Saturday, December 4, 2021

聖フランシスコザビエルについて - ロレンソ了斎、高山ユスト右近、聖パウロ三木、細川ガラシャ、などへのつながり

 カトリック教会の典礼暦では12月3日は聖フランシスコザビエルの福音伝道の功績を讃える祝日です。それまでの任務地だったインドのポルトガル領、ゴア、を後にしたザビエルはご存知の通り1549年に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教をもたらしたスペインはバスク地方出身のとても情熱的なイエズス会士です。私の母校であるシカゴのロヨラ大学の姉妹校である上智大学などのイエズス会系の学校ではザビエル祭のようなイベントもやってますね。しかし、“日本にキリスト教を伝道した張本人”という中学の社会科の知識程度以外、どれだけ私達はこのザビエルという熱血男のことを知っているでしょうか?

ザビエルが日本になくしては、ロレンソ了斎は普通の盲目琵琶法師でしかなかったでしょう。そうであったなら、高山友照とその息子、高山右近、は熱心なキリシタン大名とはなっていなかったでしょう。高山右近が熱心なキリシタン大名でなければ織田信長の本陣地であった安土に日本で始めてのイエズス会のセミナリオ(修道院)が設立されることなどなく、長崎26聖人の一人である聖パウロ三木(上智大学の三木図書館はこの日本人イエズス会士聖人にちなんでいる)などもいなかったことでしょう。

右近はキリスト教迫害において最後まで棄教しなかったキリシタン大名の一人だったので, 城も統治していた領土もすべてを没収され、聖パウロ三木、そして、日本ではじめてキリスト教病院を京都に設立したフィリピンからやってきたスペイン人フランシスコ会神父、聖ペドロバウティスタ、彼のの手伝いをしていた当時12歳の聖ルドビコ茨木、などと共に長崎で磔にされることになっていました。そして、右近もそれを覚悟していたのですが、秀吉は武将としての右近を尊敬していたことや石田光成の計らいもあり、磔にはされなかったものの、徳川幕府となり、迫害が更に厳しくなると、信仰を捨てない家族と家来と共にフィリピンへ一文無し同然で”島流し”の刑に処されました。

ところが、粗末な船での困難な航海の末にたどり着いたスペイン領マニラでは、多くの信者が右近の信仰心に感化され、迫害が厳しくなる一方の日本に潜入して伝導したいと自分の身の危険を顧みずに日本への更なる伝道に心を燃やす人が増え、ザビエルがつけた信仰の火はこうして、迫害中においても日本で燃え続けることができたのです。そして、聖書の朗読からも、なるほど、イエスが説き、ザビエルが実践し、それに感化された信者達も実践した救いへの信仰心とは、伝統とは、こういうことだったのか、と頷けるはずです。詳しくは私が書いた英語版の“Memorial Feast of St. Francis Xavier on Friday of the First Week of Advent, Cycle I – Extraordinary Apostolic Zeal to Set the Fire of Faith in Extending the Eastern Border of Christendom to the Isles of the Rising Sunをお読みください。

因みに、“ザビエル効果”について更に言うなれば、” 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”という有名な辞世の句を残した日本キリシタン最高の美女ともいわれる、明智光秀の娘(明智珠)で織田信長の仲人で細川忠興のところへ嫁いだ細川ガラシャ(細川珠、おさん)の魂をキリシタンへの改心によって救うことのきっかけとなったのは細川忠興の親友でもあった高山右近です。右近の熱心な勧めで、信長没後、父光秀の”汚名”を被り、長引く戦国の乱世に精神的にかなり苛まれていたガラシャは信仰によって救われたのです。しかし、ザビエルなくして右近改心のきっかけとなったロレンソ了斎もなかったわけですから、細川ガラシャの魂の救いの背後にはザビエルあり、と言えるでしょう。

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