Monday, November 10, 2014

楠正成の遺訓が教える個人主義と和の精神の盲点



“七生報国”で有名な楠正成の遺戒には、“みだりに他人に盲従してはならない”という言葉がある。

ある意味では、この遺訓が謂わんとしているのは、それが絶対に正しいならば、何が何でも、例え、自分の命をが犠牲になろうとも、自分の信念を貫け、という武士道的な精神ではなかろうか。いや、自分の信念というよりも、寧ろ、自分の実存的な意義、つまり、自分がこの世に生まれ、今生きていいる意義、理由の為に、一生懸命、生き抜くことでもある。そして、こうした意義の中に、自分のアイデンティティーと密接に係わる自分の信念があり、また、自分が愛する神、人や国などへの契り、約束、そして、その実践などがある。自分の信念とはいえぞ、それは、自分の人生の目的はただ自分の為に生きているのではなく、寧ろ、愛する神、人や国の為に生きているのであるという理解と信条である。
他人への盲従を戒めるというと、一見、集団行動に対する一種の批判と思う人もいるであろう。

確かに、個人主義的な感じを与えないわけでもないが、はっきり言って、個人主義、つまり、自分の都合勝手さを正当化するような戒訓ではない。そもそも、自分の信念といえぞ、その信念が自分の実存的価値を自己ではなく、自分と愛するものの対象、例えば、神、人、国などとの対象関係に見出すのであれば、楠木正成のこの遺訓は個人主義を肯定するものではないことがわかる。

楠正成

一般論的にみて、日本人の心理の特徴は日本人の集団行動性にあると指摘したのは、昭和30年代前半の南博である。丁度、戦後の高度成長期への登り坂を駆け上っている最中であり、いわゆる集団就職などで有名な団塊の世代が台頭してくる前夜期でもある。
実は、南博の日本人集団行動性論が戦後唱えられる遥か以前、既に8世紀の奈良時代に聖徳太子がその十七条憲法を通して、日本人の徳は和の精神を重んずるところにあると示し、当時形成されてまだ新しい律令国家としての日本を和の精神でもって治めることを善しとした。つまり、日本人の集団行動性の根本的要素には和の精神があると考えられる。それ故、和の精神でもって日本の土着宗教から体系化された神道を解釈しなおし、天皇を中心とした国体思想も生まれた。こうした国体思想では、天皇を親とする大家族的な国家、つまり、国という家族というイメージもある。

しかし、一方、和の精神を振りかざし、明治維新以降、それを更に帝国主義を正当化させる手段としたり、昭和12年に勃発した日中戦争あたりに台頭し始めた国粋主義といった過激な政治思想にまで変遷させられてしまった苦い歴史もある。皮肉なことに、国粋主義という形の国体主義は、国体破壊の寸前にまで至らしめたことを忘れてはならない。日本をこのような荒廃にまでもたらしめた背景には、当時、天皇陛下の名を悪用し和の精神や国体思想を国粋主義という間違った方向へ突き進ませていた軍政権力に対しての臆病さ故、自分の身への危険を恐れ、権力という強力な他人の集団に盲従してしまったことがある。

また、日本には古来から村意識があり、村八分という習慣もあった。これは、集団の和という名目で“出る釘”を打つのではなく、寧ろ、それを摘み捨てるようなものであり、排他的な集団行動性である。国粋主義た台頭していた頃の村八分は、“非国民”のレッテルをはり、徹底的につまみ出す弾圧であった。

よって、みだりに他人に盲従してなならぬという警訓は、日本の和の精神を、弾圧的な国粋主義や排他的な村意識へと悪用させてなはらないという意味をも含蓄しているのではないだろうか。

つまり、楠正成のこの遺訓は、“鶏口となるも牛後となるなかれ”、という中国の故事につながるものがある。

自分の信念を、例えそれが自分を孤立させようとも、例え、一匹狼となっても、最後までその信念を貫き通す為に、命を張ってでも戦い抜くということである。更に、たとえそのことにより“和の精神”や調和への挑戦であるとみなされ、多数派から弾圧されようとも、正しい自分の信念を命を張って貫くことである。例え、信念により自分が死を選ばらざるを得なくても、七度生まれてまでも、その信念の為に戦い抜くということである。

日本には“長いものに巻かれろ”という言葉があるが、これはフィリピンのタガログ語にあるpakikisamaという、馴れ合い主義に似ている。こうした長いもの、つまり、多数派、既成の政治的経済的勢力といった強力な者が人間としての良識に反することに勇敢に対抗せず、自分の身への危険、あるいは、形だけの“和の精神”や調和に風波を立てることを恐れるがゆえ、臆病となることことでもある。これこそ、恥とすべき、臆病であり、個人主義そのものではないか。つまり、自己防衛、自己保存の為に、自分の良識にそった信念を押し殺し、“和の精神”や集団的調和を悪用する多数派勢力に呑まれていく、本当の意味での自己喪失という恐ろしい精神病理でもある。

本来の日本の和の精神や国体思想を穢そうとする者たちは、こうした日本の集団行動性にある美徳を自分達の政治的、財政的欲望追求の為に悪用し、しっかりとした批判的思考検証能力に欠けたり、勇気が欠如している者、また、幼年期からの愛着関係の発達問題による情緒的不安定でアイデンティティーがあやふやな者などを扇動し、日本人特有の集団行動性を集団悪の行動心理的原動力としてしまう危険をはらんでいる。

私たち良識ある日本人は、この盲点をしっかりと認識しつつ、和の精神や国体思想に特徴付けられる日本人の集団行動性の良さを守り抜くという使命を信念とし、それを命を張ってでも貫くことの大切さを改めて確認する上でも、この楠正成の“みだりに他人に盲従してはならない”という遺訓を警訓、遺戒とすべきではなかろうか。この遺訓は、個人主義の問題と、和の精神の悪用されがちな盲点への警訓でもあるといえよう。

私達は、自分が命を張ってでも貫き通し、守り通す信念を持っているか、そして、それが何であるか、常に問い正し続けねばならない。そして、その信念には、愛する神、人、国といったものがあり、こうした信念を共有できる対人関係、共同体、国、を世界のどの国の文化よりもより良く特徴付けるのが、日本古来の和の精神であり、国体思想である。また、他人に盲従することなく自分が信じる神への信仰、信念を命を賭けてでも守り通すのは、殉教の勇気ある精神でもあり、それは、ある意味では、死すことにその本質を見出す葉隠にある武士道精神の骨頂との共通項でもある。こうした形で、七生報国の精神で神への信仰を守り通すことで、神の国の国体とその和が維持され続けるのでもある。

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