Thursday, December 10, 2015

クリスマス、正月を前にした多忙な師走初旬の今こそ立ち止まって考えるべき宗教の意義

前書き:

師走のこの超多忙な頃、このような私のブログの拙書にお運び、お立ち寄りいただきまして、ありがとうございます。まあ、皆が忙殺されている中よほど暇をもてあましているラッキーな方か、それとも、死ぬほど忙しくてもこうした私のブログにちょっと寄ってみるぐらいの心の余裕がある方でしょう。それとも、もしかすれば、現在、病と向き合いながら生きている方で、入院生活があまりにも退屈なので暇つぶしに私のブログにたまたま立ち寄られたか、それとも、それまで忙しかった闘病というモードから、遺された限られた人生をどのように意義深く締めくくるかホスピスやビハーラのような緩和ケアの中で模索中の方かもしれません。

まあ、どちらにせよ、これも何かの縁、しばらくのお付き合い、ご辛抱願います。
ところで、師走といえば一年最後の月です。メンタルヘルスの臨床とパストラルケアやカウンセリングという形で臨床宗教をも専門とする私にとって、常時、死を目前に控え、“お迎え”の準備をしている患者さんの旅立ちまでのお供をさせていただいているという事情から、一年のこの時期は、何かと人生の最後、締めくくりについて考えがちになります。年の終わりと人生の終わりという二つの事象をjuxtapose、つまり、弁証論的に、数学でいう関数で表現される二つの事象を統合的にするが如く、考える傾向にあります。私自身の個人的な臨床経験からみて、現に、11月末から12月にかけて他界させる方は、病死、自殺、共に多くなりがちです。このことは単なる統計上の偶然なのか、それとも何か隠された意味があるのか、定かではわりませんが、何か、神秘的であり、深く考えさせられるものを感じます。

ある特定の事象が偶然なのか、それとも、それらの背後には何かの意味や意義が潜んでいるのか、そうしたことを模索することの羅針盤ともいえるものが宗教ではないでしょうか?しかし、現在の日本、宗教というと、何か否定的なニュアンスが先行しがちであり、実際、宗教離れが進んでいます。

師走のこの忙しいときにあえて、退屈ともいえかねない宗教について触れることに抵抗を感じる方もいることでしょう。しかし、そうしたことにも何かの意義があるのではないかとお考えになる方もいるでしょう。以下、更にお付き合いいただき、こうしたことの意義について触れることができれば幸いです。

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12月8日は日本では真珠湾攻撃記念日として知られていますが、カトリック、正教徒、英国教会徒といったキリスト教徒にとっては聖母マリアの穢れなき受胎を記念する日であり、また、真摯な日本の仏教徒にとっては成道会という釈迦が菩提樹の下で瞑想中に智慧を得、伝道を始めることを記念する日でもあります。更に、この頃は、ユダヤ教ではハニカという光の奇跡と寺院の刷新を喜び祝う祭りの時にも重なる年もあります。

しかし、宗教離れが進む現在の日本、聖母マリアがどうのこうのだとか、釈迦がどうだとか、多くの実利的で忙しい日本人にとって、こうした話題はあまり関心を惹かないものでしょう。

現在の日本ではかつてのように宗教的要素の濃い行事はあまりみられなくなりました。11月23日は、かつて新嘗祭という日本古来の祝い事の日でしたが、戦後、こうした宗教的な祝日は、“勤労感謝の日”に“塗り替え”られ、私達日本人の先人達が遺し代々受け継いできた習慣が廃れてしまいました。現在、新嘗祭は天皇陛下が国民を代表し、宮中でのみ“ひっそりと”行われているだけです。

現に、日本人の宗教離れはニューヨークタイムズをはじめとする欧米のマスコミでも度々とりあげられ、しかも、過去10年以上年間3万件を上回る自殺(これは統計からもれた自殺を含めた実数ではないので、実際の自殺件数ははるかに多いと考えられる)といった同時進行現状をこうした宗教離れに対して鑑みると、19世紀の産業革命の頃のフランスの社会学者、Emile Durkheimが提唱した宗教と自殺の相関性についての理論を改めて“温故知新”する必要性を感じます。

創価学会、統一教会、オウム真理教、サイエントロジーなどといった怪しい新興宗教が精神的に迷える子羊“に例えられる人たちを巻き込み、その社会的反作用”として、多くの人たちが既成宗教に対し、懐疑的となりました。この現象は、あかたもカント(Kant)、デカルト*Descartes)やスピノザ(Spinoza)といった17世紀以降の理性だけを強調した、アキナス(Aquinas)などの中世までのアリストテレス(Aristotle)系の感情と理性の統合的な哲学から乖離した“新しい”哲学が、16世紀のルターによるプロテスタンティズムという当時の既成宗教カトリック教会への挑戦に知的な追い討ちをかけ、西洋文明圏における教会離れと新興宗教やカルトの台頭を促進した一因と比較できるところがあると思われます。そして、こうしたそれまでの既成宗教への挑戦とそれからの離脱が進んだ19世紀の西洋では、理性主義的な科学哲学が宗教的神秘主義を否定し続ける中、物質的な豊かさを“購入”するだけの経済力のない多くの人々は混乱に陥り、宗教という心の羅針盤を失い、新しい心の糧を理性的科学哲学に求めようとしても見出せず、ひいては、人生の意義について懐疑的となり、自殺してしまうという事例も見受けられ、こうした社会現象に対し、Durkheimは宗教の低迷と自殺の台頭について警鐘を鳴らしたのです。

ルター、スピノザ、カント、デカルトなどの“新しい”考えが浸透するにつれ、それらの解釈をめぐり、古代からの宗教が中世までの時代のように支持されなくなり、心の羅針盤としてみなされなくなった近代以降の西洋、そして、こうした近代西洋の流れを汲んだプロテスタント主義のアメリカGHQによる“改宗”を強いられた戦後日本、どちらも、ただ合理主義的、功利主義的、効率主義的に忙しく生きる中、何かを見失ったのではないか?と、ある日、ある時、はっと気付く人がいるでしょう。そうであれば、これは一種の“成道”かもしれません。それまで教えられ、信じてきた、理性だけでは本当の意味での生きている意義は見出せないという智慧に目覚めたからです。

そして、理性でもって改めて古来より受け継がれてきた宗教と、その理屈だけでは割り切れない真実を扱う神秘主義についても、“温故知新”してみる時ではないでしょうか?
こうした機会を逃し、ただ毎日毎日、理性を信じ、それが導く合理主義的、功利主義的、効率主義的などといった近代科学哲学的な日々に忙しいだけであれば、いずれ、人生の意義、人生そのものに対し、懐疑的となり、失望してしまうことでしょう。若しくは、そのように自覚しはじめるほど長生きすることなく、過労の中に若くして世を去っていくという羽目にもなるかもしれません。

師走の月が明けるとお正月です。

かつては、お正月といえば、七福神を招くといった宗教的な要素がありましたが、今では、実に“合理的に簡素化”されてしまいました。勿論、お正月の少し前のクリスマスは、キリスト教徒にとって救世主、イエス、の降臨を祝う時でありますが、日本では単なる物質的な飾りごとの一つでしかありません。

しかし、宮中での晩秋の新嘗祭を終え、一年の締めくくりの師走の月の初旬のこの時、成道会という釈迦が智慧を得ることで伝統を開始するきっかけとなったことを祝い、クリスマスを祝う理由の絶対必要条件である聖母マリアの穢れなさを祝い、更に、ローマ帝国に支配される前のイスラエルにおいて寺院の灯火が当時の支配者ギリシャによる屈辱的な破壊的行為に勇敢に立ち向かい勝利したことを象徴することを祝う、いくつかの宗教において目出度いことが重なるということは、単なる偶然でしょうか?

17世紀以降台頭した科学的理性のみに生きている人にとっては単なる偶然かもしれませんが、古代以来の宗教的神秘主義や感情という人間の現実にアリストテレス的な経験主義哲学を加味したアキナスによる中世のカトリック神学的哲学に立ち返ると、必ずしもそうではないかもしれません。“案ずるよりも産むが安し”と言うように、あれこれと一人で理性という美名の理屈を捏ねて悩むよりも、森田療法でも奨励するように、まずは体験、経験してみてこそ、それまであまりわからなかった幾つかの現象の背景にある意義などがわかってくるものです。そうでなければ、理性主導とはいえ、同じパターンの惰性の人生に生きるだけです。そして、惰性を物理的に狂わせるような障害に例えられる予期できない試練が訪れれば、混乱し、人生の意義への失望という最悪の対象喪失により自殺に追い込まれるかもしれません。現に、自殺を理性的、あるいは、合理的に正当化する理論は17世紀以来の宗教離れした近代哲学には多数あります。そして、そうしたことへ同情をそそる感情論もまた多数あり、特に障害や人生の様々な試練の中にある命の意義や価値を過小評価しかねない危険をはらんだ偽りの“共感性”をもたらします。これは、理性のみにしか生きることができなくなった人にありがちな盲目性だといえましょう。

もし、あなたが後者のケースについてある程度の理解があるならば、クリスマス、お正月を前にしたこの時期、理性主導の毎日に忙殺されているとはいえ、いや、そうだからこそ、かえって大切なことに対し盲目であるのではないかと批判的に考えることができるでしょう。そうであれば、自分の宗教観の如何にかかわらず、一年の締めくくりのこの時期、改めて古来より受け継がれてきた既成宗教本来が人類に与えんとしている人生の羅針盤的な意義について、それらが祝い記念している習慣や行事を体験、あるいは、共感してみることで、理性だけではわからなかった生きていることの神秘的な深い意義に開眼するかもしれません。

そもそも、宗教と哲学は別々に考えるものではなく、ヘーゲル(Hegel)的弁証論的な対話の中で関数で示すような相関性でもって一緒に考えていくものなのです。宗教と科学についても然りです。そして、このように宗教を現実から切り離すことなく、経験論的にアキナスのように宗教的要素が濃い神秘的現象をも対比対話させながら考えると、Viktor Franklが説くような生きている意味がないような人生の現実においても深い意義を見出せるようになるかも知れません。

とどのつまり、宗教とは、“温故知新”的に一見意義のないように思われていた事象などからも隠されていた深い意義を見出し発掘していく指針なのです。そしてその効果は、経験主義に沿った弁証論的な対話というパラダイムの中でこそよりよく発揮されるのです。
先述したように、クリスマス、正月を前にしたこの時期、仏教で祝う成道会、カトリックなどのキリスト教で祝う聖母マリアの穢れなさ、そしてユダヤ教で祝う侵略にも関わらず消されるとなく燃え続けた寺院の灯火の意義を、忙殺されがちな人生の現実に照らし合わせて考えてみることで、今年という去り行く年がもたらし遺してゆく意義と、迎えるべき新年への希望と決意が見えてくることでしょう。そして、こうした発見や認識の糸口がクリスマス、正月を前にした多忙な師走初旬の今こそ立ち止まって宗教について経験論的かつ弁証論的に考える意義であります。更に、こうした意義に目覚め認識できると、年はいずれ終わるものである如く、人生もやがては終わるものであると改めて自覚し、大晦日の午後11時59分59秒の時のように、誰もが避けることができない死ということに対しても、不必要に不安になることなく、時がくればいつでも自分の人生のフィナーレをより意義深いものにできる自信と希望が湧いてくることでしょう。そして、こうした総仕上げが、あたかもお正月を楽しみにするが如く、死後9の来世、天国、極楽浄土、それぞれの宗教的信念が示唆する来るべき次元への希望を新たにできるのです。

心の穢れは、生きることの意義への自覚を阻み、来世につながる現世にいきることの希望の灯火を消しかねないものです。もし、マリアが穢れある身であったとすれば、いくら聖霊がマリアの身に注がれたとしても、イエスというメシアを身篭ることはできなかったことでしょう。

忙しさを理由に、心の穢れを放置することを正当化すると、思わぬ対象喪失に陥るかもしれません。忙しい働き盛りの人がある日突然病に倒れ、定期健診を怠り早期発見のチャンスを逃した故の“手遅れ”だということでと死んでいくようになるかもしれません。


年の終わりを前にしたこの時期、多忙だとはいえ、キリスト教徒であろうがなかろうが、いつ終わっても悔いがない人生を意義深く全うする為にも、希望に満ちた生きがい、人生の意義、を象徴する“キリスト”を維持できるに値する穢れのない心と魂を維持する為にも、古来より受け継がれてきた宗教にある智慧を改めて“温故知新”するのに最適な時でしょう。

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