Monday, October 16, 2017

クリスチャンの為の落語:桂あやめさんの落語、”ちりとてちん”を神学的に楽しむ



落語と神学。。。一見、まったく関係ないようなんですが、実はあるんですよ。。。まあ、こんなこと考えるのは物好きな私だけかもしれませんが。。。本間かいな~?、と半信半疑に興味をもたれた方、桂あやめさんによる”ちりとてちん”という上方落語を聖書を片手にお聞きください。というか、聖書になじみのない方、とりあえずマタイによる福音書22章1節から15節にあるイエスが説教を読んでからこの落語をお聞きになり、これらの二つの話に何か相通ずるようなオチがないか注意してみてください。

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                                 桂あやめ「ちりとてちん」

あやめさん曰く、落語の世界では師匠、先輩、のいうことが絶対性をもつので、それを疑うような態度を示しては生きていけないのであります。そして、師匠が差し出すものを自分の好き嫌いなく謙虚に、かつ、ありがたく受取って堪能しなければなりません。

実は、これって神と人間との関係をある意味では比喩的に示しているとも考えられます。。。。と、神学的に落語を楽しむのが心理のほかに宗教コンサルタント、宗教教師もやっている私の癖なんです。

神学的に、神が人間に与えるもののことを恵みといいますが、そのことに鈍感な人ほど妬みやすく、自分勝手な”平等感”や”公平感”を抱き、また、人一倍不平不満をもらす傾向にある。また、そんな人ほど感謝の心が薄く、傲慢なところもあります。旧約聖書から神学聖書まで読んでいくと妬みという心理がもたらす罪という行為が人間と神との関係をどのようにしていくか、そして、神はこうした人間の心の問題に対しどのような施しをするかという話が沢山あります。そして、心理学のレンズでこうした聖書の話を読むと、妬みの根底には自己中心性という問題があることも分かり、いわば、神を困らせる人間の罪というのは人間の自己中心性によってもたらされるものなのです。最初に罪を犯したイブは自我にとらわれ簡単に蛇の姿をした悪魔の誘惑に乗せられ、夫のアダムをそそのかし、アダムも自我にとらわれ妻のイブと同じように禁断の果実を食べて罪を犯しました。そして、この夫婦の長男であるカインは弟のアベルをねたみ、殺してしまうという罪を犯しました。聖書ではイブ、アダム、そしてカインという人間の自我へのとらわれに因する、つまり、自己中心性がもたらす罪の連鎖反応について記されています。そして、神が禁じていることを犯すことや殺人といったようなあからさまの罪には見えないとはいえ、自我に生きている人は、他人が差し出してくれるものへの感謝の気持ちが薄く、自力本願的で傲慢になる傾向があります。一方、自我が強くない人は謙虚であり、他人が差し出してくれるものはどんなものでもありがたく受け取り、その感謝の気持ちを表明します。勿論、神が与えるもの、つまり、神の恵み、への対応の仕方についても同じパターンです。

実は、このあやめさんのバージョンの”ちりとてちん”を聞いているとどことなくこうした心理学にそった神学的なことをあぶりだすことができます。そして、例えば、A年の第28主日の福音朗読(マタイ22:1-15)の話の”オチ”と並行させてみることもできます。というのは、このマタイによる福音書に書いてあるイエスの例え話では、王様が出した王子の結婚式の晩餐会の招待状という比喩にある神の恵みへの対応の仕方がいい人は神の祝福をうけ、そうでない人は神の罰をくらうというものなんです。また、これと同じ毛色の”オチ”がこのあやめさんの落語にもあると頷くこともできます。

この落語に登場する人物の中で”雛鶴”と”姫鶴”という二人の女中さんがいるんだけど、この二人の態度が対照的であり、それに対して、客がどう対応するかが聞きどころなんです。

そこでこの落語を最後までご笑聴できた方への問題です:

神学的にいってみれば、この落語にでてくる”長崎名産、’ちりとてちん’”というお菓子は神の天罰、あるいは, 神の恵み、のどちらの比喩に例えられるでしょうか?

兎に角、神学というと何となく堅苦しい印象がありますが、こうして落語と並行させて心理学の角度から比喩的に考えてみると意外と、”な~るほどね”と笑いながら納得できるものです。

"心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす"(箴言 17:22)ですからね


Sunday, October 1, 2017

Turning Our Heart from Our Will to God’s Will: Metanoia through Metamelomai for Anakainosis

In Jesus’ parable of the two sons (Matthew 21:28-32), the first son refused to work in his vineyard when asked but later changes his mind and went there. On the other hand, the second son said, “I will, sir!”, when the father asked him to work in the vineyard but never went there. Jesus addressed this parable directly to the chief priests and presbyteries to address their hypocrisy. Through this parable, Jesus was telling that they are like the second son. These religious leaders made themselves look ostentatiously pious in the public and love to garner public respect to themselves (i.e. Matthew 6:5). These hypocrites conducted themselves in public as if they had sworn their loyalty to the Lord of Hosts, but what they do in the name of God is quite contrary to the will of God.  That is why they made the Temple corrupt (Matthew 21:12-17). Jesus spoke this parable in the Temple area, on a day after Jesus entered triumphantly in Jerusalem and cleansed the Temple.

So, what does this parable mean to us, Christians today? To reflect on this question, we need to assess ourselves – in regard to how faithful we are to Jesus’ commandments, especially to love one another (John 13:34) and to carry our cross daily upon denying ourselves (Matthew 16:24). These commands of Jesus are about will of God for us.

According to the Pew Research Center’s 2015 survey, there are approximately 2.3 billion Christians in the world. But how many of them are truly faithful to the will of God? In other words, how many Christians in the world really stick to the Covenant? I am afraid that a significant portion of Christians are more like the second son rather than the first son of the parable. Otherwise, Mahatma Gandhi would not have said, “I like your Christ. I do not like your Christians. Your Christians are so unlike your Christ”.

This problem of us Christians is that many of us make empty promises to our Lord and to one another. The hypocrites that Jesus challenged with the parable of the two sons are a shadow of this problem of ours. Thus, the second son, who said “Yes” to his father’s will but never did it, is our image.

All couples who marry say, “I love you”, to each other. They say “I,…, take you, ....,for my lawful husband/wife , to have and to hold from this day forward, for better, for worse, for richer, for poorer, in sickness and health, until death do us part” in front of God, witnessed by the officiating priest and others to tie their knot. As they make this matrimonial covenant with these words, they must reflect Paul’s words on love in 1 Corinthians 13:4-8. Thus, this covenant is meant to make their love to remain standing  and withstanding. However, why do many of Christian couples who have exchanged the vow with these words fail? Does it mean that love actually fail? No, as Paul says, love never fails (1 Corinthians 13:8) because love always endures all challenges (1 Corinthians 13:7). Their marriages fail because the vows they exchange are with empty words, just as how the second son to his father’s will in the parable.

So, what lesson should we draw from the parable – unless we would not mind being like the second son in the parable or like the religious hypocrites whom Jesus challenged with the parable? How can we become more like the first son, even though our will may at first reject God’s will?

It is to turn our heart from our will to God’s will. We need to learn the spiritual art and discipline to synchronize our will to God’s.  If we made no efforts on closing a gap between our will and God’s because our will initially did not like what God wants us to do, then, we would become and remain hypocrites like the second son and the religions leaders in the parable.

In the lectionary for the 26th Sunday in Ordinary Time for Cycle A, the parable (Matthew 21:28-32) echoes Ezekiel 18:25-28. In the Ezekiel narrative, an emphasis is on turning away from sinful life and turning back to God’s will (focusing on the Hebrew verb, “שׁוּב”(shub) used in vv. 26-28. To reflect this, the Gospel parable of the two sons is to teach us the importance of turning away from our problem of empty promises to keep our promise to do God’s will.

In the Gospel parable, the verb “μεταμέλομαι “(metamelomai) is used twice (v. 29, v. 32) to indicate changing mind from what disappoints the Lord to his will. This Greek word has a connotation to repentance and painful regret, leading to transformation of mind upon compunction, “μετάνοια “(metanoia). Metamelomai is not a Greek equivalent to the Hebrew word, shub. Nevertheless, it is important to understand that an important lesson from the parable of the two sons is to learn how we can turn our mind from our own will to God’s will whenever these are not identical.

There is no one-fits-all kind of formula about how we can close a gap between our will and God’s will to ensure that we do God’s will faithfully, even though we may not always do God’s will right. That is why we just need to surrender to God – to His will, so that His grace can help us. This humble surrender of ourselves to the care of God actually reflects a nuance of metamelomai, as it is a change in what we are concerned about. We surrender our self concerns, which reflect our will, to what God cares in His will. After all, this surrender is the kind of self-denial Jesus asks us to do so that we can carry our cross daily.  As we become better carriers of cross, we can live as authentic Christians. There will be no gap between our will and God’s.  There is no discrepancy between what we promise and what we do.


Let us attain metanoia through metamelomai so that we can enjoy anakainosis of the covenant between God and us.

Friday, September 22, 2017

聖霊による日本の教会刷新: 教皇フランシスコからの奨励



教会とは何ですか?そう聞かれるとあなたはどう答えますか?

あそこの角曲がった所にある建物、といったようにでしょうか?

耶蘇という人を拝む人がたむろする所?

いやいや、教会というのは、もともと聖霊に満たされた信者が集い形成するekklesiaというギリシャ語で表現される共同体なのです。接頭語の”ek ”には”~から~へ”というニュアンスがあり、それに続く部分の原型、”kaleo”、には”召集される”といった意味があります。つまり、教会というのは、神によって世の中の様々な所から呼ばれ、集まり、神の下へ、神の王国へと向かう共同体のことなのです。だから、建物なんて本当はどうでもいいのです。人が肝心なのです。そして、そこに集い、それを形成している人達は, 大師匠、というか、主、であるキリストが説いたように、聖霊という命の本質に生きているのです。

生きている細胞の共同体が生体であるように、聖霊に生きている信者が成す教会は必然的に聖霊によって生きているのです。つまり、教会は聖霊なしには教会として存続できないのです。

実は、教会の中には聖霊による刷新運動があります。これは、使徒伝に描かれているように、ペンタコストに生まれた教会がいつも聖霊に満たされているように祈り、勤め、神を賛美し、神に感謝することを常時忘れずに行う運動なのです。そうすることで教会はいつも聖霊を放射しその様々な恵みをもたらす媒体となるのです。そうであってこそ, 私達が成す教会はイエスが言ったように, “地の塩 , 世の光”( マタイ5: 13-16) となるのです

以下において、聖霊による教会刷新運動が今の日本の教会にとっていかに必要不可欠であるかについて、教皇フランシスコが日本の司教達へあてられた親書に基ついて考えてみたいと思います。

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今年(2017年)はカトリック教会内において聖霊による教会刷新運動がはじまってから丁度50周年の節目の年であり、golden jubileeです。よって、教会は地の塩 , 世の光” であるだけでなく, 聖霊に満たされ、泉のように聖霊が吹き出て、それがもたらす様々な恵みの媒体でもあるべきです。そうすることで、様々な聖霊の果実が実るのですから。ところが、今日の日本の教会の現実はどうでしょうか?0を最低値とし100を最高値とするスケールにおいて現在の教会の聖霊満たされ度はどれくらいでしょうか?100ですか?100を超えてますか?それとも。。。。。?

正直言って、あまり理想的なスコアではないようです。ということは、日本の教会にはもっともっと聖霊が必要なのです。そして、聖霊による教会刷新運動の50周年であるので、教会を構成する私達信者は、今改めて日本の教会を聖霊により刷新することに取り組まねばなりません。

実は、教皇フランシスコもそうのようにお考えのようです。

教皇は今年の十字架称賛の日(9月14日)に日本の司教達へ親書を送られています。この親書には教皇の日本の教会に対する強い関心が示され、希望に満ちた励ましの言葉に力付けられます。

特に、聖霊による教会刷新に携わる者が注目したいのが、最後から2番目のパラグラフにおいて教皇は私達の活動を重視されており、日本の司教達に、もっともっと聖霊による教会刷新運動について理解し、支援し、これからの司牧活動に積極的に取り入れていくように奨励されています。

教皇は日本の教会の長所と問題について歴史的なコンテクストを通してよく理解されております。250年以上もの間の迫害を耐え抜いてきた信仰の強靭性という長所を活かすことで、規模の小ささがもたらしかねない困難を乗り越えていけると確信しておられ、それと同時に、もっともっと働き手を増やし成長させていく必要性を改めて指摘されています。そして、こうした課題に日本の教会がより効率的に取り組んでいけるようになる為にこれからはより一層私達が携わる聖霊による教会刷新運動を取り入れていくことが重要であると、主張されているという印象を受けます。

この親書で教皇が明確に指摘されているように、日本の教会が直面する日本の司牧課題は、相対主義や物質主義がもたらす様々な問題にどのように対処するかです。相対主義は、一過性の文化をもたらし、本来は絶対であり永遠に持続するはずの愛を相対化、不確実化してしまいます。そして、この問題は更に、人間関係の希薄化、家族の崩壊、離婚の増加などといった社会問題へとつながります。また、物質主義は、かつての重商主義が産業革命と密接な関係にある資本主義へとつながり現在に至る過程に一貫しているものであり、イエスは私達がこのようなことへ傾倒しない為にも霊的な財産を蓄えるように一生懸命働くことを奨励されました(マタイ6:19-21)。しかし、明治の”文明開化”以来日本にも”富国強兵”政策により欧米のように物質主義が蔓延するようになりました。特に、戦後は本家のイギリスを凌ぐ資本主義国となったアメリカの影響を強く受け、日本の物質主義は”高度経済成長”の名の下でより一層浸透するようになりました。そして、平成初期にバブルが崩壊し、教皇も指摘されているように、貧富の差が高まり、それにより”疎外される人”が増えてきました。 また、このような状況では、生きがいを喪失した、実存的な危機にある人が増え、必然的に、自殺も増えました。これはEmile Durkheim, Viktor Frankl, Paul Tillichなども警告してきた事です。 今、日本の教会は小規模であっても、こうした実に多様で膨大化する社会問題を向き合いながら、それらを一つ一つ克服できるようにならねばならないのです。そして、つまはじきにされても、物質的な財産を失っても、どのような試練にあっても、いつも霊的な財産を蓄えておけるように、Franklがいう生きていることの意義(寅さんの言葉でいえば、”あ~生まれてきてよかったな~”)を誰もが実感できるような共同体として教会は機能していかなくてはなりません。教皇は日本の教会がそうであることを切に望んでおられることがこの親書によってよくわかります。その為に、聖霊による教会刷新運動は非常に重要なので、日本の司教達にもっと積極的に教会刷新運動をこれからの司牧活動に活かしていくことを教皇は勧められているのだといえます。

私達は今、この時をしっかりと掴み取り、司教達に積極的にアプローチし、彼らのよきパートナー、そして、必要に応じて、コンサルタントとして、教会の司牧活動に取り組み、上述したような様々な社会問題を克服していきながら、教会を成長させるようにしなければなりません。この使命は日本の社会、そして、それに聖霊の恵みをもたらすべく日本の教会そのもののQuality of Lifeに関わる非常に重要なものです。

私はシカゴの聖グレゴリーの教会刷新グループで聖書を教えさせていただいてますが、今、使徒伝について学んでいます。というのは、私達の教会の原典はペンタコストであり、それ故、教会というのは本来いつも聖霊に満たされているだけでなく聖霊が泉のように噴出し、それを必要としているところへ送り込むような媒体であることを改めて認識できるからです。こうした本来の教会が維持されなければ教会は衰退していき、やがて、悪魔がすべてを取り仕切るようになるかもしれません。そのような方向へと社会が進むのであれば、家族は完全崩壊、人間は皆自己保存のことばかりしか考えられず、常に何かの争いが起こり、やがて人類は人類自らの手でお互いを殺し合い滅亡するでしょう。そして、教会にも悪魔が忍び込み、その悪霊が浸透し、霊的なガンとなり内部から蝕まれていくようになるかもしれません。確かに、聖母がファティマで示した預言や秋田で示した預言にもこうしたことを思わせるものがありますが、聖母は、そのようなピンチになっても神の恵みの計らいにより私達教会はこのような試練ですら乗り越えていけるであろうと希望のあるメッセージで締めくくっています。また、イエス自身がSt. Maria Faustinaに、”私は神の慈しみそのものであり(i.e. Diary 1074, 1739)、これが救いの為の絶対必要条件である(i.e. Diary 300, 998)”とも明言しています。

イエスの聖なる心臓から噴出す神の慈しみの恩恵が最大限である為に、私達は今までより一層努力し、教会が使徒伝の頃のように聖霊によって満たされ、聖霊の泉のように機能することで、様々な世の中の問題に取り組み克服していき、更に成長していけるようにしなければ成りません。そもそも、聖霊は原動力ですから。これなくして、どうして私達の命の座である魂(anima)は私達がanimateできるようになりましょうか?Anima(魂)と聖霊(Pneuma Hagion)は心肺機能と酸素のような切っても切れない関係にあります。だから、教皇の親書も、司教を通して、私達にこのように励まされているのではないでしょうか。

ご参考までに、教皇の親書のリンクです。まだお読みでなければ、是非お読みください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2017/09/14/14598/