Friday, September 8, 2017

糧としての“贈る言葉”:”いきいきと生きよ” ~Goethe, St. Irenaeus, St. Augustinus et alに学ぶ




私のフェイスブックにドイツ語についての書き込みをしたら、それを読んだ高校時代の後輩が、ドイツ語といえば。。。と、手塚富雄先生のいきいきと生きよ~ゲーテに学ぶという名著について思い起こさせてくれました。確かにゲーテはいきいきと生きよSo lang man lebt, sei man lebendig)という言葉を残しており、とてもいい心の糧となるものです。この有名な言葉の原典は出版された”Faust” には書かれていない"Der Maskenzug"からの次のスタンザです

Gequält war' er [Faust] sein Leben lang,
Da fand er mich auf seinem Gang,
Ich macht' ihm deutlich, daß das Leben
Zum Leben eigentlich gegeben.
Nicht soll in Grillen-Phantasien
Und Spintisiererei entfliehen.
So lang man lebt, sei man lebendig.

長い苦難の道を歩んできたファウストはある出逢いを通して苦悶から解放され自由に溌剌と生きることができるようになったというのが大まかな意味です

このスタンザ最後の文章,So lang man lebt, sei man lebendig を生きてる限り気合を入れて生きよ” っていうか” 生きてる限り(so lang man lebt),いきいきと生きよ (sei man lebendig)” と受け止めるのです。要は. “lebendig” の訳し方であってただ生きているというよりもいきいきと生きている” と訳すほうが適切であるといえます。
心の糧となる言葉というとキリスト教的に聖書にそって考えると、信者にとってのあらゆる意味での糧となる智慧とも考えられる〔神の〕言葉(logos, λόγος)は神(theos, θεόςそのものであり(ヨハネ1:1)、そして、このlogosという言葉でもあり智慧でもある神そのものが肉体(sarx, σάρξ となりました(ヨハネ1:14)。三位一体の考えからも分るように言葉である神、神である言葉、は聖霊でもあるので、ここに日本人にとって親しみある言霊の考えを照らし合わせることもできます。言葉(logos, (theos) 、聖霊  (pneuma hagion)、はここで本質的に同一化されます。そして、神の言葉と本質的に同じ聖霊が穢れなきマリアの子宮に作用して、受胎させ、これによってヨハネ1:14にあるように神の言葉が肉体となるという現象が、人間の体をもったイエスキリストが降臨すること(マタイ1:18-23)によって実現しました。これがクリスマスです。更に、神 の言葉が人間の肉体となったイエスは後に、私の体は命のパンである(ヨハネ6:35、48)。更にイエスは、自分は生きているパンと断言し、永遠の命を与 える糧としての命の生きているパンと自分の肉体とを掛詞のようにして同一化(ヨハネ6:51)しました。ここにカトリックのとても大切な聖体の秘蹟の真髄 があります。これはヘブライ語でパンを意味するlechem(לָ֫חֶם) という言葉はそれに相応するアラビア語、lahm(لحم), では肉体という意味となりこうしてヘブライ語とアラビア語を並べることでパンと肉体とが命の糧としてつながることが分ります。イエスのヨハネ6:51にあるパンと肉体との掛詞的表現にはこうしたヘブライ語とアラビア語の言葉の弁証論的な統合があるのかも知れません因みに、lechemというヘブライ語は聖地エルサレムに近い、Bethlehem, ベツレヘム、というキリストの生誕、降臨地、の語源的背景にもあり、ベツレヘムはパンの都市という意味があり、生きている命としてのパンとなるべくキリストが生まれるには相応しいところであるといえますね。

ちょっと話がそれましたが、要は糧という概念に言葉とパンを並列できるということで、心の糧となるゲーテの言葉といえば先述の So lang man lebt, sei man lebendigのほか、パンそのものに触れたパン(das Brot)そのものについて、”Wilhelm Meisters Lehrjahre"という作品にこのような表現があります

Wer nie sein Brot mit Tränen aß,
Wer nie die kummervollen Nächte
Auf seinem Bette weinend saß,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Mächte.

涙とともにパンを食べたことのないも
悲しみにみちた幾夜
ベッドで泣きあかしたことのないも
そうしたものには 天上の霊的な力がわからない

ここでは肉体的命の糧としてのパンと霊的な命の糧ともいえる霊的な力のつながりが感じ取れます。そして、これらを弁証論的に結びつけるもの、媒体、が言葉という心の糧です

これら二つのGoetheのスタンザに共通することは人生の苦難から逃げずに一生懸命に生きていくことの意義について語っているということです

海援隊の歌に武田鉄矢作詞の贈る言葉とい歌がありますが、この歌詞の一節に、人には悲しみが多いほど、人には優しくできるのだからというのがあります。このゲーテの涙を流しながら食べたパンについてのスタンザとこの贈る言葉の歌詞の一節を掛言葉的に並列させてみると、これらの言葉を糧とする際の味わいがより濃いものとなりますね

この後輩のおかげで、私はこのように改めてゲーテについて学生時代にドイツ語をかじったことを懐かしくおもいつつ、ゲーテについての本をいくつか紐解き、温故知新に浸っておりますと、神学を学んでいた時に覚えた2世紀に生きたリヨンの殉教した司教エイレナイオス (St. Irenaeus) が残した ”Gloria Dei est vivens homo、という言葉を思い出しました。心の糧となる、Gloria Dei est vivens homo、という神学的な言葉。。。あえて訳すならば、神の栄光とは、(信仰により)人が生き生きと生きていること、そう生きている人そのもの、なんだ、という意味です。エイレナイオスの神学を学んでいた時にこの言葉を知っても、高校時代にこの後輩に話した” So lang man lebt, sei man lebendigというゲーテの言葉を連想しませんでした。でも、この後輩が30数年ぶりに私が当時彼女に贈ったこのゲーテの言葉を今改めて思い起こさせてくれると、これらの言葉をjuxtaposeできました。まさにこれぞ温故知新の楽しさですね。
さて、エイレナイオスのこのいきいきと生きる人vivens homo)の言葉の背景には、自我を棄てて神との深い親密な交わりの中に生きるというパウロがローマ人への手紙8章で論じたことや聖アウグスチヌス(St. Augustinus) 告白” (Confessiones) 1.1.1. にある” quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te、という命の源である創造主でありそのイメージで私達人間を造られた神に私達の心をすべて委ねない限り私たちの心(cor nostrum)には本当の平安はないのだという事です。不安、心配事に苛まれていては生き生きと生きられないというか、そう生き難いですよね。だから、キリスト教徒にとっていきいきと生きられる為に不安などの邪魔物を取り除く必要があるから神にすがるのです。そして、こうして神に素直に帰依することで神の恵みによって平安が与えられ、パウロがローマ人への手紙8章でいうような本当の自由が得られ、そうであってこそ本当の意味で生き生きと生きることができる人になれるというわけです。だからエイレナイオスはそのように生きることを神の栄光だと言ったんだと考えられます。
Ad Majorem Dei Gloriam(より大いなる神の栄光の為に)。。。これは私が神学を学んだイエズス会のシカゴのロヨラ大学のモットーです。より大いなる神の栄光の為にはより生き生きと生きることですね。じつは、こうしたキリスト教的なことを浄土真宗の念仏にも当てはめられますね。というのは、なんまんだ~こと、南無阿弥陀仏。これって、阿弥陀如来仏に帰依〔南無〕しますという意味でしょ。無我となるという仏教が目指すところへ到達するには自我を棄てて阿弥陀如来仏におすがりすると言う事です。そうすることで初めて仏教徒として生き生きと阿弥陀様の無量の命と光(AmitayusAmitabha の中に生きることができるのですから。ってことは、キリスト教も仏教も他力本願であり(自力本願というのは単なる強がりであり、これは精神分析学的にいえ ば内心弱い心の人がそれを覆い隠す為に武者震いするようなものなのです)、神であれ仏であれ、信じる者へ帰依(南無)することで不安などといった煩悩的な ことから開放され、自由闊達、生き生きと生きられるんですね
生き生きと生きる。。。他に、夜と霧” (Trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager) の著者であるViktor Franklとかドイツの神学者、Paul Tillichも同じようなことを実存学的な観点から論じていますね

キリスト教徒であれば、聖霊に満たされることで、いきいきと生きていくことはFranklTillichなどが実存学的に論ずる生きがい人生の意義へとつながります。
私達はよく幸せという青い鳥を追い求め、自己啓発セミナーなどに多額の投資をしてまでしてこの幸せというなにかを求め続けていますが、そういう人に限り、幸せ 追い求めれば追い求めるほど自分の心の満たされなさの痛みを感じ、それをかき消そうとすべく、またこうした自己啓発セミナーなどに参加し、気がつけばこう した幸せ追求自己啓発運動依存症に陥っていくことがあります。しかし、若い頃、学生時代にゲーテなどの心の糧となる言葉に触れており、哲学書な聖書や仏典 などにも親しめるようになれば、幸せ追求の虚しさに気付き、幸せについてあれこれ思惑をめぐらすことで人生を浪費するよりも、今この一時一時を悔いが残らないように一生懸命、つまり、ゲーテがいうように、この世に生がある限り、今を” sei man lebendig(いきいきと生きて)いればいいのです。そして、こうした生き方は信者にとってIrenaeusがいうように” Gloria Dei est vivens homo(いきいきと生きている人間という神の栄光〕につながるのです。こうした境地に達すると自我(エゴ)は昇華されていて存在しません。これは、所謂、仏教の究極である無我(anatta, anatman)でもあるといえましょう。そして、これはパウロがローマ人への手紙8章などで論ずる神との交わりの中、聖霊の交わりとの中で生きるという本当の自由であり、アウグスチヌスが” quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in teという言葉で示す神に帰依した心でしか得られない平安でもあるのです。巷の幸せという幻想に惑わされない為にも心の糧となるいい言葉に毎日を摂取して、いきいきと生きていきたいですね。
ゲーテがいうパンは体の糧。しかし、この糧を涙を流しなが食べる程の苦難を体験した人は、体の糧をありがたく頂くことでそれら全ての恵みの根源である慈しみ深い天上の神の力が分るので、体の糧であるパンはただのパンではなく永遠の命への糧となる生きているパンであり、キリストの聖体そのものであるということに信者であれば気付くでしょう。そして、最初にあげたゲーテのいきいきと生きることはどういうことかについて触れているスタンザにあるファウストの人生を苦しみに満ちたものから開放した出会いというのはこの永遠の命への糧であるキリストであると、信者は受け止めることができるでしょう。ゲーテ自身の信仰心そのものは理想的であったとはいえませんが、高校時代の後輩に触発されてここで私が取り上げた二つのスタンザに関して、こうしたゲーテの言葉は単なる心の糧というよりも、信者にとっては永遠の命への魂の霊的な糧である生きているパンであるキリスト、聖体、との出会い、交わり、を比喩するものだといえましょう。
高校生の時” So lang man lebt, sei man lebendigが私からの贈る言葉だった後輩へ、30年以上経った今、彼女へ贈る言葉は” Gloria Dei est vivens homoです彼女のような温故知新の友となるいい後輩を持つ私は幸せというよりいきいきと生きる糧に人一倍恵まれており、生まれてきて良かった、それゆえ、彼女のような後輩や先輩、他の沢山のいい友や師にも恵まれてよかった、とありがたい気持ちに満たせれることでよりいきいきと感じます。みきちゃん、ありがとう!そして、これら全てを計らってくれた神に感謝!

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