Tuesday, September 10, 2019

蝉の最後の一鳴きから始まった看取りの臨床哲学思索


駅からの家路を急ぐ中、一匹の死に行く蝉が私に看取りについての臨床哲学思索の機会を与えてくれました。要は、こっちの見方を死にゆく患者さんにとっても自然な見方だという思い込みで不自然な介入をしないということです。
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昨夜、駅からの帰り道を歩いていると、突然蝉のうめき声のようなものが聞こえ、”嗚呼、一匹の蝉がその命の最後の時を示すかのごとく一鳴きして息を引き取ったのか、哀れなことよ”、と勝手に推測しながら、蝉がうるさい昼間の暑さとは裏腹の涼しさを一層感じました。
寿命尽きて死んでいったのか、それとも天敵に襲撃され死んでいったのか、定かではありませんが、あの呻き声のような蝉の鳴き声は、一つの命が幕を閉じる時のシグナルに違いありません。

最後に呻き声のような音でその短い地上での命に昨夜幕を閉じたあの蝉も、昨日の昼間はまだ他の蝉たちに負けないぐらいうるさく鳴いていたのでしょう。しかし、日が落ち、その数時間のうちにそれまで夏だったのが既に秋となり、すっかり涼しくなった夜になればその蝉の命も終わってしまったのでしょう。

こうして最後の一鳴きでもって息を引き取ったと思われる蝉を憐れみながら家路を急いでいると、ふと思い出すことがありました。それは、歩いていたら、コンクリートの歩道で仰向けで一見死んでいたかのように見えた蝉が近付くとその足を動かし始めたので、仰向けになって苦しんでるのだろうから少しでも楽にさせてあげようと四つんばいになれるようにしようと触ろうとするとその蝉は力いっぱい抵抗した、というような趣旨のことを高校時代の先輩が以前彼女のフェイスブックの掲示板に書いていたということでした。

もしかすると、天敵に食べられたのでないならば、あの呻き声のような一鳴きでもって死んでいったと思われる蝉は力尽きて木から落ちてしまい、その瞬間あのような音を出して死んでいったのだろうと、蝉を憐れむ心に駆られました。そして、先輩のフェイスブックの書き込みにあったような蝉のように、この呻き声のような音で一鳴きした蝉も力尽きて木から落ちると仰向けになり、少しもがくようにして更に力尽きて死んでいったのだろうと、この蝉への私の哀れみの心はさらに深まっていくのでありました。そして、この死に行くその蝉をせめて四つんばいにしてあげようとするとまだ少し残っている最後の命の一滴をふり絞って抵抗してくるだろうとも思いました。

こうして、死に行く蝉のことを憐れみながら歩いていると、ふと、ホスピス、ターミナルケアにおいて旅立つ患者さんをどのように看取るかという、人間を含め、生きとし生けるものであればすべて避けて通ることができない死という現実をどう受け入れるべきかということを家路を急ぎながら考え込んでしまいました。そうです、私はあの呻き声のような最後の一鳴きの蝉のおかげで歩きながら思索するという、あたかも京都大学の近くにある”哲学の道”を歩きながら考える哲学者のようになっていたのです。しかも、秋を感じさせる涼しさなので哲学には最高です。

夜、家路を急いでいると突然耳にした呻き声ににた蝉の一鳴き、仰向けになって弱っていた蝉があまりにも可哀想に見えたのでせめて四つんばいにして楽にさせてあげようとしたら必死でその蝉から抵抗されたという高校の先輩の体験談を思い出す、そして、最後の看取りの臨床倫理について改めて考え始めるという順序での連想連動です。

実は、ここでの思索のメインは呻き声のような泣き声を最後に死んでいったと思われる蝉というよりも、このことで思い出した、死にかかっていた仰向けの蝉を、本来の姿勢であるように四つんばいに戻すことで楽にしてあげようという哀れみの心がその蝉にとってはあたかも迷惑であるかのように抵抗されたという高校時代の先輩の体験談です。

実は、先輩が哀れみの心で死に掛けていた仰向けの蝉にしようとしたことは、ホスピス、ターミナルケアにおいて死を間近にした患者さんに突然延命措置を施そうとするようなことかもしれません。勿論、なぜその蝉は先輩が介入しようとすると最後の力をふり絞って抵抗したかといえば、本能的に先輩を敵だと見なしたとえ命尽きてでも戦い抜こうとしていたと考えるのが生物学的に妥当でしょう。しかし、私は哲学をしているのであり、この哲学的思索において、先輩が死に行く仰向けの蝉に施そうとしたことは、その蝉がその蝉なりに自然体で迎え入れようとしていた死への過程において邪魔をしたというように解釈できます。しかし、先輩の動機は別に蝉にいやな思いをさせようとかいうのではなく、寧ろ、その反対で、仰向けではさぞ苦しかろうというその蝉への哀れみの心、優しさだったのです。皮肉なことに、その蝉はこうした先輩の哀れみ、親切、をいらん迷惑だと捉えて抵抗したのです。

このことは、ホスピス、ターミナルケアにおいて誰もが注意しないといけない、死に行く患者さんの看取りにおける落とし穴についての教訓につながります。
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医療ケアにおいて、とりわけ、ホスピス、ターミナルケア、において患者さんができるだけ患者さんらしく生きていることができるように最善を尽くします。このことは最後に残された非常に限られた時間をどう過ごすことができるかという、死を間近にした患者さんにとっては非常に大切なことです。こうした最後の時間の過ごし方は患者さんによって実に様々です。しかし、例え、臨床の専門家であっても、こっちからの見方においてそれはあまりにも哀れみ深いからといって、その患者さんの意志を理解することなしに、こっちが理想とするあり方に変えていこうとするとかえってその患者さんにとって苦痛となることがある、という教訓です。

幸い、蝉と違い、患者さんは自分らしい最後の時間の過ごし方についてケアチームとコミュニケートできますので、まだ意識がはっきりしているうちにこのことについて的確に把握しておかねばなりません。そして、最後の看取りのケアはこうした患者さん自身の意向にそって行わなければ、その患者さんらしい尊厳のある最後を迎えることはできません。
まあ、毎日、ホスピス、ターミナルケアに従事しておられる医師、看護師、心理士などにとって、別に何も哲学するほどのことはない”あたりまえ”のことのように思えるかもしれません。しかし、この”あたりまえ”がもしかすると熟練しているプロがあたかも”猿が木から落ちる”ような愚を犯すことの落とし穴かもしれません。かく言う、私自身、心理、スピリチュアリティーという側面から、ボランティアとして、そして、プロの悲嘆カウンセラーとして、更に、臨床宗教家(パストラルカウンセラー)として長年最後の看取りに携わっています。だからこそ、この蝉の体験から連動連想された最後の看取りの臨床哲学は意義深いものなのです。

そして、この一連の連想思索がもたらした結論は、森田療法の根本理論である”あるがままに受け入れる”ということです。私の悲嘆カウンセラーとしての専門的意見を述べさせてもらうならば、死に対しての不安に苛まれている患者さんは、死という不可避な現実をまだあるがままに受け入れられないが為に不安でもって抵抗しているのです。死という自然な事象をまだあるがままに把握できていないが故、免疫が体内に侵入した異物への抵抗を示すような反応をしているのです。つまり、死に対する不安というのは心理的な”アレルギー”だといえます。ある意味では、死は自然なものなのにそうだとあるがままに認識できないが故、それを不自然な異物のようなものとして排斥しようという無意識における心理的力学が作用しているのです。これは、先輩が仰向けになって死にかかっていた蝉を哀れむが故、不自然に介入することで抵抗されたという現象にも似ています。つまり、死を迎える看取りにおいて大切はのは何を本当にあるがままに受け入れるべきであり、何が不自然なものなのかを患者さんの意識がまだ明確なうちに一緒にしっかりと相互認識しておくことがケアの善し悪しを左右するといっても過言でナありません。こっちからの先入観だけでの介入は患者さんにとってかえって不自然となり、先輩が体験した蝉の抵抗のような反応を患者さんがするかもしれません。

あるがままに受け入れるという森田療法の臨床パラダイムでの最後の看取りにおいて死は不自然でなないので抵抗しながら不安という心理的負荷という代価でもって排斥的に介入するものではなく、寧ろ、患者さんの意志を尊重し、スムーズに死を患者さんらしくあるがままに受け入れられるように、体、心、そして、スピリチュアルな側面すべてを統合させてケアしていくものなのです。こうしたプロセスにおいて患者さんは、蝉のような抵抗を示すことはありません。いや、あってはならないのです。

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