Thursday, May 15, 2014

高校生の時、歴史の時間に“ゾッコン”になったいい女性、“お玉さん”について


中高生の男の子は、けっこう、同級生だけでなく、さまざななレベルでの魅力的な女性に惹かれやすい年頃ですね。かつての私もそうでした。実在の好きな人(同級生)はいました。しかし、かわいい後輩の女の子にも目をつけていたこともありましたし、中学2年のまだ新任の女性の数学の先生に一目ぼれし、それ以来、数学を一生懸命勉強するようにもなりましたし。。でも、そういった実在の世界とそれに直接的な関連するファンタジーの世界だけでなく、時間を越えた歴史的な次元においてのファンタジーの世界においても、恋心を感じたことがあります。

思春期の頃の私が、歴史を学んでいた時に、およそ400年の時空を超えて恋心を抱いた対象に、“お玉さん”という女性がおります。そして、この、当時の私のファンタジーにある“お玉さん”、現在の私を理解する上でも大切なものです。

心理療法やカウンセリングを専門とし、かつ、カトリックとして臨床パストラルケアやパストラルカウンセリングをも専門とする私は、思春期のお子さん達の“疾風怒濤”的な心理を取り扱う機会がよくあるのですが、こうしたお子さん達の心によくあるのは、今という現実とは、時空という要素においてかけ離れた所にあるファンタジーです。そして、そこにも恋心があり、思春期の心をより一層複雑にしているのです。

私達は皆、こうしたファンタジーを抱きながらも、それにうっとりしたり、また、時には、それと今の現実とのギャップに葛藤を感じ、悩ませられながら、更に成長し、自分というものを更に見出していくものです。よって、ファンタジーは思春期の子供の健全な成長にとって大切な要素であり、親として、それを優しく見守ってあげることが大切です。

さて、今日は、私自身がかつて抱いたファンタジーの中でも、特に面白いものをご紹介いたしましょう。そして、このファンタジー、今でも健在なのです。というのは、今の私の自己を発達心理学的、かつ、信仰的に理解する上で、このファンタジーはそれなりに意義ある役割を果たしているからなのです。


 私はいつも“硬い”お話ばかりしているので、脳みそが硬いのではないかと心配してくださる(っていうか、馬鹿にしてくれる?)方がおられます。私も、もう若くないので、そろそろ、自分の脳みそが硬直しはじめるのではないかと心配しております。
そこで、今日はちょっと、脳みその硬直予防をも兼ねて、“ソフト”というか、居酒屋でダチ達と駄弁っているような口調でお話いたします。
………………………………

では、あなたがもし、戦国時代に生きている男であれば、どのような女性を好んでいたでしょう?

もし、私が戦国武将の一人であれば、“お玉さん”にゾッコンだったでしょうね。日本の歴史において、“お玉さん”、超マブ!もう、ただの別嬪っちゅうもんじゃない!脳天が天に昇らせるほどの美しさであり、横文字で表現するならば、ecstaticなものです。

え?“お玉さん”って誰のことかって?あんた、日本史の時間何してたの?
そりゃ~、その名のごとく、玉ですよ。玉! 

ええ?どんな猫かって? アホなこと言うな!それは“タマ”。

玉は、真珠のような珠、数珠にも通ずるかな?いや、珠玉という言葉もある。そして、“玉石混合”という言葉もあり、玉とは優れているもの、美しいものを象徴する言葉であり、珠なのである。 だから、“お玉さん”とは、“お珠さん”でもある。

戦国時代末期の歴史を習ってた時、そう、あの足利家による政治的権力が崩壊した後の、徳川家による日本再平定までの、下克上とまでいわれたあのドサクサの時代、色々な野郎どもが、日本のドンの椅子を巡って血なまぐさい争いを続けていた中に、“お玉さん”が登場!そして、薄幸の美女とも言わんべく、彼女は、波乱の中を様々なジレンマに苛まれながら、まだ若くしてその命を終えた。しかも、彼女の最後には、胸にじ~んとくるものがある。

誰のことか思い出した?

私はもともと理系志望だったんで、数学、物理、化学などの“理系”科目に比べ、歴史や文学などの“文系”科目には多少手を抜いたところがあった(だから、医学部落ちた!)んですが、でも、美人が歴史や文学作品などに登場すると、なぜか、先生などから勉強しろって言われなくても、自然に、必要以上に、そこだけを勉強するような癖がありました。まあ、そういった歴史や文学における美人のことが文系科目の入試に出てれば、医学部現役で合格してたかもしれませんが。

文学でいえば、紫式部も色女だったし、与謝野晶子は才色兼備のなかなかの美女。
でも、もし、私が明治時代に生きた京都帝大卒の秀才イケメンで与謝野晶子が恋人であれば、恐らく、日露戦争について議論し、“昌さん、あなたがどうしても、この戦いは必要だとおっしゃるのなら、私はもうあなたとお付き合いすることはできませぬ”、って言われたことでしょう。う~、であれば、私としても辛い。しかし、大和男児となれば、女よりも国。多少の未練はあろうが、何、あっさりと諦め、決断できる。ロシア人の支配下で、大和魂を抜き取られてまでも、晶子嬢と付き合いたいとは思いませんからね。

たとえ下級武士とはいえど、時は変われど、それが武家の血を引く者のあるべき姿。晶子嬢の平和主義には理屈として私も同意でき、しかも、感情的に同情し得るところがある。しかし、武士道精神を重んずる大和男児としては、理屈や感情だけで生きていくことはできぬ。必用であれば、理屈の上であれ、感情的であれ、個人的には受け入れがたきことをあえて受け入れ、大義の為に命を賭けてでもでも尽くさねばならないのである。まあ、それを心から理解してくれるような才色兼備の女としか私は一緒にはなれないのだが。
そういった意味でも、戦国時代末期に実在した“お玉さん”、私にとって理想の女。
ええ、贅沢ですか?


“お玉さん”は武将の娘。そう、あの明智光秀の三女。織田信長の計らいで細川家に嫁ぐ。で、時は、権力構造がダイナミックに目まぐるしく変わる戦国時代。昨日まで、明智家の一族であれば尊敬されてても、次の日には賊となる。そんな、ストレスのレベルが高い時代。“お玉さん”は当然、悩まされる。しかし、嫁いだ後の彼女は、自分の忠誠心は夫へのものであり、夫の決断には従順であった。しかも、彼女はキリシタン。当然、神への忠誠心は絶対である。“お玉さん”の一途さは、夫に対しても、神に対しても、完璧であった。彼女は、戦国武将、細川忠興の妻として、かつ、キリシタンとして、忠義を貫いて生き抜いた女であり、同じキリシタンでもあり、また、武家の血を引く者として、私のたましいをしびれされるいい女である。

私が求める女とは、単にセクシーなだけでなく、私のたましいをも、そなたの絶対的な忠誠心と信仰心で、“お玉さん”のようにしびれさせてくれる人なのである。

“散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ”

そう、彼女が神に召される直前に詠んだこの言葉は、すこぶる大和魂をしびれさせる。しかも、これは、彼女の神と夫への忠義心を反映した言葉でもある。


“お玉さん”、とは俗名。神の下での彼女の名前は、“ガラシア”。ラテン語 で、恵み(神の恵み - gratia)という意味で、英語で言えば、グレース (grace)。彼女の絶世の美しさや、魂をしびれさせる何か、まさに、神からのたまもの、恵みとしか言いようがない!
細川忠興よ、貴様はなんと幸せな男なのだ。もし、私が貴様であれば、“お玉さん”をもっと幸せにできただろうか?

と、私は時々考えるのであります。

そう、今でも、私自身が若き日に抱いたファンタジーにある恋心の対象である“お玉さん”との対象関係を分析心理学的に考えることは、現在の私のあり方を理解する上、そして、それだけでなく、私の心の臨床家としてもあり方や、私自身の信仰心と神への奉仕にどのような影響を及ぼし続けているのかを把握する上でも、大切なことです。

ところで、あなたはどうですか? “お玉さん”をもっと幸せにできたでしょうか?



No comments:

Post a Comment