Wednesday, July 3, 2013

患者さんの"自分らしさ”を維持できる医療とは? ”Narrative Medicine"の観点から考える


6月28日付けの日経メディカルブログ:色平哲郎先生の“医のふるさと”に“終末患者‘自分らしさ’とは?”というのがあり、終末医療における心と魂のけあ、心理とスピリチュアルな側面からの終末医療にも関わってきた経験から興味深く読ませていただきました。

色平先生は、終末医療が患者さんにとって“自分らしさ”を維持できるようであるべきだと主張しておられます。私も同感です。また、患者さんの“自分らしさ”ということは、何も、終末医療に限ったことではなく、妊婦のケア、新生児のケアから老年医学までのライフサイクルのすべてに関わる医療全域において目指すべきことだと思います。
さて、終末医療のおける患者さんの“自分らしさ”について、色平先生の記事から拾いながら少し考えてみたいと思います。

"
余命宣告を受け、いずれお迎えがくると分かっている状況下で、彼や彼女はどのように「自分らしく」生を全うしたい、と願うのだろう?"

まず、余命宣告を受け、自分の死が迫り来ることを認識している中で、患者さんがどのようにして残された非常に限られた時間を自分らしく生き抜こうとしているのか?ということについてですが、これは、やはり、患者さんとの対話でしかわかりません。臨床家があれこれと思索、推定しても、実際、患者さんとの確認がないと意味がありません。臨床家の思い込みによる医療は、かえって患者さんに苦痛を与えることがあります。そうであれば、ヒポクラテスの誓いにも反します。

患者さんとの対話、それは、患者さんと医療の臨床家との人間関係の基本であり、その人間関係が、患者さんにとって、医療ケアを受けながら“自分らしく”生きられることの必要条件であります。そして、こうした、患者さんと臨床家との対話を重視する医療は“Narrative Medicine”として知られています。よって、色平先生の患者さんの”自分らしさ“を確かなものとする終末医療のあり方についての考えは、”Narrative Medicine”の観点から検証できます。

そこで、“Narrative Medicine”について、それが意図する全人的医療というコンテクストで考えてみましょう。

医療というのはただ機械的に疾患を取り除く治療をするのではなく、全人的に患者さんを癒すことを目指すものです。特に、患者さんの病気を治すことだけでなく、患者さんが、闘病生活にあっても、自分らしくいられるように支援することで癒しが可能になります。

いくら科学的医療が発展し、それまでは不治の病といわれていたものが治療、あるいは、完治できるようになってきたとはいえ、やはり、いつの時代にも思い通りに治せない病があります。このような疾患は、不治の病として患者さんを容赦なく死に至らしめるか、例えそれ自体の症状は改善されても、障害となる恒久的な後遺症などを引き起こすこともあります。こうした現状において、治すことばかりに重点を置いた医療では、思い通りに治癒できない疾患や障害と向き合いながら生かざるを得ない患者さんへのケアが充分でなかったり、患者さんの要望に背く羽目になることもあります。このようなことをも踏まえ、これからの医療は治療を超越した癒しを目的とする医療でなければありません。

デカルトによる心と体の二元論に影響された西洋の医学を幕末以来貪欲に取り入れてきた日本の医療は、今、分岐点に来ています。日本の医学、医療の西洋化(西洋かぶれ?)により、本来心と体を一括していた東洋医学の一環としての日本の医療も、心と体の分断、更に、体の部分についての細分化(専門化)が進み、まさに、“木を見て森を見ず”の状態に陥ったといえるのではないでしょうか?より高度なトレーニング、研修を積んだ優秀な専門医は、自分の領域における“木”に関しては知らないことはないですが、それが他の領域の木々とどのような関係にあり、影響しあって(Newtonの万有引力の法則にあるように各々の物体(木々)は、F=GM1M2/rr という数学的な関係で影響しあっているということ)、”森“を形成し、”森“全体の健康状態については結構知らないことがあるようです。もちろん、”木“とは、専門医の領域における症状で、”森“とは心と体を一体化して考える状態のことです。

癒しは全人的なレベルにて初めて癒しといえるので、いくら、それぞれの専門医の立場から各々の領域の“木々”の病気を完治できても、”森“全体が健康でなければ、癒しの医療にはなりません。ここでいう、健康とは、WHOの定義、”Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity“、にあるように、単に、疾患がないという状態ではなく、心と体の総括的な人間としての患者さんが、生理学的に良好な状態にあるだけでなく、精神的にも良好な状態であり、そして、患者さんが存在する社会的環境との関わりも良好であってこそ、初めて健康であると、既に昭和21年に定義しているのです。そして、近年になって、この従来の定義に、”spiritual wellbeing”、つまり、スピリチュアルな面からも良好な状態であることを付け加える動きが高まっています。よって、健康という全人的医療が目指すものそのものが、”森“のような統括的なものであることがわかります。

ところが、“木々”だけしか見ることができないような専門分業化された医療は、いくら高度な技術があっても、癒しを提供することが困難なのです。

機械的に癌を手術、化学療法、放射線療法などにより完治したとしても、それだけでは患者さんを必ずしも癒したということはできません。なぜならば、それだけでは、患者さんが癌を完治する為に必要だった手術などの治療がもたらした疲労、不安、免疫力の変化、そして、スピリチュアルな要素も関与する人生観の変化、などに対応していないからです。

癒しを重視する医療は、必然的に全人的なアプローチをとります。そこには、当然、優れた医療科学技術と真心のあるヒューマニズムがあり、心と体、そして、霊的、スピリチュアルな側面をも包括的に扱う統合性のある医療を提供できます。このようなヒューマニズムのある全人的な医療を展開する上で、私のノースウエスタン大学記念病院での同僚のJoshua Hauser博士や彼の友人である、ハーバード大のRaphael Ocampo博士は、患者さんとその家族などを統括的にケアする上で、患者さんの詩や歌などを積極的に取り入れた全人的な医療をすすめ、その成果を上げています。また、こうした全人的医療の試みは“Narrative Medicine”という形で1990年代の初めよりコロンビア大のRita Charon博士などの研究によりアメリカで広まり、1999年のBritish Medical Journal (第318巻、48号)には”Why study narrative?”というTrisha GreenhalghBrian Hurwitzによる論文が掲載され、医療における臨床家は、患者さんの病理だけでなく、社会や家族関係などの対象関係の中に生きる一人の人間としての患者さんの人柄や人生暦を物語るnarrativeを通して患者さんを全人的に把握できることがもっとも大切かつ効果的な医療であると結論付けています。それが、“Narrative Medicine” を学び実践する意義なのです。

Narrative Medicine”という概念は実は日本の医療界においても、もうすでに10年以上取り扱われています。久留米の聖マリア大学看護学教授の安藤道代博士はnarrative”を緩和療法や悲嘆ケアに応用することの効果についての研究成果を報告しており、2000年10月23日号の週刊医学界新聞詳細(第2409号)において、日本のユング分析心理学の草分け、故河合隼雄氏と富山医科薬科大学(内科学)の斎藤清二氏がGreenhalghHurwitzによる” Narrative Based MedicineDialogue and discourse in clinical practice“(1998)という本について医療における対話と物語の意義について対談されています。この対談において、対話により患者さんの物語を誘導することで、それまで患者さんの症状に関して”バラバラ“、支離滅裂のようであったことに関係性が見出せ、より正確な診断につながるという利点や、対話による物語の共有を通し、臨床家はよりよく患者さんに共感でき、患者さんと臨床家との人間関係の質が高まる、などといった利益が指摘されています。

色平先生の記事に、

「病名」が先にくる「患者さん」としてではなく、世界でたった1人の「その人らしく」最後まで生き抜いてもらうために、寄り添い、生活を支えることが大切なのだなと常々感じるのだ。

人生の終盤の状況だけでは見えてこない、その人の歩んできた道のりや、人生の起伏も分かった上で、お世話ができれば一番良いのだ。

こういった考え方は、一人ひとりの患者さんときちんと向き合う、という意味では決して間違っていないと思う。

とあります。

”人生の終盤の状況だけでは見えてこない、その人の歩んできた道のりや、人生の起伏も分かった上で、お世話ができれば一番よいのだ“、という色平先生の考えは、GreenhalghHurwitzによる、医療における臨床家は患者さんとの対話を通して、患者さんの人生の物語りを共有させていただき、こうした患者さんの人生についての総合的なコンテクストで改めて症状とか病歴などについて考えるという、”Narrative Medicine”の考えを反映したものです。それでもってこそ、色平先生がいう、“一人ひとりの患者さんときちんと向き合う”という医療サービスが提供できるのです。

こうしたことからも、患者さんが自分らしく生きられることを重視する全人的医療を実践する上で、“Narrative Medicine”、つまり、医療のおける対話と物語は重要な要素だといえます。

このような全人的、統括的な癒しを重視する医療では、患者さんの疾患が思いどおりに治癒できることの如何に関わらず、たとえ、それが死に至らしめる病であっても、患者さんを一人の人間として尊重し、その人間性を最大限に活かし、患者さんがいつでも自分らしく生きていられることを可能にします。そして、それは、安藤博士も指摘するように、患者さんが自分らしい尊厳ある死を迎えられるようにすることもできます。

つまり、癒しとは、たとえ、病気が死に至らしめる不治のものであっても、一人の人間として患者さんを尊重し、患者さんがいつも自分らしくいられるということです。そして、治療とは、癒しという目的に必用な条件であっても、十分な条件ではないということです。また、治療は癒しにとって、必要条件であるとはいえ、思い通りに治癒できなくても、癒しは可能であるということも、理解しておかねばなりません。このことは、心と体の一体性の心身医学、臨床心理(特にViktor FranklによるLogo Therapyや認知行動療法の要素がある森田療法、臨床パストラルケアなどの観点から考えればわかります。

疾患が重症となれば、その治療も相当なものとなり、それだけ、心と体への負担も増えます。つまり、治すとはいえ、患者さんにとって、かなりの量の心身的な苦痛となります。これは、非常にきつい手術、化学療法、そして、放射線療法などで難治癌を克服、治癒したとしても、その患者さんの心身は疲弊し、しかも、心理免疫学の立場からみても、こうした患者さんは免疫力が弱っているため、ほかの病気などにかかりやすいというリスクもあります。治癒だけの医療では、こういった、治療後の心配にはあまり関心が向けられないかも知れませんが、癒しを目的とする全人的医療では、治療後、治癒後も続く癒しの過程をうまくフォローアップすることができ、患者さんの全人的回復、つまり、癒しが実現できるわけです。

病気の治癒を超えた、患者さんの全人的な回復、こそが癒しであり、患者さんが自分らしくいられることを確かなものにする医療なのであります。

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