Monday, January 14, 2019

マリアさまに抱かれる赤子イエスさまを求めてやってきた雪国の三人の子供たち:私達の信仰、かくあるべし


宗教画を臨床心理検査でも使われている投影法で応用しながら信仰心について改めて考えてみましょう。。。

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まず、この絵をご覧ください。


さて、この絵を見て、感じたこと、思ったこと、想像したことなどをご自由にお話してください、と問われたらどのように答えますか? また、この絵にふさわしいタイトルをつけるとすれば、どのようなタイトルにしますか?


私は心理学のほか、神学も専門とするので、私のような者からこのような質問を投げかけられると、もしかして絵画統覚検査のような投影法で“精神分析”されるかもしれないと“警戒”される方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかご安心ください。パストラル心理学的に投影法を応用した自由連想によって信仰心を高める為の自己検証を促すものだとお考えください。

十人の方にこうした問いかけをすれば、十人十色、それぞれ違う答えが返ってくるはずです。何人かの答えの中である程度相通ずることがあっても、やはり、一人一人ユニークな答えがあってあたりまえです。絵のタイトルについては同じ答えとなる確率はゼロではないでしょうが。

かく言う私自身、この絵を見てまず思ったのは、マタイの福音書2:1-12に記されている東方からの貢物を持った三賢者が赤子イエスに謁見する為にはるばるとエルサレムを経由してベツレヘムへやってきた話です。しかし、この絵から醸し出される話のほうがマタイの福音書の話よりもより親しみのある話だと感じられます。

まず、イエスキリストがユダヤ人ではなく日本人だったら、と想像してみてください。

そうであれば、この絵に描かれているようなことが聖書の福音書に次のように記されていることでしょう。

イエスさまは雪国に住むマリアさまという聖母と夫のヨゼフさまが旅の道中、ある雪深い明け方前、貧しい農村でお生まれになりました。実は、マリア様に陣痛がきた時、夫のヨゼフさまは必死に適当な宿を探したのですが、どこからも断られ、しかたなしにたまたま見つけた雪野原にぽつんとあったかまくらでなんとか無事にお産をすますことができ、イエスさまは元気にお生まれになりました。

生後、近くの借家に落ち着き、赤子イエスさまがすくすくとマリアさまのお乳を飲みながら元気に育っていると、一番年上のお姉さん、二番目のお姉さん、そして、一番年下の弟、といった三人の子供達が手土産をもって隣村から雪深い中を遥々とイエスさまとお会いする為にやってきました。“ごめんくださ~い”、と三人の子供達はイエスさまがマリアさまとヨゼフさまと一緒にいる家の前に現れました。するとイエスさまを抱いたマリアさまが出てきて、“まぁ~、あなたたち、遥々よくいらっしゃいましたね。さぞ寒かったでしょう”、とお答えになりました。そして、マリアさまは、“さあ、さあ、中へお入りなさい”と子供達を家の中へと案内しました。

この子供達は誰よりよりも先に一番にイエスさまと友達になって遊びたいので、春まで待ちきれずにまだイエスさまが赤ちゃんの時に雪深い中を歩いてきたのです。

傍らにはイエスさまがお生まれになったかまくらがありますが、今ではイエスさまはマリアさまとヨゼフさまとご一緒に、マリアさまとヨゼフさまの実家に戻るまでしばらく雪国の借家に落ち着いています。そして、今、この三人の子供達が訪れ、マリアさまに抱かれたイエスさまはとても喜び、にこにこ笑ってこの子供達の来訪を喜んで歓迎されています。そして、お互い微笑み合うわが息子であるイエスさまと三人の子供達を見ながら、マリアさまは、この子(イエスさま)が生まれたとき、この世から見棄てられたような感じだったけど、今、こうしてこの三人の子供達がこの子の為に遥々と雪深い中、しかも、お土産まで持って、一番の友達になりたいからといって訪れてくれるなんて、と感心しつつ、この意義について深々と一人で瞑想的に考え込んでいました。

イエスさまご自身がおっしゃった(マタイ18:2-3)ように、信仰心において大切なのはこうしたイエスさまと友達になって一緒に遊びたいというような飾り気のない無垢純粋なイエスさまと親しくなりたいという心です。こうした純な心こそがイエスさまがもたらすべく救いへとつながるのです。教会に行っても、聖書を読んでも、神学の学位を修得してすら、イエスさまとの親しい一体的な関係なしにはイエスさまによる救いはないかもしれません。そういった意味で、私達の信仰心も、イエスさまを求めてはるばる雪道を歩いてやってきた子供達のようでないといけませんね。

洗礼の秘蹟を受け、その上、堅信の秘蹟を受けた信者の皆さん、あなたの心はこうした三人の子供のような、“寒さにも雪にもめげず”といったように、どんなことがあってもイエスさまを求める純な心をいつもお持ちでしょうか?

典礼暦において主の洗礼を祝す主日を迎えたばかりの今日、改めて罪無き主があえて私達罪人のように洗礼されることを選ばれた意義について、それが私達自身が受けた洗礼の秘蹟、更に、それに続く堅信の秘蹟、に与える意義についても考えてみましょう。ここで大切なことは、洗礼というものがだだ罪を洗い流すことを象徴するだけでなく、主御自身が洗礼されたことによって、私達の洗礼が主の洗礼という前例により、神との永遠の絆を打ち立てることを象徴し、神が天から洗礼時のイエスさまにおっしゃられたように、私達も神が愛する神の子となったことをも意味することを改めて自覚したのです。更に、イエスさまは御自身の洗礼後、40日の断食に耐え、悪魔からの攻撃を跳ね除け、弟子を集めて本格的な救いにむけた福音の伝道を開始したということ、そしてイエスさまの洗礼を起点としたこの伝道が御自身の十字架での死とそれから3日目の御復活を通して、さらに弟子達をペンタコストの日の聖霊降臨による弟子達をイエスさまの代表として世界伝道へ送り出すことへとつながっていくことまで考えれば、イエスさまの洗礼が私達の堅信の秘蹟にまで与える意義が理解できます。そして、イエスさまの洗礼に関するこうした一連のことに一貫している大切はことは、この絵から汲み取れる、純な子供心でイエスを求め、更に、こうしてイエスを求める心が聖霊による更に力強い洗礼を受けるという堅信の秘蹟により、共にイエスを求め合う“ともだち”と作っていくという伝道につながるわけです。よって、堅信によるこうしたイエスさまという友達を求める心を共有する友達を求めていくという伝道活動は、どんなに寒くても、雪にも風にもめげない強さを持つのです。そして、皆でイエスさまを求め合うことで救いへの道を共に歩むことができるわけです。

因みに、私がこの絵につけたタイトルはこの記事につけたタイトルと同じ、“マリアさまに抱かれる赤子イエスさまを求めてやってきた雪国の三人の子供たち:私達の信仰、かくあるべし”です。

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