冒頭から私事で恐縮ですが、還暦を迎えたからであろうか、最近、自分は死ぬかもしれない、という思いに駆られることが多い気がします。実は、今までもそうだったけど若さや忙しさのあまりそんなことに気にかけずに突っ走るように生きてきただけかもしれません。別に、還暦だから若い頃に比べ暇なことが多いというわけでもないですし。私のような出生コースから外れた落ちこぼれフーテン同様貧乏暇なしにとって定年退職という贅沢はありません。死ぬまで働いていかないと生きていけないからです。だから、若い頃と同じように生きることに精一杯ですが、なぜか、死ぬかもしれないう感にとらわれがちになる気がするようになったのです。
”死ぬかもしれない“と思い、感じていると、私の体を構成する約37兆個もの細胞はそれらの染色体の先端にある分裂再生の為の”回数券“ともいえるテロメアがあとどれくらい残っているのだろう、なんて昔習った生物学を回顧しながら思うこともあります。人間の脳とはこうしたいたずらをするので”死ぬかもしれない“という感じはそう簡単に忙しさで覆いかぶせたりすることはできないようです。
確かに、60歳ともなれば、確率的に死ぬ可能性は25歳の頃に比して高くなることは必然だといえます。正直いって、すでに私の体ではガタがきている部分があります。だから、“やばい!故障しているかもしれない”と感じ、ここからの連動で、“死ぬかもしれない”に行きつく前に、“障害をもつようになり介護を要するようになるかもしれない”、“でもお金がないから介護なんて受けられないから苦悩のうちに死ぬかもしれない”、などと脳がどんどん負の連鎖のメッセージを送ってきます。このままだとストレスとなり血中コルチゾールが慢性的に高くなり、本当に心身ともに故障する確率をあげてしまいます。
では、どうすればいいのか?
ここで思いつくのが森田療法の根幹である不安を“あるがままに受け入れる”ということでそれによる心身的な症状を克服していくという知恵です。
体のあっちこっちが故障して自分らしく生きられず介護が必要になるかもしれない、そして、その先に、死ぬかもしれない、という不安をあるがままに、還暦となればこうしたことは寧ろ不思議なことではないと、受け入れることです。そして、ここで少し認知行動療法的に、受け入れた不安にたいする認識を別の視点からしてみることです。 例えば、孔子がいうように、60となれば“耳従う”ことになっているので、加齢によって今まで以上の故障するリスクが高くなった体が故障を予言する兆候を見逃さないようにと、脳が今まで以上に”障害をもつようになるかもしれない“とか“死ぬかもしれない”という感じに駆らせるのだという認識による受け入れです。こうして、寧ろ、心身的にあり得る故障を未然に防ぐ為の警告的なメカニズムによるものだと割り切れば、死ぬかもしれないと感じるのは納得がいき、今まで以上に体からの声に耳を従わせようと思います。
実は、この“かもしれない”という感覚がもたらす不安については、哲学者、宮野真生子さん、と文化人類学者、磯野真穂さん、のメール書簡のやりとりを編集した、“急に具合が悪くなる”という本から学びえるものがあります。
メールを磯野さんに打っていた頃の宮野さんは乳がんと闘病中でした。がんと戦いながら大学で哲学を講じ学生達の研究を指導し、また、講演活動なども活発にされていました。こうして、がんと格闘しながら精力的に生きておられた宮野さんはある会合で文化人類学者の磯野さんと出会い、腹心の仲といえる友情でむすばれました。だから、いろいろなことを本音であるがままに言えるのです。この本にあるお二人のメールを読めばわかります。
磯野さんと出会った頃の宮野さんは、今の医療はかなり進歩しているのだから自分もがんを多くの患者のように克服できるという確信と希望を持っておらたようです。しかし、宮野さんのがんは着実に悪化していき転移してしまい、ある日、医師から“急に具合が悪くなるかもしれない”と言われました。これは、その頃の宮野さんのがんの状態を鑑みてのことで、毎日精力的に活動されている時に医師が発した警告なのです。
こうした医師の警告をうけて、宮野さんには選択肢がありました。急に具合が悪くなるかもしれないから、約束したことであってもこの講演会はキャンセルしたほうがいい、という選択。いや、そうだからといって急に具合が悪くならない可能性もあるのでこっちに賭けてみよう、といって講演会に行き、予定通り精力的に講演するという選択。
この本にある宮野さんと磯野さんのメールのやりとりの軌跡からもわかりますが、宮野さんは出会い、そして、そこから生まれる人間関係をとても大切にする方です。また、宮野さんは研究や学生教育だけでなく一般市民への啓蒙活動にも非常に情熱的な方で、講義でも講演でも、予定されていることを”急に具合が悪くなるかもしれない“からといってキャンセルできるでしょうか?
”急に具合が悪くなるかもしれない“、というのはある程度の確率をもった警告であり、宣告ではありません。本人がそれを自覚するかしないか、といった主観的なことに関わらず、客観的にみて何事にも一定の確率のリスクというものがあります。宮野さんはこうしたことを踏まえて、その時その時、自分は生きているんだ、今、自分はこの講義をする為に生きているんだ、今自分はこの講演をする為に生きているんだ、今自分は学生達やお集まりいただいた皆様と交流するために生きているんだ、として認識されていたと思います。これはまさに生きがいの実感ですね。生きがいがあるからこそ、”急に具合が悪くなるかもしれない“というリスクがあっても情熱的にその時その時を生き抜いておられたのだと思います。
人間は、“急に具合が悪くなるかもしれない”と医師に言われたら、もし“そうだったらどうしよう”と不安に感じます。神経学的にみて、人間が不安を感じるのはごく自然なことであり、それは長い進化の過程で恐竜や野獣のような外敵から身を守る為のアラームとして得たものです。解剖学的には、進化上、”古い脳“ともいわれる大脳辺縁帯にある偏桃体の働きによるものです。だから、人間の脳が偏桃体を持つ限り、私達は不安と向き合い続けなければなりません。しかし、この生物学的、心理学的、事実を必然として、森田療法の基本理論にあるように、あるがままに受け入れ、認知行動療法的に不安に対する認識を建設的なものへとすることで、不安によって人生の質を損なうことなく精一杯生き続けることができるのです。これは、”新しい脳“ともいわれる大脳皮質にある前頭葉、とりわけ、前頭前野、を活発に働かせることでなし得るのです。ここでは、大脳辺縁帯から送られてくる、不安を含めた、様々な感情を客観的、論理的、に処理、統制、することができるからです。だから、”かもしれない“という不安アラームが鳴ったからといって不安に翻弄されることなく、生活の質を崩すことなく行動していける意思決定ができるのです。それ故、たとえ、”かもしれない“という感じの原因、例えば、宮野さんの場合、がんの予期してなかった悪化による”急に具合が悪くなるかもしれない“、が理不尽であると感じても、前頭前野でうまく処理することで、より一層精一杯生きて行く力という理に適うものへと変えていくことができるわけです。宮野さんが特に情熱的に研究されていた哲学者、九鬼周造さんの考えに沿っていうならば、これは、”かもしれない“と感じさせる事象が偶然と思われていても、前頭前野でその認識を変えれば建設的な必然とすることができるといえます。このことは人間がその”新しい脳“故に人間らしく生きていける、ということを示すいい例ですね。これは不安は厄介者というよりも人間が人間らしく生きて行く力となる、という五木寛之さんの主張にも反映されているといえます。
“急に具合が悪くなるかもしれない”という医師からの警告への宮野さんの対応は、まさにこの理不尽な偶然を理に適った必然と認識し直すことで、不安に振り回されることなく情熱的に生き抜いていくことがでることを証明するものだと考えられます。勿論、これは”急に具合が悪くなるかもしれない“という医師の警告に対する無頓着な反応ではありません。これは前頭前野で総合的かつ客観的に情報処理された結果なのでこの医学的な警告が意味するリスクを考慮した上でのことです。こうした意志決断によって行動されたからこそ、宮野さんは”急に具合が悪くなるかもしれない“けれど、それによって生きることの質を損なわずに自分らしく精一杯活動を続けることができたのだといえます。不安によって人生の質を低下させるのではない、という以上に、寧ろ、不安をあるがままに受け入れ、受け入れた不安という現実に対する認識を建設的なものへと変えることで、不安をそれまで以上に精一杯情熱的に生きていこうとされたところに、宮野さんの生き方から学ぶところがあるのではないでしょうか。
医師からそう言われようがどうであれ、人間誰でも何かの機会に、理不尽にも偶然にも、“急に具合が悪くなるかもしれない”、いや、”死ぬかもしれない“と感じ不安に駆られることあるものです。これは、進化に照らし合わせ、脳神経学上、心理学上、人間が人間であるが故の必然だといえます。そして、これを”新しい脳“の目玉ともいえる前頭前野で、森田療法的、認知行動療法的、に処理することで、より人間らしく人生の質を更に高めるように生き抜いていくことができるわけです。宮野さんのがんと向き合う生き方はこれを証明してくれているのです。
