Friday, April 5, 2013

森田療法と諺、故事



ここのところ英語ばかりのポストなので、今日はちょっと日本語で。

森田療法をメンタルヘルスの臨床活動だけでなく、自分自身の生活のさまざまな場面にも応用する私として、ちょっと森田療法について日本人にとってお馴染みの諺や故事を使いながら簡単にお話したいと思います。

先ずは、森田療法そのもの背景ですが、森田療法を創始された森田正馬博士ご自身の経験から。
森田博士は、少年時代から東大医学生時代まで長年心身症に苛まれ続けた経験があります。入退院を繰り返すような生活も珍しくなかったのが博士の少年期でした。しかし、東大医学生時代、こうした状態のつけがたたり、進級が危ぶまれ、しかも、父親から落第すれば学費の仕送りを断ち切るといわれ、若き日の博士はどん底の境地でした。しかし、どうやら強情なところもあったとみられ、学生時代の森田博士は、それこそ、“ナニクソ!”の根性で、“よし、オヤジがそういうのなら、絶対に死に物狂いでも進級してみせるわ!”と、“乾坤一擲”の心境で立ち向かったら、驚くほど長年の症状はすんなりと消えていったいうことです。この森田博士ご自身の実体験に端を発し、徐々に森田療法が構築されていきます。

つまり、森田療法がまだ森田療法として確立されてない形で“産声”をあげた、学生時代の森田博士の慢性的であった心身症(後に博士はそれを神経質によるものだと解明)から絶え間なく襲い来る死の恐怖を、 “こうなったら、もう死んでもかめえんわ~!”といった“乾坤一擲”で死の恐怖に真っ向から直面することでそれを一気に克服したことです。

よって、森田療法の起源には“乾坤一擲”という“韓愈”にある故事があります。
森田博士はよく禅の言葉、概念をそれとなく適用しています。たとえば、森田療法の基本的概念である“あるがままに(自分のおかれた)現実を受け入れる”ということは“如実知見”という禅語、そして、“あるがままに受け入れる”心である“純な心”とは“初一念”という禅の概念そのものです。
また、森田療法は、過剰になりがちな自信や欲望がもたらす不安症状を認知行動療法的に対処します。これは、“吾唯知足”という禅語が意図することを目ざすものです。

更に、森田療法は自己本位、気分本位から目的本位へと患者様を導いていきますが、その過程において患者様自身が実際に、目的に向かって、その目的に執着することなく、今自分にできることからただひたすら行動し、体得していきます。症状の改善はこうした努力の結果なのです。これは、“一行三昧”という禅の精神で行う修行の効果に並行するものです。目的本位であっても、それに執着せず、今という刻々と変わる瞬時にマインドフルになり、その時々、自分ができることを価値観や期待を入れずにただ没頭して行うことで“一行三昧”の境地が体得できます。これは、“習うより慣れろ”、“案ずるより産むが安し”、といった行動を重視したことわざが意味するところでもありましょう。

しかし、いくら実行が森田療法において大切であるからとはいえ、いきなりすべてやってのけようとするのはよろしくありません。そのような態度は森田療法的に見れば、症状を改善したいという欲望が膨らんだものであり、症状を改善するという目的に執着したものでもあると考えられるでしょう。それよりも、大切なのは、今、自分にできることを目的に捉われずに、また、目的への欲望にも注意しながら、できる範囲でこつこつとやることが、症状の改善という目的へと自ずから導いていってくれることを、”一行三昧“による体得から学ぶことなのです。こうした意味から、森田療法の実践は、” 先ずは隗より始めよ”(戦国策・燕)という中国故事によって“一行三昧”の効果を体得しつつ、症状を自然に改善していくものなのです。

よって、森田療法には“千里の道も一歩から”という“老子”の故事も当てはまります。
森田療法でいえば、“学問に王道なし”というように、心理療法にも楽チンな“王道”なんぞないのです。そのような心理療法を巷で宣伝している心理士やカウンセラーってどうなんでしょうね。

仲田昌史

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