびりを切らした彼女のほうから告白された時の彼女のノートの内容からして、彼女の私にたいする想い、そして、それがこの与謝野晶子の歌に詠まれた情と似通ったものであることが in retrospect に分ります。彼女は好きだった私に対して3年間ずっとこの与謝野晶子の歌にある気持ちと似たものを自分の胸にしまい続けていたんだろうということが分かります。

ごめんね、N子さん。君の気持ちが分らなかった鈍感少年で。。。“柔肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君”という歌を詠んだ時の与謝野晶子のような心境に中学3年間ものあいださせておいて。。。

シブいとか硬派だとかいった面子でプラトニックな仮面をつけていた思春期初期の自分は、それ故に、彼女にも自分の気持ちを抑圧させるようなことになってまった。

こうした、なかなか通じないフラストレーションの恋心を自分の胸だけにしまい続けているとそれに相応した心理的負荷がかかっていきます。だから、彼女はついに私に告白してくれ、それのお陰で私も目が覚め、彼女に本当の気持ちを伝えることができたんです。本当は男である私のほうから、もし、それが“はずれ”で自分が恥ずかしい思いをしてもいいという勇気を持って、彼女に自分の素直な気持ちを告白していれば、彼女をあんなにも長い間苦しめないで済んだのですが。。でも、当時、もし、彼女も私も、二人の間には何もないような振りしていても、密かに、お互いの気持ちを歌で表現し合っていればどうなっていたんだろうと思います。私の対応にフラストレーションがあれば彼女は、この与謝野晶子の歌のようなものを送ってきたでしょう。そうであれば、私もはっと気付き、彼女への思いを私なりに歌にできたんでしょうけど。

望月に 想ふは君の 柔肌や 東風に想うは 君のかほりや

なんて詠めば、当時の彼女、びっくりしただろうな。。。ええ? すけべ過ぎますか? 当時の私には到底、そんな愛情表現なんぞできなかった。今だからこんな歌を詠めるんです。。。30年以上たったin retrospectだから。

In retrospectといえば、Kierkegaardが言ってましたね、Life can only be understood backwards; but it must be lived forwards…..人生というのはただ前に進むだけの一方通行だが、前進しながらも車のリアビューミラーを見るように振り返り、回想することで、それまでの人生の道程を歩んできたことの意義が分るようになる、といった趣旨のことを。つまり、人生っていうのはただ生物学的にみれば死に至るまで歳を重ねて老いていくだけであるが、哲学を心得ていれば精神的に成長するにつれ、それまでの人生を振り返ることで今までの歩みについての深い実存的な意義、人生の意義、を見出すことができるということです。なるほど、だから、当時は、初恋の人の心が読めず、ただ鈍感で硬派のかっこばかりつけてた少年だったのですが、それから30年以上の紆余曲折の人生を歩んできて、やっと全体像がつかめてきたように、彼女の心も、私自身の心というものも分るようになった気がします。

思春期心理というものは、大学や大学院の講座で学んでも、それはどちらかというと、いくらそれがevidence-basedであっても、自分の体験と照らし合わせられるような形で理解できるようになるには、そして、そうしたことを更に、和歌をはじめとする文学的なことなどにも照らし合わせて更に広く理解できる為には、ある程度の年月がかかるといえるのではないでしょうか。こうしたことは、思春期の子供達を相手にする中学、高校の先生やカウンセラーにとってとても大切なことですね。

柔肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君

この与謝野晶子の歌、私の初恋体験に照らし合わせると、思春期心理を反映している歌ともとれますが、この歌は、情と理の拮抗からくるジレンマという心理的力学をも反映しているといえます。勿論、情と理のひしめきあいに悩むというのは思春期心理における特徴の一つですが、この疾風怒濤の時代をうまく舵取りながら成長していくと、情と理というものを弁証論的にうまく両立させ、統合させていくようになります。ここに、孔子がその論語、為政、において説く、

三十而立、  
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩

という、吾十有五而志乎学、に続く成長過程があるのだといえます。また、情と理の両立は、Platon の理詰めの哲学からからAristotle の理と情の中庸をよしとする哲学への移行という形でも理解できます。そして、19世紀末期のNietzscheは“(音楽の精神からのギリシア)悲劇の誕生”(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik)という著作において、Apolloをプラトンがいう理性によるイデア的なものに例え、Bacchus としても知られるDionysusを情と肉体の微妙な関係がもたらすものに例えた。つまり、Apolloを大脳皮質、とりわけ、前頭葉、の機能、そして, Dionysusを大脳辺縁帯の機能、とでもいうように例え、これらのバランスがあってこそいい人生が送れ、そうでないと悲劇をもたらすと“警告”しています。発達心理学的に見れば、中学生、高校生、の思春期心理というのは、Apollo的な心理ベクトルとDionysus的な心理ベクトルとが拮抗し合っているしんどい時期だといえましょう。だから、あの与謝野晶子の歌に詠まれているようなフラストレーションが、Dionysus的な勢力が、相手のApollo勢力と不均衡な為に起るのです。

でも、私の初恋の女の子、N子さん、や私自身が体験したように、お互い胸の内に抱え込んでいた情を、その心理的負荷がキャパを越えない内にうまく処理しなければならないので、彼女は私に胸のうちを告白してくれ、それにより私も素直に硬派の仮面をはずして、その裏にそれまで貼り付けていた本当の情を打ち明けることができたんです。そして、当時、与謝野晶子のような文才があれば、なかなか口や恋文では言えないような情であっても、歌に詠むことで昇華できたことでしょう。歌に情を詠むというのは、万葉時代から行われ、臨床心理学的な観点、特に、Freudの精神分析にある“昇華”というコーピングの概念から見れば、納得がいくものです。

先述したように、孔子によれば、自分の欲するままであっても矩を超えないという本当の自由を古希を迎えるまでに得られるように成長するには、十五にして学を志すころから、大脳辺縁帯的、Dionysus的な情と、前頭葉的、Apollo的な理、をAristotleNietzscheがいうようにうまく両立できる技を身につけ磨くことが必要だといえますね。その為にもKierkegaardが言うように、前向きにしか進めない人生であっても、時折、in retrospectな回想も必要なんです。そうであれば、学を志したての思春期初期の情と理のぎこちない体験もとてもいい人生の成長の糧とわかり、そのありがたさがわかるものです。

思春期の子供をお持ちの親、そして、この難しい年頃の生徒を扱う教師やカウンセラーは、自分自身の思春期における体験の意義を踏まえながら、子供達の情と理のせめぎあいの微妙な心理を理解してあげることが何よりも大切です。異性にうつつを抜かして受験に失敗したらどうするんだ、と言いたくなる親や教師の気持ち、ごもっともですが、受験の邪魔になりかねない情を抑圧するような指導よりも、寧ろ、その情を受験にも役立てるように、歌に詠んでみるとか、詩に表現してみるように、指導するほうがいいと思います。確か、そのような教育法を執っていたのが、万葉集の恋歌を紹介しながら中学の国語の授業をしていた、あの金八先生でしたね。高校入試にもこんなのが出るぞ~、と言いながら。でないと、高校へ進学して、古文の時間でかならずお目にかかる源氏物語がちんぷんかんぷんでしょう。

最後にもう一言。。。話がぐるりと変わるようですが、近年の日本のカップル、セックスレスの割合が急増し、その一方でスカートめくり以上に陰湿な盗撮や下着泥棒とか風俗、それにマスターベーション的なポルノとかいった病理的な性活動は一向に衰退しようとしていません。少子化が深刻化する中、冷めた夫婦が増え、性的病理が蔓延しつつある日本社会。この問題の解決への鍵の一つは、この与謝野晶子の歌のようなものに隠されているのではないでしょうか? 女の情が分らずに体だけ大人になってしまった男というものは、性的病理に陥るリスクが高いですから。だから、思春期における情の抑圧はまずいのです。健全な性というのは大脳辺延帯と前頭葉がうまく連携してこそ実現するものです。情と理のバランスがあってこそ、情と理の対話あってこそ、性が、心理学的にも生物学的にも、そして、宗教学的、哲学的、にも、そのあるべき姿になるのです。この、与謝野晶子の歌は、情と理のアンバランスによるフラストレーションを詠んでいますが、これを放置していると、ニーチェがいうような“悲劇の誕生”へと発展し、現に、その一例が日本の性問題ではないでしょうか。

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