前回のブログ記事(”かもしれない”という理不尽な偶然を理に適った必然に変えていく生き方 -哲学者、宮野真生子さんの生き方から学ぶ)で哲学者、宮野真生子さん、と文化人類学者、磯野真穂さん、のメール書簡のやりとりを編集した、“急に具合が悪くなる“という本について触れました。この本にある宮野さんと磯野さんのメールのやりとりから、宮野さんが乳がんとどう闘病しながら宮野さんらしく生き抜いたかが浮かび上がってきます。がんが転移してから医師から”急に具合が悪くなるかもしれない“と言われたことに対し、宮野さんはそれをどう受け止め、それに対し、どう意思決定し、息を引き取られるまで自分にできることをやり通したかというところが注目したいところです。前回の記事で、私はこうした宮野さんの”急に具合が悪くなるかもしれない“という医師からの”警告“への対応を森田療法的な現実の受け入れ、そして、この受け入れた現実(医師から”急に具合が悪くなるかもしれない“と言われたこと)を認知行動療法的に建設的な方向へ認識し直すことで、この現実が宮野さんの人生の質(Quality of Life:QOL)を損なう一因とさせることなく、精一杯宮野さんらしく生き抜くことができたのか考察してみました。その際、宮野さんの研究の根底にある九鬼周造が論じた偶然と必然にも少し触れました。私はここで、宮野さんは”急に具合が悪くなるかもしれない“という人生の質を損ないかねないことを不条理な偶然だととらえ、”自分は不幸だ“という考えに陥る確率があるが、そうではなく、森田療法や認知行動療法に沿った対応をしたので、自分は不幸ではなく不運であったのであると認識することができ、それ故、人生の質を損なわずに生き抜かれたのだと考えました。そして、これは不条理な偶然と思われる事象を森田療法的に受け入れ、認知行動療法的に認識し直すことで理に適った必然にすることができると結論付けました。
さて、今回のこの記事では少し偶然と必然というテーマを軸に“急に具合が悪くなる”という事象について確率論的に考察したいと思います。
では、急に具合が悪くなる、という現象は偶然なのでしょうか、それとも、必然なのでしょうか?
それはケースバイケース、であってこうした問いに一般論的に白黒を判別するように明確に答えられないというのが臨床家の見解でしょう。これに対し、何で医師ははっきりと偶然か必然か答えられないのか?、と思う方もいることでしょう。”私は助かるのでしょうか?“と患者さんから問われた医師が自分では”助かる“と信じていても”ええ、心配なさらないでください。助かりますよ“と言わない場合があるのと同じことです。
ウイリアムオスラー卿(Sir William Osler)は、“Medicine is a science of uncertainty and an art of probability”、という名言を残しています。つまり、医学、医療、というのは不確実性の科学であり確率論でもって対処する術である、ということです。このことは、医療において明確にこうだといえるものはないということであり常に不確実性がつきまということを示唆しています。だから、医学研究や医療の臨床に携わる者は皆この教えを肝に銘じていなければなりません。この教えは、2004年のテレビドラマ、白い巨塔(山崎豊子原作)、において大河内病理学教授が里見第一内科助教授に言った、“里見君、医療に絶対はない、だから医者は悩み続けなければならない。君の苦悩を、私は支持するよ”、という言葉にも反映されていると思えます。
医療において、偶然なのか必然なのかということだけでなく何事も明確にしたいという願望は理解できます。しかし、ここには対極的思考、二元論的思考、がもたらしかねない問題が潜んでいます。もし、この問題に陥れば、“なんでこんなことになったのだ!そうならないって言ってたじゃないか‘、というような結末になることがあるからです。
先ず、何事も明確し判別したいという願望への注意として、この明確の分別が偶然か必然かということに絞ってみましょう。
実は、個々の現象について偶然なのか、必然なのか、議論することはヘーゲルや九鬼周造の考えに照らし合わせれば不毛だといえます。なぜならば、ヘーゲルも九鬼も必然と偶然は対極的なものではないととらえているからです。特に、ヘーゲルはWissenschaft der Logik(科学の論理学)において、瞬時では偶然であっても、これらの偶然は必然へとつながるものだ、と論じています。ちょっと考えを飛躍させて連続性のある変化し続ける事象を関数に例えるなら、その関数を微分したもの、つまり、個々の微分値は偶然のようなものであり、その関数を積分していくとそれぞれの偶然を通して何等かの必然性が浮かび上がるとイメージできるのではないでしょうか。高校の数学で微分と積分は切り離すことはできないということを覚えているでしょうか?これと同様、偶然と必然は対極的に切り離せないものなのです。だから、ある特定の一つの事象がそれが偶然なのか必然なのか、その時点では確実にわからないわけです。ある確実性をもって偶然か必然か議論するのであれば、積分的、大局的、な視点でその事象がどう変化していくのかを追っていかねばなりません。だからオスラーは前述したように論じたのだと思います。
オスラーは医療における不確実性にどう臨床的に対応するかについて確率論をうまく活用できる技を磨けというように医学生や医師達に教えました。この教えは医師に限ったものではなく、臨床に携わる者すべてにいえるものです。私のようなカウンセリング心理学や臨床牧会神学を専門とする者にとってもです。
それではここから、確率論でもって偶然と必然について考えてみましょう。
不確実性の普遍的存在は統計学を履修した方ならよくお分かりだと思います。なぜならば、100%の信頼区間(0%の偶然性)を持つデータエビデンス、つまり、100%の確証でもって仮説を指示できるだけのエビデンスがあるということは現実的にあり得ないからです。
私が専門の一つとする行動科学の代表的なものである心理学の研究ではその統計的データは一般的に95%の信頼区間、つまり、5%の有意水準、でもって”正しいといえる“としますが、医学や薬学においてはこの基準が更に厳しく、99%以上の信頼区間、つまり1%以下の有意水準、にされていることもあります。とはいえ、研究結果がまったくの0%の確率でもってそれが偶然性によるものだと明示できる、つまり、0%の有意水準、100%の信頼区間、でもって議論できるものは自然科学にせよ社会科学にせよ、行動科学にせよ、科学研究の現実においてありません。それ故、科学というパラダイムにおいて、エビデンスの過信は危険をはらみ、そもそも、科学で完全に証明できるものなんぞ何もないからです。科学によってわかることはすべて確率論的に認識できる事実であって、単に、確率的な“多数意見”といっていいでしょう。それを数値化した指標が信頼区間です。よって、科学で”確実、あるいは、必然的、と示されることは常に、その時点では認識できない何らかの不確実性をはらんでいるのです。統計学では、その度合いが有意水準という指標なのです。
ザックリ言うならば、科学の眼で見える現象は単に信頼区間の確率的な必然であって、常に、有意水準の確率的な偶然によるものかもしれないということです。言い換えれば、科学において100%の必然性はないということです。だから、科学的エビデンスに基付く現在の医療において、前述したオスラーの教えは大切なのです。
例えば、たばこを吸うと肺がんになるという議論について考えてみると、現実的にみて、喫煙者すべてが肺がんになると100%の確証でもっていえません。しかし、確かに、喫煙は肺がんのリスクとなることは、喫煙と肺がんの相関性を回帰分析で示せば明確にあぶりだせます。ただ、この相関性のうちどれ具合の確率で喫煙と肺がんの因果関係で占められているのかはケースバイケースだといえるでしょう。
だから、急に具合が悪くなる、という現象もある程度の必然性とある程度の偶然性を同時に持っており、それらがどれぐらいの確率を占めているのか、その人の体質、既往症、時と場合、などの様々な因子によって変わってくるのだといえます。これは、シュレディンガーの猫の実験からいえる量子力学にある重ね合わせの確率的理論のようなニュアンスがあると思います。放射性元素が既に崩壊しているという確率とまだそうでないという確率が同時に重ね合わせに存在していることを、箱の中の猫は死んでいる確率と生きている確率を重ね合わせており、実際に生きているのかしんでいるのかは、一定時間後に箱をあけてみないとわからないというものです。
人間誰でもその約37兆個もの細胞のうち毎日数千個が突然変異しがん化する方向へ向かっていると言われています。しかし、免疫機能によってこうした異常細胞は取り除かれ、これらが集まってがんの病巣をつくるまで至らないわけです。しかし、実際、異常細胞の増殖が免疫による処理能力を超えれば、がん化することになってしまいます。
人間の体はシュレーディンガーの猫を入れた箱のようなものです。外から見て、箱の中の猫が生きているか、箱の中に仕掛けられた放射性物資の崩壊によるエネルギーで毒ガスが箱の中に入れこまれ猫が死んでいるのか、わかりません。だから、実際に箱を開けてみるまでは、猫が生きている確率と死んでいる確率は重ね合わせであると議論します。人間の体も外からではがんが存在する確率そうでない確率が重ね合わさっており、その時その時、この重ね合わせの確率が連続的に変化するものだと考えられます。外から見ただけでは、がんなのかそうでないのか”線引き“、つまり、区別がつきません。分子生物学的に、前者が後者を上回れば、体内でがんが成長しはじめやがて様々な症状をひきおこし、体を開けてみなくてもわかるようになってきます。
ただ、何らかの持病や既往症があれば急に具合が悪くなる確率がそうでない人より高くなると想定され、その必然性の確率も偶然性に比べて高いこともあるかもしれません。それ以外のことは科学的に解明できないといえると思います。
それでは、偶然と必然は重ね合わせで存在するのでしょうか?
九鬼周造の”偶然性の問題“によれば、シュレーディンガーが示す重ね合わせの量子力学理論のように、あり得るといえます。九鬼周造は偶然と必然は表裏一体だととらえているからです。ただ、厳密に言えば、シュレーディンガーの量子力学的な重ね合わせは表裏一体と必ずしも同じだと言えませんが。とはいえ、前述したように微分と積分がそうであるように、偶然と必然は切り離せないのでこれらが重ね合わせのようであり、また、表裏一体的に共存していると言えるでしょう。それ故、偶然は必然となり得、また、その逆も然り。ここが宮野さんの大きな研究テーマの九鬼哲学にある偶然性の問題の面白さだといえましょう。
しかし、そうだからこそでしょうか、宮野さんも磯野さんも医療の現場での様々な臨床事象をただ数値化し確率論で議論することで線引き分別することに異議を申し立てています。これは、オスラーが説く、医療とは確率論で対処するという教えについて、どう確率論で対処すべきかを示唆してくれるのではないでしょうか。お二人の現在の医療に対するこの批判は、確率論の間違った応用だといえます。私が思うには、宮野さんと磯野さんは確率論を医療における線引き選別の道具として使うなと主張されていると思います。また、お二人は社会における線引きによる様々な問題を指摘しています。
必然と偶然ははっきりと境界線を引いて分別できるものではありません。なぜならば、これらは重ね合わせ的、表裏一体的に常に共存するものであるからです。また、宮野さんと磯野さんが提議する医療における確率の扱いは、オスラーが説くことへの量子力学の重ね合わせ理論にも通ずる最適な答えであるといえます。
つまり、急に具合が悪くなるということは、明確に判別できない偶然と必然の確率的な表裏一体的とも考えられる重ね合わせであるといえるのではないでしょうか。
だから医学部の入試には必ず確率統計と量子力学の問題を盛り込むべきですね。
因みに、私が落ちた”浪速大学”医学部の物理の入試問題に放射性元素が一定の時間内に崩壊した際に放出された放射線エネルギー、つまり、放射能、の総量を求めよという問題がありました。対数関数の積分だということは分かるのですぐに式をたてて計算しはじめたのですが、途中で、数が何か変に複雑になってきたので見直してみたら計算間違いをしていたことに気付き、速攻で訂正にかかったのですが、試験終了のベルが鳴ってしまいました。そうでなければ、私は医師になっていたかもしれません。しかし、現在この確率は0ですね。医師になる確率と医師にならない確率が重ね合わせで存在していたのはこの量子力学的な物理の問題で致命的な失敗をするまででした。しかし確率をベースとする統計学に関しては、高校、大学、大学院、一貫してよくできたのではないかと思いますが。

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