Saturday, January 1, 2022

聖母マリアとその御子であるイエスと共に祝い、父なる神の祝福を頂く、めでたい元旦

皆様、あけましておめでとうございます。

カトリックにとって年の初めの元旦の日は、神の母としての聖母マリアを讃える喜ばしき日でもあります。

福音朗読(ルカ2:16-21)からもお分かりのように、元旦はクリスマスからちょうど8日目、つまり、イエスの御生誕から8日目となります。ユダヤの律法(レビ記12:3)により、男の子が生まれてから8日目に、神がユダヤ人が祖父とするアブラハムとの契約を結んだことを身に刻みこむという意味を込めた割礼の儀(創世記17:1-16)をおこない名つけをする特別な日であります。

生後8日目のユダヤ人の男の子に割礼を施し、名を与える、というめでたい儀式(Brit Milah)において、肉親は、アブラハムのように神の祝福の契約をうけた子として、祝福を与えることができます。天使ガブリエルのお告げにより乙女マリアの子宮内で受肉したロゴス(御言)である神、キリストは(ヨハネ1:1、14;ルカ1:31)はマリアから人間として生まれ(ルカ2:7)、天使からメシアが生まれたというお告げをうけた羊飼い達からの訪問を受け(ルカ2:8-17)、生後8日目に割礼を受け、イエス(ヨシュア)という”主はお救いになる”という天使ガブリエルから告げられていた名前(ルカ1:31)を与えられました。そして、マリアは単にイエスの肉親という立場からだけでなく、エリザベトとの親戚関係ゆえ、実は、モーゼの弟であるアロンを祖とするレビという代々司祭を務めてきた家系(ルカ1:5、36)にあるゆえ、第一朗読(民数記6:22-27)にある司祭による祝福(民数記6:24-26)を与えたと考えられます。

主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をむけてあたなを照らしあなたに恵みを与えられるように。

主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように

主の御名を3回呼び起こし、主の守護、主の光による恵み、そして、主の平安が、与えられる願いを込めた祝福を、割礼を受け、イエス、という名を与えられた生後8日目の受肉したキリストに、王であるダビデの血統の夫、ヨゼフ(マタイ1:6-16)、が見守る中、与えたことが想像できます。

プロテスタントの方の中には、カトリックの信者は正月早々マリア崇拝をしているとんでもない連中だと非難する人がいます。しかし、これはプロテスタントのカトリックへの理解の欠如による、或いは、不正確な認識による誤解です。カトリックであれプロテスタントであれ、正教徒であれ、キリスト教徒は宗派に関わらず、父と子と聖霊の不可分な三位一体の神のみを信仰崇拝するという共通の掟があります。洗礼の際においても、この三位一体の名によって行われます。カトリックが実践するのはマリア崇拝やマリア信仰というカルトではなく、御子であるイエスを身篭り、お産みになられ、自らの乳を赤ん坊の御子に与えながら、夫ヨゼフと共に育てあげた聖母マリアへの畏敬の念と感謝を示しているだけです。

イエスキリストをその母である、もっと厳密にいうならば、受肉の母である、マリアから切り離して崇拝するということは、ある意味では、イエスという御子を御父や聖霊から切り離して崇拝するということのような愚ではないでしょうか。ヨハネの福音書の第一章一節から十八節とルカの福音書の第一章二十六節から五十六節、六十七節から七十九節、そして、第二章一節から五十二節を読んでみれば、受肉以来、人間としての側面をも持ち、それ故にイエスという名で呼ばれる御子である神とマリアの母子関係の神学的意義がお分かりでしょう。更に、マタイによる福音書第一章二十二節にあるように、天使ガブリエルがヨゼフに対し、マリアの懐胎は聖霊の力によるものであり、このことでイザヤ書七章十四節にある、乙女が息子を身ごもり、出産し、その子は”神は皆と共に”、つまり、神と人との交わり、を意味する”イマニュエル”と名つけられる、という預言はマリアのイエスの懐妊でもって満たされたことを意味します。

もし、父なる神がその御子を受肉させることなく私達へ送られたのであれば、マリアの神学的重要性は無いでしょう。しかし、神はアダムとイブが原罪を犯した故に、エデンの園を追い出す際、アダムとイブを誘惑によって罪に陥らせたサタンに対し、”女の子孫である彼”によって頭を砕かれて滅ぼされるという、黙示録20:9-10でもって満たされる、警告的預言(創世記3:15)した際、その”女”として既に、まだ生まれる遥か前のマリアに目をつけていたと考えられます。だから、天使ガブリエルはマリアをはじめから神の特別な恵みをうけためでたい女として讃えたのです(ルカ1:28)。このことから、中世のフランシスコ会神学者、スコータス、が、無原罪の穢れ無き聖母マリア、という概念を説き、更に、1854年に、教皇ピオ9世によるIneffabilis Deusにより、教会の公式な教義をされました。

聖母マリアはその母であるアンナの子宮に受胎した瞬間から神よってその特別な恵みによって満たされ続けていた故、無原罪の穢れ無き唯一の人間として存在し、このことは、その御子であるキリストが穢れないようにマリアの肉体を通して受肉できるようにするためだと考えられます。こうした背景から、マリアは、天使ガブリエルによる神の子を懐胎することのお告げを受ける遥か以前から、神の御子の母となる使命をすでに神から受けていたのです。そして、マリアは神のみ子の母としてだけでなく、アロンを祖とする代々司祭を務めてきたレビの家系に生まれており、司祭的な一面も有しているといえます。

しかも、ありがたいことに、司祭的な聖母マリアは、神の御子であるイエスキリストの母というだけでなく、キリストが十字架の上からヨハネを通して、私達の母でもあると宣言された(ヨハネ19:27)ことから、私達の母でもあるのです。そして、このことは、第二朗読(パウロによるガラテヤの信徒への手紙4:4-7)にあるように、神の子であるにもかかわらず、私達と同じように律法の下でマリアから生まれた受肉したキリストにより、私達は幸いにも神の子として生きられるようになり、イエスキリストが父なる神を、”アバ、父よ”と私達を贖うために十字架に磔にされる前夜にゲスセマネで祈っていた時に強い愛情でもって呼んだ様に(マルコ14:36)、私達も神の子として、同じように呼べるように、キリストの愛の霊を私達の心に送ってくださいました(ガラテヤの信徒への手紙4:6)。ということは、イエスキリストは、まさに、私達との交わりに生きる為に受肉した神(ヨハネ1:1、14)であり、ただ私達と共に生きている受肉のうちにある神、”イマニュエル”、だけでなく、私達をも神の子として、キリストと共に、父なる神からの恵みを相続できる資格を与えてくださった、”兄”でもあります。よって、私達はイエスキリストと共に、マリアを母とした、神の子であるわけです。

だからこそ、年の初めに、聖母マリアを神の母として賛美しつつ、司祭の家系であるマリアが生後8日目の息子であるイエスに、割礼と名付けの儀式(Brit Milah)で行った司祭的祝福(民数記:6:24-26)を、私達も授かり、神の加護、神の御顔からの光を通して恵みを賜り、更に、神の平安を頂き、長引く新型コロナパンデミックなどで先行き不透明な令和4年という年を、不安に振り回されることなく、心にキリストの愛の霊を抱きながら(ガラテヤの信徒への手紙4:6)、また、聖アウグスチヌスがその”告白”で記したように、私達の心をキリストの心に納めることで、キリストと共に、一丸となって(i.e.ヨハネ14:20;15:4-5;17:21)、神の光のうちに(1ヨハネ1:5-7)、神の祝福を受けた神の子(i.e.民数記6:27)として歩んでいくことができます。

聖母マリアが産んだ子、受肉した神の御子、イエスキリスト、により私達キリストに従う者は、マリアを母とし、キリストを愛のうちに送ってくださった神を、アバ、という親愛感のある言葉で呼べる父とし、三位一体の神の御子であるキリストと共にこの一年を祝福された者として歩んでいきましょう。

こうしたことから、元旦は、ただ年が明けた日だからというよりも、生後8日目の息子、イエス、にマリアが与えた司祭の祝福を、私達もマリアの子として受けたことを記念できる日でもあるので、とてもめでたい日だといえます。

 

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