Sunday, June 21, 2020

天にまします父の為にいじめられた預言者エレミアの:”南無”で森田療法的な信仰心:か弱い神経を強靭にした信仰


今年(令和2年)の父の日は第12主日にあたり、第一朗読はエレミアによる預言書、20:10-13です。主人公であるエレミアは旧約聖書に登場する預言者の一人です。彼は、他の預言者達もそうだったように、まわりから酷いいじめに遭わされました。いじめの理由は、エレミアは父なる神の預言者、つまり、代弁者、として、父の意向にそむわない行動に明け暮れる人達に改心するように喚起していたからです。父なる神の意向なんぞ気にせず、自分達の思うままに振る舞い続ける連中にとって、エレミアがいう父なる神も、またその代弁者であるエレミア自身も寧ろ鬱陶しい存在だったのです。だから、エレミアの預言は彼らをいらだたせ、彼らはエレミアを必ずしも直接殺そうとはしなくても、彼に消えてなくなって欲しかったので、いろいろと四面楚歌に追い詰めるようにいじめをしたのです。

小学校ではあなたのお父さんについて書きなさいというような作文の課題があります。そして、父の日にちなんだ授業参観日があれば、その時にこの作文を皆の前で読む機会もあります。

しかし、こうしたことがきっかけとなって、おまえのお父さん,OOOOなんだ~!と冷やかしたり、いじめたりされる子もいます。

父親の仕事が理由で差別されいじめの対象となるこは少なくありません。そして、こうしたことが理由で自殺したり、クラスの連中ともめごとになる子供もいます。また、このことが理由で、その子の親が学校を相手に訴訟を起こしたりするというような紛争にまで発展することもあります。

こうしたことは、別に父親のことが理由ということに限った事ではなく、母親のことが理由、また、家族そのもののこと、などとどんなことでもいじめの対象となります。しかし、今日は父の日でもあり、今日の聖書の第一朗読がエレミアによる預言書からなので、父親のことが理由でいじめられる子供と、父なる神との関係が理由でいじめられたエレミアとを対照させて考えているのです。

では、父なる神のせいでまわりから酷いいじめに遭わされたエレミアはどうだったんでしょうか?

エレミアは他の預言者にくらべてどうやら神経が細く傷つきやすい性格を持っていたようですので、まわりからのいじめは彼の心にとても深い傷を負わせ、鬱隣、絶望に陥り、時には自殺するしかない、と思うようになるまで追い詰められた程です。しかし、エレミアは結局、自殺したり、発狂して暴れたりはしませんでした。なぜでしょうか?


答えは、エレミアによる預言書を読めば、あぶりだされます。勿論、今日の朗読だけからでも分りますよ。

結論を先に言えば、それはエレミア自身の信仰心です。酷いいじめが度重なるにつれ、彼の信仰心も揺るがされ、落ち込んでいき、実存危機、にまで陥ってしまいました。しかし、揺るがされたとはいえ、根こそぎにされたわけではない彼の信仰心は再びその力を取り戻し始めました。そして、それは、エレミアが父なる神への不満や失望を賛美へと昇華させたことにあります。エレミアがこうして信仰の力を回復することで危機を乗り越えていくことができたのは、自分の小さい心がもたらす不安、そして、それが要因でもたらされた信仰の危機、そして、実存的危機、すべてを唯一の万能の父なる神に差し出し、神の対応にすべてを委ねたことにあります。あたかも、天にまします万能のお父さん(אבא/Abba)、私は忠実にあなたの為にあなたの御言葉を皆に伝えていたら、こうして皆からいじめられ、まさに孤立無援です。もうどうしたいいのかわかりません。父なる神よ、どうか私の苦しみ、すべてを受け入れてください。私はすべてをあなたに委ね、捧げます、と言っているようですね。

これは、不安障害に効果的な心理療法として大正時代以来よく知られている森田療法の臨床理論であるあるがままに現実を受け入れるということ、そして、浄土宗や浄土真宗で強調される南無阿弥陀仏の念仏の精神、つまり、無量寿の阿弥陀仏にすべてを南無することで自分の置かれた現実をあるがままに受け入れ、その結果、不安などから解放されるということ対照させても理解できます。勿論、苦境のどん底にあるエレミアが自分のすべてを南無(帰依)した対象は勿論、父なる神でした。

エレミアへのいじめは続いていましたが、彼は父なる神へ南無したことで、信仰の力を取り戻し、全能の父なる神を賛美し、乗り越えていけたわけです。こうして、エレミアはその回復した信仰により、精神的な強靭性を得たのです。この真理は、パウロがローマ人への手紙5章3-5で説いている、忍耐(ὑπομονή/hupomone)が私達の品性を磨き、この結果、希望と進行が連動して揺るぎないものとなることにつながります。だから、エレミアはいじめから押しつぶされることもなく、また、それによる絶望、実存危機のどん底からも這い上がることができたわけです。

さて、話を変えるようですが、いじめといえば、じゃりん子チエの主人公、チエちゃん、もよくいじめられてましたね。とくにマサルはあたかもストーカーのようにチエちゃんを追い回していじめてましたが、その理由にはチエちゃんのお父さん、鉄、のだらしなさがあります。おまえのお父さん、どうしょうもないから、おまえのお母さんに逃げられたや。。。きっついこと言われたチエちゃんですが、彼女、そんなことでいちいち落ち込んでられません。あのチエちゃんの強さの秘訣は何なんでしょうか?おばあはんからの隔世遺伝?まあ、その可能性は否めませんが。。

チエちゃんの神経、エレミアより太くて強いことはわかりますね。

まあ、誰もがチエちゃんのような太くて強い神経ゆえにいじめからの免疫を持っているわけではありませんが、エレミアの例からもわかるように強い父なる神への信仰、そして、キリスト教徒にとっては、強い父なる神への信仰は同時にその御子であるイエスキリスト、そして、聖霊を三位一体として信仰することです。信仰とは揺ぎ無く信じるということが前提です。とはいえ、エレミアのように、信仰ゆえに、いじめられ、その信仰が揺さぶられる事もあります。しかし、いくらチエちゃんくらべて神経がか弱いがゆえ傷つけられやすいエレミアでも、信仰の火を燃え起こさせることで強く生きていくだけでなく、預言者としての任務を遂行し続けていくことができたのです。

エレミアの実例にあるような信仰心といじめなどの苦境にめげない精神的強靭性の相関性について、近年の研究からも科学的に示されていますよ。例えば、これらの著書や論文など。。

Cook, C. H. & White, N. H. (Ed.). (2020). Biblical and Theological Visions of Resilience Pastoral and Clinical Insights, London: Routledge

Ögtem-Young, Ö.  (2018). Faith Resilience: Everyday Experiences, Societies, MDPI, Open Access Journal, 8(1), 1-13

Pargament, K. I., & Cummings, J. (2010). Anchored by faith: Religion as a resilience factor. In J. W. Reich, A. J. Zautra, & J. S. Hall (Eds.), Handbook of adult resilience (p. 193–210). The Guilford Press.

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