Saturday, January 2, 2021

新年のごあいさつ:命の本質について生と死の一連性、一体性についての考察

 あけましておめでとうございます。とはいえ、喪中の方もいれば、元旦早々、愛する家族の一員を思わぬ事故や病気などで亡くす方もおり、めでたいはずの日が痛ましい悲しみの日となった方々も少なくないことを忘れてはいけません。

新年早々、めでたい時にこのような辛気臭い説教じみた挨拶なんかしやがって、縁起でもない、気分損ねたわ!塩撒いたるわ!、とお叱りを受けるでしょうが、新しい年の到来を、こうした辛気臭い の現実への憐れみの心を忘れずに祝うことはできないものでしょうか?

私は自分の専門がカウンセリング心理の他、臨床宗教でもあるが故、生きているが故に体験する死という不可避の現実を日常扱っているのでこのような挨拶をするのかもしれません。気を悪くされた方、どうかご勘弁ください。そして、スルーしてください。失礼いたしました。

さて、生と死についてですが、これらは on the other side of the coin to each other,  つまり、それらそのものがまったく違うものであっても本質的には表裏一体なものです。このことはキリスト降臨よりも500年ほど前のアテネで西洋哲学の祖と言われるソクラテスが死刑判決を前にした議論において、哲学に生きることは死ぬ練習をしているのであり、それ故、死を恐れない、よって、死を恐れ感情的になる人は哲学を知らない人であり肉体だけに生きているという証である、と説いたと、パイドンという書物に記されています。このことは、ソクラテスが魂の不死を論じたことの拠り所ともされ、ソクラテスの弟子であるプラトンのイデア論にも継続され、更に、プラトンの弟子であるアリストテレスが魂と肉体の密接な関係について論じています。

ソクラテスからプラトンへと受け継がれた霊魂不滅論はプラトンの影響を受けたと強く受けた言われる初期キリスト教においても反映されていると考えられます。初期キリスト教のソクラテスからプラトンへ受け継がれた霊魂不滅論は、使徒パウロがコリント人への第一の手紙1512 節から 58節で詳しく書かれているように、後のキリスト教の死生観における霊魂不滅論による復活の考えにも呼応しているといえます。そして、ここでパウロが復活について議論していることは肉体との関わりというコンテクストなのでプラトンよりもアリストテレス的な霊魂不滅論といえるでしょう。そして、中世になり、それまでプラトン的とされていたキリスト教神学にアリストテレス的なパラダイムを持ち込んだ聖トマスアキナスは、アリストテレスによる不滅の霊魂と肉体との密接は関連性において人間の霊魂は人間の形式をした肉体という物質に霊的な命の本質を作用させ肉体という物質的形式が命あるものと死という時まで機能できるようにさせることができる、と論じました。たとえて言うなら、ニューロンという神経細胞そのものはだけでは神経細胞の形はしていても神経細胞としての機能を果たせません。しかし、それにイオン電流が作用すると神経細胞として他の細胞ではできなような独得の機能を果たすことができるわけです。つまり、霊魂という命の本質との肉体という形式に対して相互関係は、神経伝達のイオン電流とその為の独得の物質的形式をもった神経細胞のようなものであると比喩できるかと思います。

形式的である肉体は仏教でいう諸行無常の自然の法則の下にあるが故、永遠にそのままの姿、形式で存在し続けことができず、死という現象により朽ちるというよりもその物質的構成分子、原子、へと自然の摂理により分解され自然界に還元去れます。そして、またその時がくれば、これらの分子や原子は生命の物質的形式である肉体を構成する為、アミノ酸高分子の形成などを経て使われていきます。しかし、一方、命の本質そのものである霊魂は死んだ肉体という物質的形式を離れそのままの姿で諸行無常の法則に従うことなく存在し続蹴る事ができます。ここに宗教と科学(自然科学)の微妙に面白いパラダイム的並行性やクロスオーバー的な何かを見出すことができます。

そして、こうして元来ソクラテスが唱えた、それを弟子のプラトンがそのイデア論に継承し、さらにその弟子のアリストテレスがより具体的に肉体との関係性について議論し、それを更にキリスト教神学に応用して霊性と肉体の、プラトン的(プラトニック)な観点から見れば対立相反しているような二者が実はそうではないと理解できることで改めてキリスト教における霊魂、霊性、と肉体、肉体的感触など、との密接な関連性を説いたのが聖トマスアキナスだといえましょう。そして、この聖トマスアキナスの考えでもって、創世記に遡って、改めて神の被創造体としての命ある人間について考えてみましょう。

創造主である全能の神(אל שדי El Shaddai)はまず三位一体の自分のイメージにて人間の肉体の基といえる物質的形式を創造された(創世記1:27)。しかし、それだけではただの物質的形式であり、人間として機能できません。このことは先述したように、神経細胞という物質的形式そのものでは神経細胞として機能できないということと同じです。よって、人間を神の姿をイメージした物質的形式をも人間たる存在とする実存的本質としてその肉体を人間のそれとして機能しうるようにする為に、神は命の本質であり霊性(これを聖霊とよぶ)、命の精、を地の誇り、つまり、土から造られた分質的形式に自分の息という形でその物質的形式の鼻の部分に吹き込むことで、その時点からそれはただの物質的形式ではなく、生命活動を営む肉体として諸行無常の自然の法則に従い霊界との密接なかかわりの中で生きている人間が存在します(創世記2:7)。

このことはヒンズー教や仏教の教理にあるインド系宗教哲学にある輪廻転生の霊魂論とは違うものです。

つまり、キリスト教的死生観にあるように、不滅の霊魂と無常の肉体は一見相反するようであっても、アリストテレスから聖トマスアキナスへ受け継がれた考えにあるように、人間の霊魂と肉体は密接にかかわっており、肉体の死滅後も生き続けることができるが故、神のご意思により復活の際には新しい肉体と一緒になることができ、これゆえに新しい肉体でもって復活することができるということになるのです。また、このことは創世記2:7にあるように、霊魂(נֶפֶשׁ,nephesh)は命の本質である聖霊が神の息を肉体の原型である地の埃 (עָפָר֙ מִן־ הָ֣אֲדָמָ֔ה  apar min (h)adamah) に吹き込んだ(נָפַח, naphach)結果だという教えに基付いていることにも一致します。

神は不滅であり、それ故、神の息吹である神の命の本質、聖霊、も不滅であるわけで、それが無常であるが故死滅することになる肉体という物質的対象に吹き込まれることで実存的本質である霊魂(נֶפֶשׁ,nephesh - ψυχή,psyche)が形成され、肉体の無常性と独立にかつ肉体に生命の活力を与えるという関連性でもって永遠に生き続け、これゆえ、新しい肉体でもっての復活も可能になるわけです。更に、この神学的真実は、更に、神の受肉(ενσάρκωση,ensarkose-incarnation(ヨハネ1:1,14) は聖母マリアの穢れなき肉体に聖霊(Άγιο Πνεύμα, Agio Pneuma)の力が作用した結果である(マタイ1:18; ルカ1:35)という神学的真実と霊性という命の本質と肉体という形式との関係において同じパターンです。

よって、死という現象は、ソクラテスを源流とするプラトン、アリストテレスが説く魂についての哲学、そして、聖トマスアキナスによるキリスト教神学を理解していれば、霊魂という観点かれみれば、復活による新しい肉体を得るまでの間の古い肉体と魂の乖離でしかない(パウロによるコリント人への第一の手紙15章12節ー58節)と理解できます。本来、不滅の命の本質である霊魂はそれに相応しい形式である肉体との相互的関連性にあるものなので、肉体の死による肉体からの乖離の後、時が満ちれば、新しい肉体と一緒になって復活を可能にさせるのです。そして、それを誰よりも最初に示したのがイエスキリストでありその復活なのです。聖霊の力によって聖母マリアの子宮を通して受肉したイエスキリストの血肉は聖霊とは切っても切れない永遠の関係にあるのです。だから一度十字架での死によって切り離されたイエスキリストの霊魂とその傷付けられた肉体はたった3日後に再統合され復活し、それ以降、イエスキリストはその肉体を持ち続けても決して再度死ぬことはないのです。なぜならば、この復活により死を克服しているからです。そして、時が満ちれば私達もキリストが2,000ほど前にそうであったように、霊魂と肉体と一緒に復活できるわけです。しかし、この際、イエスキリストとの違いは、キリストはそれまでの傷ついたままの肉体で復活しましたが、私達の復活の際にはそれまでの肉体を復元するのではなく諸行無常の摂理に縛られない不朽の新しい肉体での復活です。これを可能にしたのは、言うまでもなく、イエスキリスト自身の復活なのです。

プラトンの弟子であるアリストテレス、更に、中世にアリストテレスの哲学をキリスト教神学に統合した聖トマスアキナスによれば、不滅の霊魂は無常の肉体にその存在意義を与える命の本質であると考えることができるわけです。だからこそ、生と死は表裏一体であり、キリストの肉体でもっての復活(だから、復活後のキリストの墓穴は空っぽだった)により実は、生のほうが死よりも強力であることが証明されたわけです (コリント人への第一の手紙15:57;ガラテヤ人への手紙2:20)。

こうして生と死の一体性、密接な関係、を把握していれば、今恵まれている命という祝福に感謝し喜びつつも、その物質的、肉体的側面が時や状況により受け入れなければならない死を悲嘆に陥ることなく認識し、この認識から、今ある自分の命のありがたさを喜び、同時に、年の初めであっても死んでいく方とその方の家族や友人の悲嘆の心を憐むこともでき、そうした状況にある人達との一体感を辛気臭さなしにあるがままに感じ取ることができるのではないでしょうか?

実は、こうした生と死を分け隔てなく認識できるという能力は何も古代ギリシャのソクラテスからアリストテレスによる霊魂と肉体の関係、そして、肉体と魂の再統合による復活を信じるキリスト教についての理解や信仰ががなくても、日本人であれば本能的に勘付くことができるのではないでしょうか?

そもそも、日本人の心の本質的特徴をよく反映するものとして、本居宣長という国学者が論じたもののあはれという概念があります。これは、桜の花の美しさを喜びながらも、その美しさのにある儚さ、無常さを同時に憐れ嘆く、反二元論的な微妙な心理です。つまり、歓喜の心と悲嘆の心が分け隔てなく一つになったものです。そして、その共通項が桜の花に象徴されるような刹那の美しさ。

元旦の朝、ちゃんといつもどおりに病院のベットでなく自分の床で目が覚め、自分の力で起床でき、用を足すことができ、おせち料理を味わいながら食べることができ、おででたい気分で正月を過ごす事ができれば、それは、あなたが正月の今咲いている桜の花であるようなものです。しかし、あなたの命が今でも咲いている同じ桜の木には意外と多くの桜の花がその短い命を終えて現在進行形で散っており、あなたという桜がめでたいと感じている今この時ですら容赦なく地に落ちていっています。咲いているはこの桜の木で、もう一つのほかの桜の木は花見のピークが終わり、すべてが散りつつあるものだ、という分け隔てはありません。自然界にはそのような法則や現象はありません。

日本人として、そのあはれみの心でもって、日本人という一つの和を一本同じ桜の木とたとえれば、いや、もっと大きな一本の桜の木とするならば、人種、国籍、文化、宗教、言語などをこえた、同じ赤い血が流れて生きている人間という桜の花の木と考えていいでしょう。そして、この同じ一本の木から今咲いているものもあれば、同時に散り落ちていくものもあるという、咲くことと散り落ちることが、生と死の表裏一体性を同時に象徴していると認識できると思います。

桜の花びらが散り落ちる中で花見を楽しむ日本人で涙を流しながら悲しんでいる人はまずいません。皆、今咲いている桜の美しさに身とれて楽しんでます。しかし、節穴でもないかぎり、私達の目は、同時に散り落ちている花、そして、すでに落ちた花をも同時に見ているはずです。しかし、死を生と切り離そうとする心理作用が働くと、それを見れないような偏見となってしまいます。心のなかにこうした心理作用、つまり、仏教で咎める”計らい”があれば私達の心の眼は森田療法でいうように現実をあるがままに認識し受け入れることができなくなり、それゆえ、不安にとらわれる確率が高くなります。

まだ桜の花が咲き、散り落ちるまでに、地域にもよりますが、おおむね3か月ほどありまが、新しい年の初めに、改めて、また新しい年を迎えることができた意義を、そうできなかった人達のことをも思いながら、もののあはれの心でもってかみしめてみたらどうでしょうか?そうすることは本当に”辛気臭い”、または、”正月早々縁起でもない”ことなのでしょうか?

しかし、日本人の心の本質であるもののあはれの心でもって、一つの同じ桜の木には今まだ美しく咲いている花もあれば、段々その美しさにある瑞々しさに陰りが見られ散り落ちることの近さを感じさせるのもあり、今現在散っている花もあれば、今既に地に落ちて徐々にその木が立って命を吸い上げている土に還元されんとしている花もあります。それぞれその命の状態は違えど、皆同じ一本の桜の木の花です。そして、日本人全体、更に、世界の人々すべて、を同じ一本の桜の木から咲き、散っていく花のような存在であるともののあはれの心で改めて認識できれば、この正月、今まで以上に日本人としてこの世に生きている事の意義を深く実感できるのではないでしょうか?そして、一層、死がもたらす悲嘆にある人の心を憐れむことができると思います。

もののあはれの心に、ソクラテスからプラトンを経てアリストテレスへと受け継がれた霊魂の不滅性の概念を、聖霊と肉体の交わりとしての命ある人間をより深く理解する為にそれを聖トマスアキナスがキリスト教神学に応用したことを理解すれれば、今咲いている桜の花と散り行く桜の花と既に地に落ちて朽ちていく桜の花の一連性だけでなく、同じ一本の桜の木の花であるという一体性をも、分け隔てなくあるがままに認識でき、今いきていることのありがたさとめでたさと、今死に行く人、すでに死んだ人の霊魂と、今はまだ自分の肉体と連動している自分の魂を同じ命の源、つまり、神、でもって一体性を実感できると思います。

この新しい年が皆様にとって命を今までよりも一層ありがたくめでたく、もののあわれの心と霊魂の不滅性を信じて認識できることで、命の状態の如何に関わらずその不滅の本質に焦点をおきその尊厳を大切にしていける年であることを祈念いたします。更に、信者の方であれば、言うまでもなく、同一の命の源である神という同じ一本の“桜の木”に焦点をあてることで、神を讃え感謝し、命を喜び祝い続ける一年でありますように。

仲田昌史 拝


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