Sunday, January 10, 2016

お餅を食べることに関する戒め

お餅について、私の”辛口”な説教です。せっかくのおいしいお餅、うっかり喉に痞えて命とりとならない為にも。。。

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正月明けの楽しみの一つは、大きな鏡餅を砕いて雑煮に入れたり、おしるこにしたり、神様に供えておいた硬くなったお餅を煮ることでやわらかくして食べることです。

年が明けた今日この頃、まだ何かとお餅を食べることが多いですね。その一方、お餅をよく食べるこの季節には救急車のサイレンがより頻繁に巷に響きます。お餅をうっかり喉に痞えてしまい、呼吸困難となり、致命的となる人が、特に、老人や小さい子供に多くみられるからです。

高齢化が更に進んだ日本、お餅が喉に痞えて命取りになることは、公衆衛生(Public Health), 疫学的(epidemiological)とまでなるかも知れません。

折角のおいしいお餅で、”あ~おいし~い”と微笑んだ瞬間、急に息ができなくなり、窒息による酸欠となり、酸素に一番敏感な脳が死んでしまい、つまり、体全体が死んでしまうのはあまりにも儚いですね。

おいしいお餅、食べたいけど、喉に詰めて呼吸困難で死にたくない、と誰もが思うでしょう。

頬張りつかないと食べられないような大きなサイズの餅だと、別に高齢者や小児でなくても、誰でも、喉に痞えてしまいます。しかし、一口サイズより更に小さくして食べると喉に痞える確率、リスク、も小さくなります。つまり、餅の大きさと喉に痞えるリスクは反比例の関係にあるといえましょう。

このごく当たり前の科学的事実は、宗教的な観点からいえば、欲望とその反作用ともいえるしっぺ返しのようなものではないでしょうか?

餅のサイズは私達の欲望のスケールに例えることができます。そして、餅が喉につっかかって呼吸困難となり致命的となるリスクは、欲望が大きくなる程、そのしっぺ返しの程度も大きくなるという仏教でいう業の法則に例えることができましょう。

長生きする人に共通なことの一つに、満腹になるまで食べず、いつも腹八分の食事をするということが挙げられます。医学的には、過剰なカロリー摂取は糖尿病やがんなどの病気の引き金となるだけでなく、全体的に寿命を縮小する、ということが研究により知られています。どうやらこの医学的事実のからくりの一つとして、過剰なカロリー摂取は、細胞の呼吸器ともいえるミトコンドリアにダメージを与える、という考えがあります。この理論は、なんとなく、過剰なサイズの餅は喉に痞え、私達の呼吸器の機能障害をもたらす、という事実に並行しています。こうした医学的な事実も、お餅が喉に痞えて命取りとなるリスクと同じように、欲望とその業の教えの戒めに相応するものではないでしょうか。

お餅を食べるとき、改めてこうした私達凡夫の欲望への戒めを先ず噛み締めれば、お餅を小さなサイズにして、よく噛んで、じっくりと味わいながら安心して食べることができます。

もともと、お餅は、前年の収穫を神様に感謝し(新嘗祭)た後、正月に、”神様、昨年はいい収穫、ありがとうございました。お陰様でこのようないいお餅をつくことができ、こうしてお供えさせていただくことができました。どうか、ご賞味ください。また本年もよろしくお願いします”、という挨拶を込めて奉納するものです。天照大神による太陽の光の恵み(光合成)によりお米を耕作し収穫し糧とすることで命を与えられた神話的背景を持つことからもわかるように、元来農耕民族だといえる日本人にとって、動物や人間を生贄にするのではなく、神様への”年貢”は収穫した穀物、あるいはそれから作られた食べ物をお供えするのです。餅とは元来、こうした目的で造られたものです。

だから、自分の欲望丸出しで頬張りつくのではなく、”畏れ多くも”、という気持ちで、神様への感謝の念を噛みしめながら、よく噛んで、頂きましょう。神様に失礼、無礼、でない作法で、自分の欲望を戒めつつお餅を食べれば、喉に痞えてしまう, 欲望による自業自得的なリスクも少なくなりますね。


勿論、こうしたお餅からの教訓は、お餅を喉に詰めるリスクと欲望への戒めだけでなく、仏教の煩悩三毒の一つである欲望がもたらす様々な弊害への戒め、森田療法的にいえば、”insecure”な自己から生ずると考えられる執着による更なる”insecurity”という、欲求不満の悪循環に陥らないように生きることへの諭しでもあるといえましょう。つまり、飽食ではなく、知足の精神で賞味するのが一番ですね。

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