皆様、明けましておめでとうございます。いつもお忙しい中このブログの私の拙稿を読んでいただきましてありがとうございます。まあ、こんなつまらんもの読む人ってよほど暇か、トイレの中でもスマホとにらめっこするのが好きな人なんでしょうけど。私の妹の旦那のように堅気で本当に忙しい人はこんなの読んでる暇ないでしょうから。なんか、あの寅さんのような挨拶になってしまいましたが。。。まあ、兎に角、いそがし過ぎる人生よりも、適当にこうしたブログを読む暇があったほうがいいですよね。ということで、本年もどうか引き続きご愛読、お付き合いくださるよう、よろしくお願いいたします。
ということで、今年の第一本目の演目は、宝船の乗員を一人増やして八福神とする福増しについて、比較宗教学的な観点からの説教です。
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年の初めの元旦といえば、やはり、おせち料理などをイメージし、食べることにどうしても気が乗ってしまいがちです。しかし 、もともと正月というのはおせち料理などの材料をはじめとする様々な恵みを私達にもたらし、命の糧を与えてくださる神様達を福の神として新しい年の到来と共にお迎えすることを喜ぶ時でもあります。このような日本古来の価値観による正月とは、自然の恵みは神の恵みであり、恵みは福をもたらす、といった考えにあります。そして、自然の周期に影響する年の移り変わりである正月に、私たちに自然の恵みを与えてくれることで福であるQuality of Life(QOL)を確かなものとしてくれる代表的な神々七人をお迎えし、“旧年中は大変ありがとうございました。お蔭様で(あなた達がもたらした恵みのお陰で)QOLを維持しながら過ごすことができ、こうしてまた新しい年を迎えることができました。どうか、今年もよろしくお願いいたします”、と挨拶するのです。だから、かつて“クリープを入れないコーヒーなんて”といったキャッチフレーズコピーの“クリープ”というコーヒークリーマーのテレビコマーシャルがありましたが、これをパロって、“恵みをもたらす福の神々への挨拶のない正月なんて。。。。信じられない!”、とも言えるでしょう。ところが、今日の飽食の時代、私達日本人はおせち料理にしろ、何であれ、恵みのありがたさをあまりかんじなくなってしまったようです。そして、こうした簿謝の背景には、恵みをもたらすと先人達が信じていた神様への思いが廃れていっているからではないでしょうか?こうしたこともあって、今の日本では、QOLを実感できる人が少なくなり、その代わり欲求不満だけは高まり、その結果、ストレスレベルも上がり、様々な心身的、および、実存的、スピリチュアルな問題に苛まれている人が多いのではないでしょうか?
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旧約聖書の創世記によれば、神は全能なる故、すべてを6日かけて創造したとあり、その最後に人間(ヘブライ語でアダム)を造ったことになっています。そして、その人間に、神が創造したすべての管理を任せたました。この話しを基盤とするユダヤ教、キリスト教、そして、イスラム教、といった創世記12章より登場するアブラハムを共通の信仰の父とする西アジア中東の一神教において、神は自分が創造した自然の上にあり、その中に創造物の一つである人間もあり、その人間を信頼しすべての創造物の管理を任せるという、神と自然との間に一定の距離感があります。
こうした旧約聖書を基盤とし、西アジア中東に起こり西洋文化に深い影響を与えた一神教的文化とは対照的に, 元来、日本人にとって神様というのは”宗教”といった堅苦しいものよりも、太陽、空気、水、などといった私たちの存在とはきってもきれないごく自然な存在でした。このような世界観、価値観、そして、”宗教”臭くない自然な宗教観があったからこそ、古代の日本人は太陽などの自然界の対象やそれらがたらす森羅万象に神を見出し、畏れ敬い続けてきたのであります。このことは、旧約聖書の創世記の第一章を自己主義的に誤解したまま自然を人為の都合のいいように改造することを”文明”とする西洋の価値観と対照的です。創世記にある神の言葉を自分達のエゴで曲解したまま、あたかも神の創造物、つまり、自然、を自分達のおもうままに改変することを”文明”と信じる幻想の西洋文化に対し、古来より日本人は自然の恵みを神の恵みととらえ感謝しつつ恵みの源である自然と神の一体性の摂理に従い共存することをよしとしてきたのです。そして、何世紀ものあいだ間違った幻想的価値観で自然を破壊し続けてきた西洋文化も、2015年に発表された”Laudato Si"(神の創造物を讃え感謝することでその創造主である神を賛美する意味が含まれている)という回勅を通して、教皇フランシスコにより戒められ、創世記第一章にある神の言葉への正しい解釈に基付いて、私達日本人古来からの価値観のように、自然との調和の中に生き、人類だけでなく生きとし生けるすべてのものの生存に必要な自然の恵みに感謝しつつ、こうした恵みの基すべてを創造した神を賛美するように改心するように教示しています。
もともと自然と神 が一体的で、あたかも多様な自然とその現象の数に神を見出す多神教的精神文化を持つ日本人にとって、組織的な堅苦しい理屈っぽい宗教なんて別に必要ではありませんでした。特定の抽象的で難しい教理などに縛られることなく、自然発生的で自然崇拝的な霊性でもって、自然の摂理にできるだけ従順に生きることが神との調和の中に共存し、その恵みを享受でき、感謝するという文化を長い間維持してきました。しかし、時代の変遷、歴史の流れの中でこうした自然な霊性も体系化され、今では神道として知られいる宗教として理解されるようになりました。日本という国が発展し天皇を君主とする律令国家として組織化されてくるまでの過程の中で、国の成り立ちについて記すことの必要性を自覚した奈良時代、古事記や日本書紀が記され、この頃に、それ以前の自然崇拝的な霊性が現在の神道の基盤的概念として体系化されたといえましょう。
神道という名の宗教として体系化されたとはいえ、日本人の霊性には古来より恵みの源である自然と神の一体性への一種の愛着間と感謝と畏れ敬いの考えがあります。よって、天皇陛下が国民を代表し、また、民と神との関係維持の要として、前年の晩秋にその年の収穫を神に感謝する新嘗祭を執り行い、国民はその米で餅をつくり、正月に恵みをもたらす神を家々に迎え入れる為の鏡餅として神への新年の挨拶として供え、また、神を歓迎する為に家の入り口に門松をたてます。そして、笑いを絶やさぬようにします。なぜならば、笑う門に福来る、ですから。いくらいい門松があっても、笑い声の聞こえてこない家には、恵み、福、をもたらす神様は入り辛く、代わりに、貧乏神がやってきて、新年早々、余計陰気くさくなってしまうかもしれませんね。そもそも、誰が陰気な顔で“明けましておめでとうございます”、なんて言いますか?
笑うということは一種のスピリチュアルな現象だといえましょう。笑うということは福を象徴し、そして、笑うという福の象徴が更に福を招くというのが正月の”笑う門には福来る”という言葉の背後にあるスピリチュアリティー、言霊、だといえましょう。そして、この考えは、パウロがその手紙、特に、彼が獄中から書いたフィリピ人への手紙、に、信仰による主である神との交わりの中にあることで、逆境にあっても喜びなさい(フィリピ人への手紙、3:1、4:4)でも強調していることにも相応しています。そして、パウロは更に、こうした喜びとは、アガペという無我の隣人愛や忍耐や優しさと共に聖霊の賜物、恵みでもある(ガラテヤ人への手紙、5:22)と説いています。よって、笑いを絶やさず、喜びに生きるということは、とどのつまりは、ローマ人への手紙8章にあるように、神である聖霊の中に生きるというどのような試練にも喜びを絶やさずに乗り越えられる真の自由であるという教えにつながっているといえましょう。だから、”笑う門に福来り”という私達の先人が宝船に乗ってやってくる七福神の民間信仰的な考えと共に編み出した言葉の背後には、このような聖書の教えにも相通ずる祝福された生活実現の知恵があるのです。
笑いといえば、なんといっても、正月に宝船に乗ってやってくる七福神の一人であるあの布袋さんの笑顔ですね。布袋さんのように”わっはっは~!”と、どんなに大きくて重たくても、お腹を抱えて笑える、というか、大きなお腹の底から気兼ねすることなしに笑うと、福もその大きな笑い声を目当てに寄り道せずに参上することでしょう。そして、布袋さんといえば、日本では室町時代後期の京都で民間信仰的に発祥し江戸時代には日本中で人気のあったといわれる七福神の一人ですね。ところが、面白いことに、この笑いの神様というイメージのある布袋さん、実は、神というよりも、本当は実在した人間であり、中国の僧侶であり、偉いので弥勒菩薩としても知られています。菩薩といえば、bodhisattva , であり、bodhi は菩提と訳され、つまり、budh (Dharmaの真実を)知り始めたということを意味し、sattvaとは、生きて存在している者、英語でいうbeing、ハイデガーがいうDaseinというドイツ語の概念にも関連しています。広義には、sattvaは人、衆生をも意味し、bodhisattvaとは、つまり、仏、buddhaになる一歩手前の段階にある仏法(Dharma)の真実の知恵の光に照らされ(enlighten)され、やがてDharmaに目覚める(awaken)するsattva(人)なのです。ということは、布袋さん、いや、弥勒菩薩、のように笑うと、福が来やすくなるだけでなく、より早く仏法(Dharma)の知恵に心が照らされ、その真実に目覚め、つまり、buddha、仏、になれるということなのでしょうか。であれば、これぞ、至福じゃないですか。
いやいや、布袋さんのご利益だけでも充分であっても、布袋さんは、一人じゃなく、七福神の一員なので、他の6人の神様達と一緒でないといけません。いくら、笑う門に福来るとはいえ、そして、笑いといえば布袋さんこと、弥勒菩薩、だとはいえ、布袋さんだけを他の6人の七福神から抽出することはできないのです。布袋さんは七福神の一員として必ず他の6人の神様達と一緒に来ていただかないと、福の効果はないのです。百科事典のように完全なセットでないといけませんから。
では、ここで先ず、福笑いの師匠ともいえる布袋さんと一緒の七福神の残りの六人の神様を紹介しましょう。中国出身の寿老人は寿星といわれる南天星の化身神、仙人であり長寿の福をもたらすと言われます。福禄寿も中国出身で道教の南極星の神様の化身、先人と信じられ、また、寿星、福星、禄星、の三つの星が一緒になったものとも考えられ、寿老人と同じように長寿をの福をもたらす他、人徳を象徴する神とも信じられています。七神の中で唯一厳つい顔した毘沙門天はもともとインド、ヒンズー教からの仏教の守護神の一人として取り入れられ、同じようにヒンズー教から仏教の守護神として取り入れられた帝釈天に仕える神であり、日本では勝利に結びつく力の恵みの神であり、威厳を象徴するものとされています。阿修羅がどんなに踏ん張っても帝釈天に勝てなかった背景には毘沙門天の効力もあったのでしょう。右手の槍は、仏教を弾圧する敵を征伐する勝利の護りと勝利の武器であり、左手の宝珠で人々に知恵などの福徳を与えていると信じられてもいます。
琵琶を奏でる弁才天(弁天さま)は七人の福の神様達の紅一点で、もともとは水を含んだものを意味するサラスバティと呼ばれるヒンズー教における河の女神なのでインド出身です。河のせせらぎの心地良い音に乗じて、弁天は、音楽や弁舌のご利益をもたらす女神ともされ、特にいい弁舌をするには修辞法などについての知恵、そして、いい音楽にはそれ相応の才能も必要ですので、弁天は弁才天とも言われ、知恵や才能といった福、恵みの女神ともされています。ギリシャ語で知恵のことをソフィアといい、哲学、フィロソフィア、とは知恵との友好という意味であり、このソフィアというギリシャ語は女性形の語であり、西洋では女性の名前としても知られています。日本に”帰化”したこの知恵の恵みの神様もソフィア同様、やっぱり女性なんですね。同じくインド出身でもともとはヒンズー教の神だった毘沙門天と同様、もともとヒンズー教で、サラスバティと呼ばれた弁才天も、仏教文化に取り入れられ、その背後には”金光明最勝玉経”にある弁天のお経だと言われており、彼女のお経の声を聞くと、寿命増益怨敵退散のご利益あり、と信じられてもいます。ということは、インドの弁才天には中国の寿老人や福禄寿と同じように長寿の福をももたらすんですね。余談ですが、実は、七福神の考えが形成されるまでに、弁才天が宝船に乗れるかどうか議論されていたそうです。というのは、弁才天という女神の他、実は、毘沙門天の妹(或いは、妃)とされていた吉祥天というもともとヒンズー教の女神も候補者に上がっていたからです。しかし、あの厳つい顔つきの毘沙門天の妹であれば、やはり、女性らしさとか、女としての美しさという点で、やはり弁天にはかなわなかったので兄貴だけ宝船に乗っけてもらったんでしょう。とにかく、弁天はとびっきりの美女なんだ。
男にとって弁才天という別嬪さんの女神のきれいな声でお経を読む声に聞きぼれながら長寿の恵みに預かれるなんて、もうそれだけでもう大満足、至福の至りじゃないですか。野郎な私は思わすニタニタしてしまいます。
満足といえば、大黒天ですね。というのは、この米俵の上に乗っかって大きな袋を担いでニコニコしている五穀豊穣の恵みの神は、”吾唯知足”という京都竜安寺の蹲にも刻まれている禅のことわざにある知足の徳を象徴しています。つまり、欲を出さず、在るもの、与えられたもので満足することの大切さを教えているのです。旧約聖書の詩篇23や、新約聖書にあるパウロによるコリント人への第二の手紙12:9にあるように、キリスト教でも与えられたもの、つまり、グレース (gratia/gratia Dei) といわれる恵みに満足し感謝する徳が福であるという教えに相応しているといっていいでしょう。また、イエズス会の創始者であり、霊操 (Los Ejercios espirituales de San Ignacio
de Loyola)というスピリチュアルな自 律訓練法を考案した、聖イグナチオロヨラの”Suscipe"という自我をすべて神に差し出すこと、つまり、釈迦の教えの根本にもあるように、自我を無我とすることで、我欲を無くことで、どんなに少ない量であっても今あるもの、与えられたもの、すべてに満足し感謝するという祈りの意図するところにも相通ずるものです。
Suscipe, Domine, universam meam libertatem. Accipe memoriam,
intellectum, atque voluntatem omnem. Quidquid habeo vel possideo mihi
largitus es; id tibi totum restituo, ac tuae prorsus voluntati trado
gubernandum. Amorem tui solum cum gratia tua mihi dones, et dives sum
satis, nec aliud quidquam ultra posco.
ところがこの大黒天、もともとはインドのヒンズー教においてはシバという破壊の神だったと信じられています。しかし、仏に帰依したこと、浄土真宗的にいえば、つまり、南無阿弥陀仏したことで、或いは、仏教へ改宗、取り入れられたことで、マハカーラという、サンスクリット語で、偉大な黒い者、という意味の神となり、人々がいつも腹いっぱい食べられるような恵みをもたらす神とされたのです。もともとは破壊の神だったのですごい力があるのでしょう、だから、台所や米蔵を護る神でもあり、そのすごい破壊力で、こうした食料供給に欠かせない場所に侵入する者を征伐したともいわれます。でも、どうして黒なんでしょうか?そのすごい力で田や畑で力仕事をし、そして、収穫後、重たい米俵や米袋を楽々と担ぎ、運び込むので日焼けしたのでしょうか?それとも、もともとは破壊の悪い神だったという昔の罪を彷彿とさせる象徴なのでしょうか?私には定かでありませんが。
また余談で恐縮ですが、実は大黒天に関して、大黒を大国と語呂合わせし、しかも大きな袋を担いでいるということから、日本の大国主命と混同することもあるといわれています。
そして、恵比寿。実は、弁才天が七福神の中で唯一の女であるように、恵比寿は唯一の大国主命のような日本の神様なのです。ということは、恵比寿について知るには日本神話とそれを基にした民話などについて知る必要があります。こうしたことについては、後ほど詳しく述べましょう。ただ、ここでは、恵比寿が商売繁盛の恵みをもたらす神であり、この神が教える徳は清廉潔白です。商売の神様ですから、明朗会計の大切さ説きと水増しごまかし会計などの不正を戒めるものでもあります。大黒天が米俵と一緒であるのに対し、恵比寿は大きな魚、鯛、を抱えています。ということは、この唯一の日本の神は、海にも関係し、漁業や魚の流通商売へのご利益の福をもたらすのです。
実は、七福神はもともとインドの大黒天と日本の恵比寿の二つの神、つまり、二福神としてスタートしたとも言われています。ところが、室町時代に七福神の考えができあがる頃までに、宝船の乗員を増やしていったのです。勿論、福は多いほうがいい、と思うのが人情ですし。別に欲張りなわけではないですよね。しかも、大黒天は満足することの大切さを戒める神でもあるのですから。
福は多いほどいい、しかも、それは物欲とは違うとはいえ、やはり、宝船に乗せるということで、定員があります。でないと、定員オーバーの為、うまく航行できず沈んでしまうかもしれません。そうであれば、来福どころではありません。だから7人にしたのでしょうか?でも、あと一人乗せてもいいのでは?
では、今度は船についてちょっと。
現在までの宝船の定員にそった七福神は笑い声の聞こえる家庭にやってきますが、船といえば、やはりイエスという人間の形で2,000年ぐらい前にパレスチナの地に出没した古代イスラエルの、いや、旧約聖書のイザヤの預言書にもあるようにユダヤ人だけでなく全世界の人達を救う為に天から降臨した神です。そして、このユニークな神の降臨を祝うのがクリスマスです。で、このイエスという名の人間の形の神は、船と深い関係があるのです。
ルカによる福音書5章によれば、このイエスという神は、まだ神であると民衆から知られていない頃、ひょっこりとガリレア湖岸のカパーナムという漁村に現れました。その時、そこの漁師達の親分的存在であったペテロ(当時、サイモンと呼ばれていた)がその日まったく魚が漁れなくて”ちぇっ、つまんねえや”と思いながら失望のうちに岸で網をたたんでいた時に、イエスがひょっこりどこからともなく参上し、彼の漁船に飛び乗って、”おい、すまんが、ちょっとこの船を出してくれないか”と言いました。ペテロは、始め、”なんだ、こいつ? どこのどなたか知らんけど、俺がむしゃくしゃしている時に俺の船に勝手に乗り込みやがって、しかも、厚かましくも、船を出せだと?”、とでも思ったことでしょう。でも、ペテロは断らず、イエスという見知らぬ風来坊のような人を乗せて船を出したようです。そして、船の上から岸にいる漁民達や漁村の人達へ説教をしはじめたと、福音書に書いてあります。更に、説教を終えると、イエスは船主のペテロに向かって、”網を深いところへ入こみなさい”、と指示すると、なんとまあ、網は魚でパンパンに膨れ上がり、網が破れるほどの大漁となったのです。それで、応援の船を呼ばねばならないほどになり、しかも、応援に駆けつけた船も捕獲した沢山の魚の重みで沈みだしたという程でした。
イエスという人間の姿の神が現れ、ペテロの船に乗り込み説教をし、思わぬ大漁となり、どの船の魚の満載でした。いや~、めでたし、めでたし、ですね。こうした聖書の話によれば、イエスというイスラエルの神様、は恵比寿のような、いや、恵比寿を凌ぐ大漁の恵み神様だともいえましょうか。
で、この村の漁師達の親分的存在であったペテロは、このイエスがもたらした思わぬ大漁を喜んだかというと、実はそうではないんです。ルカの記述によれば、ペテロはイエスに対し膝間付いて、”先生、出て行ってください。私は罪深き者ですから“、と言い出したのです。いったいこれはどういうことなんでしょうか?ペテロはイエスに対して拗ねているのでしょうか?なぜならば、この漁村の漁師達の御頭的な存在である自分が漁をしてたときはまったく魚が漁れなかったのに、このどこからとも現れたイエスという男が指示すれば前例のない大漁となり、これでは、ペテロのプライドというか面子は丸つぶれですから。でも、どうしてペテロはイエスに対し自分を罪人だと呼んだのでしょうか?このペテロの行動についての解釈は神学者や聖書研究学者達の間でいろいろ議論されていますが、一つ考えられることは、プライドということが宗教的な意味での罪であるということです。このことは、別に聖書にあるキリスト教の教えだけでなく、仏教にある煩悩を戒める大切な教えの一つとも相通ずるものです。そして、七福神の一人で唯一神ではない布袋さんは、実は、仏の一歩手前の菩薩であるえらい坊さんだったので、布袋さんも、ニコニコ笑いながら、”そうだよ、この聖書の記述からも解釈できるように、変なプライドを捨んことには、思わぬ‘大漁’に象徴、比喩、される福は訪れんのだよ“と説教、説法するのではないでしょうか。であれば、なんとも仏教的でもある教訓ですね。
な~るほど、そう考えると布袋さんの代表する仏教の観点からもイエスというもともとユダヤの神様のもたらした招福の教えが理解できますね。そして、福を比喩的に代表する大漁の魚、七福神のもう一人の神様、恵比寿さんが担いでいるじゃないですか。
先ほども少し触れましたが、この恵比寿の神様、七人の福をもたらす神様の中で唯一の日本由来の神様なんです。しかも、この“Made in Japan”の神様、日本神話の元祖である古事記においては”出来損ない“とされ、流されてしまった憐れな神様なのです。
一説によれば恵比寿は、日本の祖神であり国産みの神あるイザナギ(伊耶那岐命)のイザナミ(伊耶那美命)の間に生まれた神々のうちの最初の子であるヒルコ(蛭子神)であるとされてます。ところが、ヒルコはイザナミがイザナギを誘って交わった結果産まれたので不具とされ葦の舟に乗せられて流されたと信じられています。実は、古事記についての定説では、イザナミがイザナギが最初に行った性交はイザナミがイザナギ女であるイザナミが誘って始めたので失敗とされ、その結果産まれた子供は産み損ないの子とされたのです。よって、ヒルコとアハシマは正式なイザナミがイザナギの子供とみなされず、しかも、ヒルコは流産した水子のように流されてしまったのです。イザナギとイザナミはヒルコともう一人の子を産み損ねた後、今度は夫であるイザナギの方から誘い、改めて交わり、次々と子供達を産み大八島(八洲)、つまり、日本という国を創造していったといわれています。
なるほど、子供を授かる為にセックスをするには、日本神話の教訓によれば、夫が妻に声をかけて誘わないといけないのですね。逆に妻から、“ねえ、あなた、そろそろはじめない?”、なんていうやりかたでセックスすると流されたヒルコのように流産してしまうリスクが高まるのでしょうか。紳士が淑女を誘う、そして、その逆はNG、というダンスの要領と同じですね。
因みに、アマテラス(天照大神)、ツキヨミ(月夜見尊月読命)、と並び、三貴子の一人として知られる、スサノオ(建素戔嗚尊速)、は海を統治する神とされるので、鯛を担いだ日本の神様である恵比寿はスサノオではないかと思う方がいても不思議ではありませんが、そうではありません。これらの3人の神々は、イザナミがイザナギとの間に火の神とされるカグツチを産み落とした際に性器を大やけどして死に、それを嘆き死者の世界である黄泉の国へ追いかけて言ったところ、とんでもない大失敗をし、無残な姿に変貌したイザナミを激怒させ、呪われ、危機一髪のところ黄泉の国から逃げ延び、その後の禊の結果産まれた子供達なので、父親は同じとはいえ、恵比寿さんとされるヒルコとは毛色の違った神々なのです。
さて、話を恵比寿に戻しましょう。
もともとは親のセックスの手順の不手際ゆえ、生み損なわれたことで流されてしまったヒルコを古事記にあるようにそのまま“流産”させてしまうことを憐れんだのでしょう。中世あたりになって日本人は古事記に対して独特の解釈を加え、ヒルコについて加筆するようになりました。そうした話ともいえる“神道集”などの記述によれば、ヒルコは流され葬られたというよりも、後に夷三郎となり、摂津の国の海岸に漂着し、天照大神の優しさから西宮を与えられたといわれています。因みに、夷三郎の夷という字には異郷の他、東方をも意味することから、恵比寿はおそらく東の方角から摂津の国の岸辺に流れてきて漂着したのでしょう。そして、海を漂流している間に鯛を捕まえ、担いできたという民間信仰へと話が膨らんだのでしょう。
こした経緯から、恵比寿とは来訪人というイメージがありますね。
来訪人といえば、先述した、イエスという人間の形をして風来坊のようにガレリア湖の漁村に突如現れた救世主でもある神もそうですね。イエスはエルサレム近くのダビデ王の生誕の地ベツレヘム近くの馬小屋みたいなところでマリアの体から産み落とされ、マリアとヨゼフが生計を立てていたナザレという田舎町で育ちました。そして、彼が30歳ぐらいの時、もうすでに故郷のナザレを離れ、ヨルダン河で洗礼者ヨハネの下で洗礼をうけ、その後、40日間砂漠で一人で断食瞑想の修行をし悪魔からの攻撃に打ち勝ってから、このカパーナムというガレリア湖岸の漁村へ“漂着”というか訪来し、ペテロというその村の漁師の親玉の舟に勝手に乗り込み説教しだし、大漁の魚の恵みをもたらしたのです。そして、これが今ではキリスト教、つまり、イエスキリストによる福音の教えの伝道のはじまりはじまりなのです。そう、すべては、この漁村に恵比寿さんのように“漂着”した夷から、つまり、異郷、の神と、はじめは“出ていってください”と言ったペテロとの話の折り合いから弟子としてリクルートするという話から始まり、およそ2,000年後には全世界に広まる国際的な宗教となったのです。
イエスの伝記ともいえる福音書を読めばわかりますが、イエスというのは同郷の人達から”異端視”(マルコ6:1-6、マタイ13:54-58)され、まさに、"村八分”的で”夷(えびす)さん扱い”よりひどい迫害を同朋からうけ、その挙句、同じユダヤ人の陰謀によりローマ帝国権力の下で処刑された人間の化身の神です。勿論、イエスは神なので殺されても復活しましたが。また、捨てられ(殺され)拾われた(復活した)イエスという神は詩篇118:22にある”捨てられた石”が信仰ある人達から”拾われ”、新しい定石とされた(マタイ21:42)でこのイエスの話にも比喩的に示唆されています。”古事記”の話では捨てられ流されたヒルコが後に書かれた”神道集”の話においては夷三郎として”復活”し、更に、摂津の国に漂着してから恵比寿として西宮の神にまで祀りあげられているということを並行してみると、イエスという神も恵比寿のような自分の親兄弟的な存在から”捨てられ”、放浪し、風来坊みたいに”漂着”するという夷的なところがあるかと思います。また、夷の東方という意味もメシアであるイエスが旧約聖書で予言された神の栄光が東方より到来する(エゼキエル43:2)ことであるとも考えられるので、イエスと夷としての恵比寿のつなげ合わせることができます。
同朋から一度は捨てられ夷さんとして"復活”し漂着したというニュアンスでイエスと恵比寿を並行してみましたが、恵比寿さんの鯛は一匹だけですが、イエスという夷の神がもたらす魚は一匹どころか漁船をその重みで沈めてしまうほどのすごい数です。これじゃ、さすがの恵比寿さんもイエスという神にはかなわんですね。
そこで、どうでしょうか? 今年の正月から皆さんのお宅でも、このイエスというイスラエルからの神様を宝船に乗せてあげませんか?そうすれば、七福神から八福神となります。勿論、皆様も福は多いほうがいいでしょう?
それに、一度捨てられた恵比寿と一度捨てられ殺されたイエスをめでたい宝船で一緒にしてお迎えすることで、私達は今までよりもっと物を大切にする徳を高め、その福を享受できるのではないでしょうか?捨てる神あれば拾う神あり、ともいい、イエスと恵比寿という拾われた神を大切にすることで、便利さからついついはまってしまう使い捨て文化を戒め、先述した教皇フランシスもその回勅、”Laudato Si"で強調する、物を大切にすることで神の創造物をもっと大切にする習慣を築きあげていけると思います。
そもそも、七福神というのは実に国際色豊かなものではないですか。恵比寿さん以外の6人は皆外国出身ですから。中国よりも遠く、昔は地の西の果てだと思われていた天竺の大黒さんを宝船に乗せているじゃないですか?それに、日本の恵比寿さんが魚であれば、インドの大黒さんは五穀豊穣。たんぱく質と炭水化物の恵みの神様。どちらも、健康維持にとって欠かせないものですから。しかも、このインド人のもともとは破壊という悪さをしていた大黒の神様と日本の国産みの時にイザナミが先に始めたために生まれ損ないという形で誕生し流葬された恵比寿が紆余曲折の末、日本人の憐れみ深い慈悲の情けによって前者は五穀豊穣、そして、後者は大漁や商売繁盛の神として宝船の最初の2人の乗船員として受け入れられたんです。こうしてはじめはインド人と日本人の二人の二福神で始まっためでたい宝船、もっともっとめでたくしたかったので更にインドから、そして、中国からの神様や菩薩になった偉いお坊さんを招き入れて、日本の皆々様をもっともっと祝福する為に七福神としたのです。
恵比寿と大黒を並べて、たんぱく質と炭水化物という二大栄養素の源の神様と考えることもできますが、実は、先ほど、八人目の“新入り”として宝船に乗せて今年の正月から歓迎するイスラエル出身の神であるイエスなんですが、ヨハネによる福音書6章によれば、なんと、この神様、実に不思議なことを教えてるんです。というのは、“私は命のパンであり、私の肉を食べると永遠の命を与えられるであろう”、なんてこと言うんです。これを聞いた大抵の人達は嫌悪感でもって逃げてしまったとこの福音書には書いてあります。でも、よく考えれば、このイエスという八人目の新入りの福神は、恵比寿がもたらす魚に代表されるたんぱく質と大黒がもたらす炭水化物の両方を兼ね備えた神じゃないですか。彼の肉はたんぱく質、そして、彼がそうであるというパンは炭水化物。しかも、これの“一挙両得”的な恵みをいただければ永遠の命というご利益。どうですか?
七福神の民間信仰は、仁王般若経にある七難即滅、七福即生、という節からの影響もあると考えられています。つまり、七難を打ち消すには、七福。なるほど、簡単な算数ですね。マイナス7をご破算にするにはプラス7を入れればいいのですから。でも、それだけでは0ですよ。しかも、私たち日本人の精神的強靭性を象徴する言葉に、だるまさんをイメージする、七転び八起き、というのがあるじゃないですか。マイナス7に対してプラス7でなくもうひとつおまけをつけてプラス8とすることで、七難への対処が、0ではなくプラスになります。しかも“八”という数はハチ公がその力強い前足の姿勢が八の字ににていることから付けられたということですから、福をプラスにし、より力強いものとするにも、七福神よりも八福神にしたほうがいい。それに、仏教では七正道ではなく八正道ですし、キリスト教においてマタイによる福音書5章のはじめの12節に記されているイエスという8人目の福の神の祝福の数は八つです。
恵比寿が
もたらす恵みの大きな鯛で知足すべしとわかってはいるんですが、魚が大好物な私はもちろん、イエスが乗っていない宝船なんて、信じられません。先述したよ うに、ルカ5によるとイエスはペテロ達ガレリアの漁民に思わぬ大漁をもたらした縁起のいい神ですが、イエスのことを”イエスキリスト、神の子、救世主”としてギリシャ語で示すと、ΙΗΣΟΥΣ
ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ、となり、それぞれの頭文字をって合わせると、ΙΧΘΥΣ、つまり、魚という意味になります。 だから、イエスという恵比寿を凌ぐ大漁の神様は、その暗喩表現が魚なのです。魚好きな私は、正月の宝船にΙΧΘΥΣという魚である”イエスキリスト、神の子、救世主”、が乗っていたほうがより大きな祝福を感じます。
かつて、キリスト教徒がローマ帝国で弾圧迫害されていた時、信徒達はΙΧΘΥΣという言葉を暗号、パスワード、として気付かれないようにコミュニケートし、秘密裏に祈祷集会などを開いていたと言われます。ΙΧΘΥΣ(魚)の効用、250年近く迫害されていた隠れキリシタンとして信仰を続けた日本の信徒達が”マリア観音”によって気付かれないようにしたことと似ていますね。
皆様も、ΙΧΘΥΣ、を加えた八福神を迎えませんか?
どうですか、お宅の家の門松のある港に錨を降ろす宝船の乗組員の数、八にしませんか?今までの7人という定員を一人だけオーバーしてもそれは標準偏差的許容値以内なはずですから。しかも、新たに加える乗員の神はイエスです。この神は全能の創造主の人間への化身なのですから、大丈夫。しかも、大黒天のすさまいいと言われる力なんか比較にも及ばない聖霊という不可能ですら可能にする無限の力をもっているんです。また、イエスのすごい力についてだけでなく、イエスを宝船に定員オーバーでも乗せることの正当性は、ルカ8:22-25に記されていることからも納得いくはずです。この聖書の話によると、ペテロの船が嵐でおおしけの中を航行中沈みそうになっていた時、船の操りのベテランであるペテロでさえ怯えきってしまい、もうおしまいだ、と思っていたところ、たまたまイエスが乗っていたお陰で、嵐はピタっと彼の命令で収まり、船は大丈夫でした。 だから、定員オーバーがイエスであれば心配無用。しかも、福は多いほうが良きに然りなので、やっぱり八福神にしましょう。
この新約聖書の話しによれば、嵐で船が大波にのまれ沈みそうであってもイエスはペテロが叫ぶまでずっと何事もなかったかのように居眠りをしており、ペテロがあまりにも怯え叫んで頼むので起き上がり、荒れ狂う自然に向かって、”お黙り!”と一喝し、嵐を一瞬にして止まらせたという神なので、このイエスを居眠りの好きな船長として宝船の乗員として向かえると家内安全は間違いなし!しかも、信仰のない人たちが怯えていても、家族皆、不沈の宝船に乗っているイエスをはじめとする八人の福の神のように、笑いを絶やさずに人生の大波、おおしけ、大嵐を乗り切っていけるのです。そういえば、あの一休さんも、昭和50年代のテレビアニメの話では、”慌てない、慌てない、一休み、一休み”、を”モットー”にしていましたね。ペテロのようにビビらず、イエスのように腹を据えて、常時落ち着いていられることが祝福された人生といえましょう。
それでは、皆様、よいお年を。
おまけ:
宝船の新しい乗員構成、八福神のプロフィール
乗組員
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徳
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恵み
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出身国
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宗教的背景
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*恵比寿 (ヒルコ、夷三郎)
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清廉、潔白、正直
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商売繁盛、大漁、水上安全
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日本
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神道
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*大黒天 (シバ、マハカーラ)
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知足
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五穀豊穣、豊作
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インド
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ヒンズー教、後に仏教
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毘沙門天 (クベーラ、バイシュラバナ)
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威厳
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勝利、成功、夜間安全
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インド
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ヒンズー教、後に仏教
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弁才天 (サラスバティ、梵天の妃)
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愛敬
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学業、音楽、財福
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インド
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ヒンズー教、後に仏教
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寿老人 (天南星、寿星)
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長寿
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長寿、幸福
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中国
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道教
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福禄寿 (南極星)
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人徳
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福徳、長寿
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中国
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道教
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布袋 (契此和尚、弥勒菩薩)
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度量
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開運、良縁、子宝、笑顔
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中国
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仏教
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**基督 (イエスキリスト、エマニュエル、父なる神の子、神の羊、平和の王子、道、光、永遠の命、復活、善き羊飼い、命のパン、ロゴスの化身、救世主、ダニエルの予言とヨハネの黙示録にある全世界の王、
イクテュス/ichthys /ΙΧΘΥΣ)
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隣人愛、清貧
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福音、聖霊、'救世、永寿、極楽天国
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イスラエル
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ユダヤ教、後にキリスト教
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* - 最初の二福神
**-八人目の新入りの福の神
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