Monday, August 7, 2017

無常と恒常の共存と友情:方程式でもって無常と恒常共存のパラドックスを解決! ベン図を用いて視覚的に理解!

ある同級生からこう言われました。。。”仲田くんって、今でも変わってないところがあるのね”。彼女が具体的に私のどういったことが学生時代から変わってないかということについてはこの場では割愛させていただきますが、そう言われた時、学生時代を思い出し、にたにたしながら暫く考えてしまいました。で、いったい何を考えていたかというと、ある哲学的パラドックスなんです。それは何かというと、無常と恒常という正反対で一見お互い相容れられないと考えられている事象についてです。しかし、高校卒業後早くも30年以上経ち、お互い容貌などにおいては否めない変化があるにもかかわらず、この同級生から、私の今でも変わっていないところをビシっと指摘されると、思わず、無常と恒常ということについて考えてしまったのです。

私自身の見た目以上に、彼女の肉眼には高校時代の私にくらべ加齢などによる変貌した、”仲田くんって(学生時代はとても’イケメン’でかっこよかったのに?)あんな’おっさん’になってしまったんだ”、と言ってもおかしくない今の私の姿が映っていたでしょうが、彼女の心の眼から見れば、現在の私と30年以上も前の学生時代の私の間には何か肉眼では見えない共通のもの、つまり、時間の経過などに伴う変化に影響されない恒常なものが認識できたと考えられます。さすが、才色兼備のこの同級生、今でも見る眼があります。学生時代から彼女には普通目に見えない何かを洞察できる能力がある。それ故、肉眼で見える、というか、五感で認識できる世界では諸行無常であっても、心の眼でもって同じ諸行無常の現実を違う観点から見ることで無常の現実に潜んでいる恒常性を認識できるのです。

つまり、五感だけに頼らず、心の眼で洞察することで、五感の世界では諸行無常の現実に恒常性のある何かを認識することができるのです。こうしたテーマについて詳しく知りたいのであれば、私自身が長い年月の学生生活をかけてやったように、まず生物学で神経と感覚について、そして、心理学で認知、認識、のメカニズムについて学び、更に、哲学や神学、宗教学、などを学ぶことでこうしたことについてより抽象化して、形而上学的に考察してみるといいでしょう。

しかし、そのような面倒なことをせず、実は、恒常性が無常性の中に見出せるという真実は、中学一年の数学で習い始める関数のモデルを比喩として説明できます。関数というのは最低二つの変化のある事象の相関性を数学的に示すものです。更に、複数の事象が相互に変化していくことに途切れがない連続性がなければ関数としてこれらの相関性を議論できませんので、まさに常に変化し続ける無常事象の比喩にピッタリです。ここでは便宜上、相互に変化しあう事象の数を二つと限定し、それらをXYとします。そして、これらの変化する二つの事象の関係をY=FX)とします。そして、FX)、つまり、Yは、aXn 乗、そしてその次の項が  bX  の(n-1)乗、更にその次の項が  cX の(n-2  )乗というようにn=0となるまで多くの項が順次次数を下げながら連なっていきます。そして、Xを含んだ項の後に特定の実数が付き、これをDとすればD>0、または、D=0となります。グラフにすれば、DX=0の時のY軸との接点におけるYの値に等しいものです。こうした二つの常に変化する事象をXYという変数で示すとこれらの関係をしめす方程式の項にa, b, c, 実数で示す定数があります。これらは、XYの変化を帰納的に検証すれば方程式があぶりだされる際に必然的にはじき出されます。実は、XYという変数に対するa, b, c といった各項にある定数というのが、変数で示される無常の現実の中にある恒常性なのです。
 
FX)=Y =aXn 乗+bX  の(n-1)乗 +  cX の(n-2  )乗+。。。。。。+XDという高次多項式で表記される関数が示すようにXYという常に連続性をもって相互に変化していく諸行無常の現実の中においても、数学的帰納法のような洞察力を有する心の眼で改めて検証すれば、各項にある定数のような恒常性を見出すことができるのです。そして、この方程式で変数と定数は切っても切れない縁にあるように、無常と恒常とは別々の完全に独立した事象であるとは必ずしも限らず、一つの方程式のように共存することもあるのです。

無常と恒常が同時に共存することができるという真実を見いだすことができない人は、哲学的にいえば、dualism(二元論)というeither orといった二つに一つしかない、これら二つが同時に共存することはない、としか考えられない、ちょっと頭が固い考え方に縛られていつとも考えられます。しかし、脳みそをちょっとほぐしてみるとeither orから  both andという見方をすることができるようになります。このことは小学校の算数で既に習い始めているベン図をつかった二つの事象の包含関係を視覚化すれば、小学生にでもこうした無常と恒常という二つの違う事象が、(無常)(恒常)というようなパターンよりも、寧ろ、(無常)  >(恒常)という包含関係があると考えられるので恒常を示すベン図の円が無常を示すベン図の円の中に含まれるように描くことができます。つまり、恒常性というのは無常性の中によって洞察力を使うことで見出すことがきるということです。しかし、キリスト教的に考えると、寧ろ、(無常)(恒常)のほうが適切だといえます。なぜならば、神が創造したすべては諸行無常の法則の下にあり、創造主である神は唯一の恒常性をもつ存在であるにもかかわらず、ヨハネの福音書1:1と14で示されているように、ロゴスの形でもある普遍的恒常性の神がイエスという人間の体でもってこの諸行無常の世界に出現し、人間と交わることで、無常と恒常の交わり、つまり、(無常)(恒常)ができたということになります。もし、dualism的に恒常と無常を完全に切り離してしまえば、神は存在していても、人間を含めた自分の創造物を放ったらかしにしているという事になってしまいます。このような考え方はヨハネの福音書にあるようなキリスト教の考えには沿うものではありません、というか、そのような考えにおいてはイエスという神であり父なる神の御子であるイエスのchristologicalな意義がなくなってしまいます。

キリストを信じ、その意義が理解できる人は、(無常)(恒常)。そして、キリストについてよくわからない人でもdualismという考え方に染まっていなければ(無常)  >(恒常)というパターンで無常と恒常の一見、対の関係にある二つの事象が同時に共存する真実をベン図によって視覚的にも把握できます。そして、どちらにせよ、諸行無常の世界に存在する人間がその中に見出せる恒常性を見出すには、XYで表される二つの同時に変化しあう変数を帰納的(数学的帰納法)に洞察、検証することで、無常性の中に潜んでいる恒常性を、二つの変数の変化を帰納的に検証することで定数を見出し方程式を導き出すという関数の醍醐味につなげて理解できるのです。

先述の同級生から見て、私がこのように、関数やベン図の概念と結びつけて無常と恒常の同時共存を説明することは、学生時代からこのように、興味のある人にとってはとても興味深い話(興味のない人にとってはわけがまったくわからない話)で物事を説明する癖がある事実とまったく変わっていないと認識されるでしょう。ということは、意識していない時ほど他人から認識されるような一生治らない自分の癖というのも、無常の中に見出される普遍的恒常性なのかもしれません。

私からみれば、一緒に過ごした懐かしい学生時代から30年以上経って今では変わってしまった彼女の容貌の中に秘められた今でも変わっていない彼女の恒常性を見出すことができます。その一つが、今の変貌した私の姿の中に潜む学生時代から変わっていない私の恒常性を見出すという洞察力なのです。彼女も私も、学生時代以来30年以上ものあいだお互い違う道を歩みながらいろいろと変貌してきましたが、こうしたお互いの洞察力にも特徴付けられる友情というベン図の交わりのような恒常性を共有し、それで結ばれているのです。

それにしても、数学って、とてもおもしろいものですね。というのは、このような、同級生との懐かしい感情を分かち合う体験を比喩的に表現する道具にもなるのですから。。別に数学を毎日使いながら給料もらっている人でなくても、ただ点数とって進級、卒業したり、入試に合格してから、もう終わり、とするにはもったいないです。ちなみに私が学生時代、数学、嫌いではありませんでしたが、このように考えて数学を勉強した覚えはありません。ということは、こうした私の考えは、加齢とともに起った変化の産物なのでしょう。数学は嫌いではなく寧ろ好きな科目だったので、いまでもこうして、専門でもない数学と楽しみながら付き合う自分というのは、加齢などによる変化の中に見出される恒常性であり、その楽しみ方になにか学生時代にはなかった新しいものがあるということ私の数学に対する好意的な対象関係という恒常性と今共存する無常性の一つだと考えていいかと思います。

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数学的比喩による無常と恒常の共存性についての私のまわりくどい比喩的説明のまとめ:

無常性。。X,Yで表される変数

恒常性。。これらの変数の相関性を示す関数の方程式にみられる定数


これらの包含関係は、イエスという聖書にでてくる人間が神でもあるキリストであること、つまり、christologicalな理解のある人にとって、、(無常)(恒常)、そして、そうでない人にとって、(無常)  >(恒常)。但し、どちらにせよ、dualismによる弊害を受けていない思考法をもっていることが前提です。

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