Sunday, December 30, 2018

母であるマリアを心配させて困らせた12歳のイエス:聖家族の出来事から思うこと


カトリックの典礼暦では、12月25日のイエスの降臨を祝す日の後の主日は、イエスの家族、聖家族、を祝う日、です。C年のこの祝日の福音朗読はルカ2:41-52からであり、ロザリオの喜びの第五の神秘で黙想する、エルサレムの神殿にてマリアが“迷子”になったと心配されていた12歳のイエスを見つけ、“説教”したことの話です。この話からして、子供の頃のイエスも、私達の子供の頃のように、親に心配かけることがあったのだと、寧ろ、イエスに親しみを感じさせるところがあります。

実は、このイエスを神殿でみつけた福音書の話でよく思い出す事があります。

あれは確か私の妹がまだ母のお腹の中で育っていた頃、私がまだ幼稚園に行き始める前の出来事でした。私の親からみれば私は“迷子”になり、当時の私からみれば私はただ一人で気ままに“探検”していた、というような事件がありました。親にあまり心配かけたらけないから暗くならないうちに戻ろうとして家路についていたら、近所の米屋の前で母と米屋のおじさんが話しているのが目に留まり、母は米屋に米を買いにきてたのかと思いきや、米屋の方へのこのこと歩いてくる私を見た母は、すごい勢いで私の名前を叫びながら私の方へ走ってきました。その時、私は状況がつかめず、“いったいお母さん、どうしたんだろう?”と思いながら、ぼうっとしたまま走ってくる母を見ているうちに、母に締め付けるように抱かれていました。そして、母は、私のことをどれだけ心配してたか諭すように私に言いました。まさか、母の目を離れちょっと一人で“探検”に出ただけで母にそんなに心配かけていたとは、それまでは露とも思いませんでした。しかし、母の言葉を聞き、母の荒い息と激しい鼓動を母の温もりと同時に感じながら、自分は母にとても心配かけ、すまないことをしたのだと実感しました。

あの日、確か、母は私をつれて近所のスーパーマーケットへ買い物に行っていました。何かの大安売りだったんでしょうか、近所のおばさん達に混じって母がバーゲン商品をゲットしようとしている際、私は退屈し、すっとスーパーから出て、近所の林へクワガタ虫を探しに行きました。当時(昭和45年)の福岡では、まだクワガタ虫などが生息する林が残っていました。正直いって、母の買い物のお供をするよりも、一人でクワガタ虫や色とりどりのカナブンなどがいる林を“探検”するほうが私にとって時間をとても有効に使えたからです。その頃、スーパーに“置き去り”にしてきた母のことなんて一切考えることなく、ただ自分の好奇心のままに林を“探検”し、お目当てのクワガタ虫を探しました。結局その日はクワガタ虫にお目にかかれることなく、しかし、蛇に出くわし、びびって林から逃げ出す羽目となり、収穫のない“探検”に終わり、しかも、お腹が空き、しょうがないので家に帰って何か食べようと思い、家路に付いたのです。そして、家の近くにある米屋で母を“発見”。

母は、米屋で米を買っていたのではなく、よくバイクで配達に出る米屋のおじさんに私を見かけたか尋ねていたところでした。そこへ腹ペコの私がのこのこと歩いてきたわけです。確か、母に連れられて家に帰る前に米屋のおじさんからあんぱんをもらったことも覚えています。そして、母からおじさんにちゃんとお礼を言いなさいと諭されたことも。

あの日、父は母に、“おまえがちゃんと昌史をみてなかったから迷子になったんや”、と責めるように言い、更に、“そんなに心配せんでも、一人でちゃんと帰ってきたやんか”と母の心配を過小評価してしまいました。こうして、父と母は私が起こした“迷子”の事件をめぐりちょっと議論しあっていたようです。

さて、イエスが過越祭で込み合っているエルサレムで“迷子”になったが神殿にいるところを発見され“一件落着”、というルカによる福音書2:41-52の話なんですが、当時、マリアとヨゼフと子供のイエスの聖家族は、親戚などと一緒の過越しのお祝いの為、ナザレからエルサレムへ家族一同の巡礼旅行をしました。これは過越祭にエルサレムの神殿に赴くことはモーゼの律法で定められたユダヤ人への信仰上の義務でした。そして、巡礼を終え、ナザレに向けて帰路に就こうとすると皆と一緒のはずのイエスがいないのです。それを誰よりも心配したのは母であるマリアでした。三日間、大都市、聖都、のエルサレムを隈なく探しているうちに、なんと、まだ神殿の中でそこに集う博士達と議論しあっていたところを見つけました。博士達はイエスはまだ子供なのに既に卓越した見識を備えていることに驚いていましたが、ずっと血眼になって探していたマリアはイエスに対し、ヨゼフと自分がどれほど心配していか理解しなさい、という感じで諭しました。これに対し、12歳のイエスは、お母さん、心配かけてごめんなさい、とマリアとヨゼフの心配を認識し、謝るどころか、“どうして私を探さないといけないのですか?私は‘父の家’(ギリシャ語の原本では父の中、父と一心同体のように一緒、というようなヨハネ10:30にも因んだような表現)にいなければならなかったことを知らなかったのですか?”、と口答え。母親であるマリアはむっとしたでしょうが、マリアもヨゼフも思春期にさしかかった息子の口答えが何を意味しているのかその時分りませんでした。しかし、その後、二度とこうしたことは無く、イエスはいつもマリアとヨゼフの言う事をよく聞いて、しかも、更に知恵を涵養しながら神の恵のうちに育っていったということです。

この福音エピソード、普通に読めば、人間としてのイエスも少年時代、私達がそうだったように親を困らせたものなんだ、とイエスに対する親近感を感じます。だから、私も自分が押さなかった頃に母に心配かけて困らせたことをこの福音エピソードで思い出すのです。しかし、神学的には、こうした私達らしいイエスの少年時代のエピソードの裏というか行間には深い意味があります。これを理解する上で、イエスは人間であると同時に神でもあるということを抑えておくことです。

そもそも、キリストは穢れ無きマリアからイエスという生身の人間の形でこの世に降臨する遥か以前から存在していました。ヨハネによる福音書のはじめには、最初にロゴスありき、そして、このロゴスが神そのものであり、そして、14節で、このロゴスが私達と交わる為に人間の肉体でもって現れた(降臨した)ことを記しています。このヨハネによる記述は旧約聖書の箴言8:22-31で語られている知恵の先存と照らし合わせてみれば、ここでいう知恵を意味するコクマウ、חָכְמָה、というヘブライ語と、ヨハネの福音書にある、一般的に言葉と訳されているロゴス、λόγος、というギリシャ語が本質的に同じものであることを理解しておけば、キリストは父なる神が天地を創造する以前から創造主である父なる神と共に存在していたことがわかります。しかし、キリストは天地創造以前から先在していたとはいえ、父なる神あっての存在なのです。だからヨハネ10:30においてキリストであるイエス自身が述べているように父と御子であるキリストは一体的に共存しているわけです。

つまり、キリストは天地創造以前からずっと父なる神と一体的に共存しているわけなのです。そして、今から2、000年ほど前、父なる神は、マリアを穢れ無き人間として特別な恵みで満たし(gratia plena)、乙女となった処女マリアに聖霊を注ぎ込み、ロゴス、λόγος、であり、また、コクマウ、חָכְמָה、でもあるキリストを人間の肉体でこの世にイエスという人間で降臨させたのです。勿論、その目的は、私達との深い交わりを通してアダムとイブが犯した原罪以来、穢れている私達を救う為なんです。

さて、ここでまたルカ2:41-52の福音エピソードに戻りましょう。

イエスが“迷子”になったわけは、イエスが父が祀られているエルサレムの神殿でのひと時、父と時空を共にし続けていたことです。父と一緒の水入らずの時を父の神殿で過ごしていたのですから、マリアやヨゼフや他の親戚達がエルサレムを去ってナザレへ戻ろうが、気にならないはずです。よって、神殿にいた博士たちと議論していたということよりも、ヨハネ10:30でいうような父との一体性にあったということなのです。そうした父なる神の御子であるイエスの本性をまだ知らなかったマリアはイエスのことを心配し、見つけた時に諭したのです。、マリアの諭されたイエスはその口答えで示したのです。その時、マリアはイエスの神学的な本性を示す、“父と共にいること”(父の家にいる、と訳されることもある)をまだ理解できませんでした。しかし、マリアは既に、自分の息子、イエス、はただ私に反抗的な態度を示しているのではなく、きっと、自分を懐胎させた神との間のことを私に言っているのだと感じていたはずです。だから、マリアもイエスの口答えに反論したりしなかったのです。そして、聖家族とはこうした神と人間との深い交わりゆえに起こりえたエピソードがあったのです。

天地創造よりも遥か前から存在していたキリストはイエスという生身の人間の姿で穢れ無きマリアを母とし、この世の私達と交わる為に降臨しましたが、その時、イエスがメシアであるこを理解できる人は殆どいませんでした。このことについて、“あなたはクリスマスを本当に知っているでしょうか? クリスマスと最後の審判“という12月27付の記事でも触れました。このことは、イエスの父なる神との関係そのものを意味する人間の姿の裏にある本性について、イエスを身篭り、生み出した、母であるマリアですらなかなか理解できなかったということをルカ2:41-52は私達に語っているともいえるのです。

よく、母親は、私の子供はどうしてこんなことするのだろうと思い悩むことがあります。カウンセリング心理も専門とする私のところにこうした悩みを抱えた母親がよく相談に訪れます。そして、私自身、自分の母親にこうした悩みを抱えさせてきました。ルカ2:41-52からも分かるように、イエスという息子を持つ聖家族の母であるマリアもこうした悩みを持ったんだ、と分かります。しかし、マリアのこうした悩みの背後には、イエスという息子の本当の父である天の神との一体性についてまだ理解していなかったという神学的な要素があるのです。そして、こうしたことが起こったのは、キリストの降臨による救いとは、ヨハネ1:14にあるように、神と人間との交わりによって成されるという神の意志があったからなのです。

アダムとイブが原罪を犯し、エデンの園から追い出されてから、神と人間の関係は油と水のようなものになってしまったといえます。しかし、計り知れなく慈しみ深い父なる神は、ロゴス、λόγος、であり、また、コクマウ、חָכְמָה、である自分と一体的に存在する御子であるキリストを穢れ無きマリアを媒体として聖霊の力によって降臨させ、これによって神と人間は交われるようになり、この交わりが続くなかで、私達の罪が洗われ、キリストを通して神との距離が縮小していくのです。いわば、これが救いのプロセスだといえますね。そして、乳化剤という物質が油の分子と水の分子を親和させるように、キリストは神と人間を親和させていくのです。その手段として聖家族があるのです。もし、神がキリストをこの世に降臨することが、ヨハネ1:14にあるような人との交わりでなければ、イエスにはマリアやヨゼフといった生身の人間の家族も必要なく、マリアから生まれてからすぐに、エルサレムの神殿で育てられていればよかったのです。そうであれば、イエスもマリアやヨゼフに心配かけることなく、ずっといつも父と一緒に父の家にいることができたのです。しかし、父なる神の意志はこうではありませんでした。キリストをもっと人間と深く交わらせ、摩擦があってもあえてそうさせたのです。キリストによる救いとは、このように実に人間臭いものなんです。だから、神学を学ぶ上で、人間について、とりわけ、心理学、人類学、生物学、をも学ばねばならないのです。

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