Sunday, July 7, 2013

終末医療における”自分らしさ”の盲点 - ”自分らしく生きる”よりも”好きに生きる”


色平哲郎先生の6月28日付けの日経メディカルブログ:色平哲郎の“医のふるさと”に“終末患者の‘自分らしさ’とは?”に関して、前掲の私のブログにおいて、全人的医療の観点から“Narrative Medicine” Greenhalgh& Hurwitz, 1998, 1999)という概念を通して, 患者さんの自分らしさ“が維持できる医療について考えてみました。

患者さんの“自分らしさ”を維持できるようにする為の“Narrative Medicine”などの概念を活かした全人的医療を実践することはこれからの日本の医療の質を更に向上させる為に重要であると前回のブログで述べました。しかし、いくら患者さんの”自分らしさ“が大切であるとはいえ、どうやら、”自分らしさ“について肩肘張って取り組み、それを難しい哲学的な概念としてしまう傾向を色平先生は指摘していることをも抑えておかねばなりません。

望ましい全人的医療とは、患者さんが末期癌などにより、肉体的に非常に制約的は条件下にあっても、自分として自分のあるがままの心で生きていられるようであればいいのです。しかし、”自分らしさ”という概念が理屈となり、抽象的になっていくと、本来あたりまえ、自然なことが、”自分らしさ”たるものは”かくあるべし”といった束縛的な概念と化し、”もし、そうでなければ?”といった不安に苛まれかねません。

”自分らしさ”を追及しがちな現在の終末医療のあり方に疑問を投げかける色平先生の論旨を鑑みながら、”自分らしさ“の医療にも落とし穴、盲点、があるということを認識し、理解しなければなりません。

せめて人生の最後、最終末章、だけでも本当の意味で”自分らしく”生きたい、というのが人間誰にとっても、本心、本望でしょう。そして、死を看取る医療はそれを保証できるものであるべきだという主張が最近の日本の医療関係者の間でも議論されるようになってきました。勿論、患者さんの“自分らしさ”を尊重することは、医療、特に、全人的医療においては非常に大切なことです。しかし、それが重要だからとはいえ、色平先生によると、この考えには盲点があります。

先生は、

改めて「その人らしさ」「自分らしさ」を最後まで尊重する、といったような表現で、ケアの方向性を抽象化しようとすると、どうも消化しきれないものが私の心の底に残るのだった。”

"人生の終末期に至ってまで「自分らしさ」にこだわるのは辛い話だ。好きなように生きる、ではいけないのだろうか?"

といったように、”自分らしさ“にこだわる医療について批判的に評しています。

患者さんの”自分らしさ“を尊重することと、”自分らしさ“にこだわり、執着するが故、本来の”自分らしさ“から逸脱したり、抽象化してしまった、”自分らしさ“の妄想を追及するようになってしまいます。 こだわるという執着が節度を失い、勝手に”自分らしさ“という思い込みに陥り、抽象化された妄想へ嵌まり込む危険があるということをしっかり認識しておかねばなりません。

こうした、とらわれ、執着による妄想の“自分らしさ”による終末医療であれば、それはとどのつまり抽象化された、あるいは、マニュアル化されたような現実離れした綺麗ごとのような偽の“自分らしさ”でしかない。そのような偽りのある医療にはやはり問題が生じる。そこで、色平先生は、“自分らしさ”にとらわれないようにする為に、患者さんが“好きなように”生きられる終末医療の方が望ましいのではないかと提言している。

終末医療において患者さんの“自分らしさ”よりも、“好きなように生きられる”臨床パラダイムを薦める理由として色平先生は次のように、人間の心理、特に、間近に迫る死を受け入れた人の心の本質に触れ、また、内田樹氏の“自分らしさ”という概念への批判論をも踏まえながら、次のように記している。

“末期癌で苦しみながら家族と旅行をするのは、 必ずしも自分らしさを究めたいという求道精神からではなく、極限での安らぎが欲しくて、なおかつ、それを実行できるある程度の余裕(当事者の経済面ばかりではなく、社会インフラなども含むもの)があるからできているのではないのか。

思想家で武道家の内田樹(たつる)氏は、現代人に共通する「自分らしさ」志向について、こう記している。、”
「現代人が自我の中心に置いている『自分らしさ』というのは、実はある種の欠如感、承認要求なのです。
『私はこんな所にいる人間ではない』
『私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない』
『私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない』
というような、自分の正味の現実に対する身もだえするような
違和感、乖離感、充足感、それが『自分らしさ』の実体です」
(『呪いの時代』[新潮社]41ページ)
「本当の自分」がきちんと評価されていないと憤る、
その裏返しが「自分らしさ」志向だという。

だとするなら、人生の終末期に至ってまで「自分らしさ」にこだわるのは辛い話だ。好きなように生きる、ではいけないのだろうか。“

”自我の中心に置いている’自分らしさ’というのは、実はある種の欠如感、承認要求”、そして、”自分の身もだえするような違和感、乖離間、充足感、それが’自分らしさ’の実体”、という内田氏の”呪いの時代”からの引用で、色平先生は”自分らしさ”の虚構を指摘しているかといえます。つまり、患者さんを含め、多くの人が”自分らしさ”と思っていることは、本当の意味での自分を反映したものではなく、寧ろ、現実の自分と”自分は~べきである”、とか、"自分は~であるべきでなはい”といった、自我による欲求で、意識(というより、寧ろ、唯識論でいう末那識だといえる)によって作られた理想の自分との間のギャップの心理的表現だといえます。

もし、ある末期癌の患者さんが経済的余裕のある患者さんのように家族と一緒に残された時間を旅行することで”自分らしく”最後の時を生きたいと思うとします。しかし、残念ながらこの患者さんには自分が欲するように、理想を抱くように、家族と旅行する余裕はなく、せいぜい医療費を払うのがやっとだとします。もし、終末医療が、”自分らしく生きる”ことを無批判的、機械的に目指すのであれば、このような患者さんは、経済的な理由から”自分らしく生きる”ことができなくなってしまいます。経済的余裕のない患者さんも、余裕がある患者さんと同じような”自分らしさ”を抱くことがあります。自分の置かれている現状の如何にかかわらず、誰でも同じことを望み、欲し、それを”自分らしさ”というものに理想化します。しかし、欲望による理想像は同じであっても、人それぞれが違うように、患者さんも違います。性格も違えば、経済的背景も違い、症状なども違う。にも拘らず、皆、同じような”自分らしさ”を求めることは問題です。こうした”自分らしさ”の問題に疎い終末医療には問題があります。

患者さんが抱きがちな”自分らしさ”についてもう少し深く掘り下げて考えてみましょう。

病気という制約により、健康な時にはごく当たり前であったことなどが失われたことを認識している患者さんの心理には、対象喪失による悲嘆が生じます。不治の病や重病などの患者さんの喪失感とそれによる悲嘆はより一層のものです。そして、性格などにもよりますが、”自分はこんな制約的な(病院という)所にいるべきではない”、”自分はこのような制約的な取り扱いを受けるのではなく、自分の好きなときに好きなことができるはずである”、などといった"~べきである”、”~べきでない”といった類の考えを抱きがちになります。これは、制約的になり、それにより自分の健康、心身の機能、自由などが喪失されたことへの心理的反応です。"自分は~べきである”、”~べきでない”、といった、病気による健康や自由の喪失に対するこうした心理的反応は、失われた健康な状態や自由を取り戻したいという自然な願望を反映したものです。

生理学においてホメオスターシス(homeostasis)という考えがありますが、病気などにより生体の平衡が失われると、人間を含めた動物の生理学的機能は平衡を取り戻るように働きかけます。これは、陰と陽の調和を重んじる漢方医学のパラダイムにも似たところがありましょう。だから、感染症に罹った時に発熱するといったような正常な免疫反応もホメオスターシスの一環です。しかし、生体の平衡を維持し、奪回しようとする仕組みは何も生理学的機能の限ったことではなく、人間の心理学的機能についてもいえることなので、ホメオスターシスという平衡性維持の傾向は、心身両面におけるものです。だから、病気がもたらすさまざまな対象喪失により心身的平衡性のうち、心のバランスが崩された時、それを取り戻そうとする心理的作用が自然な反応(ニュートン力学にある作用、反作用の法則のようなもの)として起こるのです。それが、病気がもたらす様々な対象(健康、自由、機会など)を喪失した現実にある患者さんが抱く“自分は健康であるべきだ”、“自分は自由であるべきだ”、“自分は病院という刑務所みたいな所でチューブという鎖で繋がれた自由のない生活をすべきではない”、“自分は家族と旅行をしているべきである”、などといった“自分らしさ”に対する理想像を抱くのです。こうした理想像にある“自分らしさ”は心理的なホメオスターシス現象の一つで、それを奪回しようという心理的な作用が患者さんに働くのです。

この心身両面におけるホメオスターシス作用の科学的事実は、脳の特定の部分が生体の生理学的及び心理学的な平衡性が失われた時にいかにして反応し、ノルアドレナリン (noradrenaline)などの必要なホルモンを分泌し、また、感情と深い関係にある扁桃体(amygdala)を含む大脳辺縁帯 (limbic system) にも関与しているかという心身医学の基礎概念からもわかります。特に、不安については、γ-アミノ酪酸(GABA or Gamma  aminobutyric acid)とベンゾジアゼピン(benzodiazepine)の脳内での平衡性の崩壊という分子生物学的なホメオスターシスの視点からも考えることができます。

森田療法の観点から考えると、病気により健康や自由を失った結果のこうしたホメオスターシス的な“~であるべき”という形の理想的な“自分らしさ”を抱く心理的反応の影には、更に悪化し、死んでしまうのではないかという不安や、死に対する恐怖感というものがあります。つまり、ここでいう喪失された理想的な“自分らしさ”への願望は、森田療法でいう“生の欲望”(生命維持への本能的願望)を反映したものであると考えられます。森田療法の臨床理論では、“生の欲望”の強さと不安、特に、死に対する不安や恐怖、が強さ、は正比例的な関係にあります。つまり、“生の欲望”を反映した、健康や自由という病気によって失われた対象を取り戻したいという願望の現われである“自分らしさ”の影には、それ相応の, 喪失がもたらす最悪の事象、つまり、死、に対する不安と恐怖が同時進行形で存在していると考えられます。別に不治の病でなくても、死を意識することもありますが、その理由はこうした森田療法の考えから理解できます。勿論、終末医療の患者さんが持つ死の意識はより確かなものです。だから、それだけに、終末医療の患者さんは“自分らしさ”にこだわりかねないとも考えられます。

自分らしく生きる“ことを望むのは、森田療法でいう“生の欲望”の表れですが、“生の欲望”は必ず“死への恐怖”と対になっているものなので、森田療法の考えでは、“生の欲望”、あるいは、それが関連する要素、例えば、“自分らしく生きる”願望、にこだわり、それに執着してしまうと、それだけ“死への恐怖”も顕著なものとなるということを認識せねばなりません。

終末医療において、もし、患者さんの“生の欲望”とその派生である、自分らしく生きたい“という心情に適切な対応ができなければ、その患者さんの”死への恐怖“もより強くなり、患者さんの不安が増大してゆきます。このような心理状態で人生の最後の時間を過ごさねばならないようであれば、それは患者さんと、見守る家族にとって、非常に辛いものとなってしまいます。こうした心理状態も、色平先生が言う、” 人生の終末期に至ってまで「自分らしさ」にこだわるのは辛い話だ“という主張と関与しているかと思われます。

キルケゴールの”死に至る病”という本を読んだ方は、“自分らしさ”を追い求めるだけに、死を必要以上に意識し、それに捉われた不安や恐怖が悪化したら絶望に陥ってしまうというこの問題を実存哲学の側面からもご理解できるでしょう。

キルケゴールは死に至る過程での絶望について次のような3種類のパターンを示しています。“Despair is a Sickness in the Spirit, in the Self, and So It May Assume a Triple Form: in Despair at Not Being Conscious of Having a Self (Despair Improperly so Called); in Despair at Not Willing to Be Oneself; in Despair at Willing to Be Oneself “(Søren  Kierkegaard, “Sickness Unto Death  “, Radford,VA:Wilder Publications, 2008, p.9). つまり、1)絶望して自己を意識していない、2)絶望して自己であること、つまり、“自分らしく”あること、を望まない、3)絶望しても自己であること、つまり、“自分らしく”あること、を望む、という3つのパターンです。

色平先生による終末医療における“自分らしさ”へのこだわりの問題指摘は、キルケゴールがいう第3の絶望パターンに相応するといえましょう。この絶望パターンに対し、キルケゴールは、森田療法の理論と似たように、自分で自分の絶望を意識していると思い込み、こうした思い込みから自分の絶望に対し反応行動をとるが、自分では絶望を取り除こうと努力しているのに、実際は、更に奥深く絶望の中に引きずりこまれていってしまうと述べています。勿論、人間誰も、絶望にのめりこむことなんぞ望んではいません。しかし、“自分らしさ”への執着に絡んだ人生の終末期における絶望にはこのような皮肉な危険が孕んでいることがあるのです。

死に関する不安や恐怖がこのような絶望へと変遷しないようにする為にも、”自分は~べきではない”、”自分は~べきである”、といった形式の“生の欲望”からくる”自分らしさ”という思い込み、妄想に振り回されないようにすることが大切です。死に至る過程、そして、死そのものを看取る終末医療において、”自分らしさ”にこだわり、執着し、それによる思い込みによる束縛で、自分は生きていたいという自然な欲望の影にある死への恐怖が絶望へと変化しないようにすることがとても大切です。

色平先生による、”自分らしさ“へのこだわりに対する批判は、”自分らしさ“への欲望が故に、絶望が絶望を呼び、絶望の更に奥深くまで引きずりこまれるという、キルケゴールによる森田療法的な観点からも、その問題が理解できす。

”自分らしさ“という概念が思い込みとなり、それに執着してしまえば、なぜ前述のように絶望にはまりこんでしまうのでしょうか? この問いに答えるには、やはり、自分の思い込みの弊害について、そして、それは、自分で自分の首を縛り付けているようなものでしかない、ということを理解する必要があります。

この問題について、色平先生は、内田樹氏の“呪いの時代”からの引用を用いて、不安定な自我や欲求不満などの心理的反応として、自分の頭で作り上げた非現実的な理想像と現実との乖離“呪い”から自分を解放するように、終末医療において、“自分らしさ”という、自分の頭で思い込みがちの束縛からの解放を提言していると考えられます。せめて、最後の最後の密度の濃い時間だけであっても、“自分らしさ”という心理的なとらわれ(~あるべきだ、という認知行動療法や森田療法で指摘する心の問題、あるいは、仏教の教えにある煩悩による理想像へのとらわれ、執着)がなく、自分が好き好むようにあるがままに生きることができるほうがいい、と論じていると思います。

内田氏が言う“呪い”とは、欲求不満や嫉妬(これも欲求不満の一つ)による執着による心理的な弊害のことです。また、これを認知行動療法における基本臨床理論で考えるならば、”呪い”とは自分の意識が作り上げた自分への呪縛であり、色平先生の記事から考えれば、“自分らしさ”へのこだわりもこのような呪縛になりかねないということです。そのような呪縛にあれば、患者さんは、それこそキルケゴールが言うような、死に対する恐怖が絶望と化した状態となり、絶望に対抗しようと努力すればするほど、どんどん絶望の奥底へと引き込まれてしまうわけです。こうした現象は、まさに、自分を苦痛から解放しようと努力すればするほど、自分の首を更に締め付けているといったようなものです。
これは仏教において煩悩による自分の心による執着がこの世で生きている上での自分の苦しみを作り出しているという、四諦の教えの一つである集諦の真理を突いていると考えられます。そして、色平先生も、“自分らしさ”に執着する恐れのある終末医療において、こうした執着という“呪縛”がない、患者さんが本当の意味で、“自分らしく”、あるがままに生きていることができることを良しとされているのだと考えられます。

勿論、ここでいう“好きなように生きる”ということは、“自分勝手に生きる”、自分の欲望のままに節操なしに生きる、ということを混同してはいけなりません。私が思うには、色平先生が考えている“終末医療における、”好きなように生きる”、という考えは、寧ろ、森田療法でいう束縛のない素直な“生の欲望”という概念に近いものだということです。

孔子の論語、為政第二、に“七十にして、心の欲するところに従って矩を超えず”(七十而從心所欲、不踰矩)というのがありますが、色平先生が薦める“好きなように生きる”ということは、こうした論語の言葉で孔子が意図している知恵に相当するものではないでしょうか?

終末医療において、すべての患者さんが高齢者ではありません。中には、まだ七十歳から程遠い若い患者さんも結構おられます。しかし、この孔子の教えは必ずしも、“七十歳”とかいった具体的な生物学的な年齢を意味しているわけではありません。ただ、それ相応に豊富な人生経験がある、だからこそ、自分の心の欲するところに素直に生きていることができるのだと教えているのです。

人生の終末において、“自分らしく”よりも、“好きなように生きる”という色平先生の提言を、孔子の“七十にして、心の欲するところに従って矩を超えず”という言葉を拡大解釈して考える上で、私が前回のブログで指摘したように、終末医療における“Narrative Medicineの重要性を改めて感じます。というのは、Narrative Medicineは、GreenhalghHurwitz が論ずるように、患者さんと臨床家の対話による患者さんの人生物語を重視するもので、患者さんの年齢が実際に70歳であろうが、3歳であろうが、患者さんが今までにどのように生きてきたのかという記録的な物語を通しての患者さんの”自分らしさ“があぶり出せれば、ただそれにそって素直に生きられるようにすればいいのです。そうしたあるがままの”自分らしさ“を” 七十にして、心の欲するところに従って矩を超えず“というパターンで表現できれば、終末医療は患者さんが”好きなように生きる“ことができる場となるはずです。

患者さんにとって、このように、“Narrative Medicine”や森田療法の原理を応用しながら、”自分らしさ“にこだわらず、ただあるがままに“好きなように生きる”ことができるお手伝いをするのが、私が考えるサイコオンコロジーであり臨床パストラルケアです

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