Monday, May 11, 2020

宗教は他力本願なのか、それとも、自力本願なのか -宗教と自己のありかた


心理、教育、コンサルタントのほかに、宗教コンサルタントとしての顔を持ち、宗教と心理についてのセミナーをしたり、聖書を教えている私のところに時折寄せられる質問は、宗教は他力本願なのか自力本願なのかということです。

確かに、宗教を教えている人の中には、宗教には大きく分けて自力本願と他力本願があり、自力本願の宗教において、神は自分で努力する人を努力すればするほど報うがそうでないと罰するといったことをマタイ25:14-30//ルカ19:12-27にあるイエスがしたたとえ話などを根拠として教え、あたかも自力本願の宗教感のほうが他力本願の宗教感よりも優れているかのように論じていることがあります。これは、18世紀あたりに台頭しはじめた人間の理性を神の信仰心よりも優れたものであるかのように論ずる哲学に対応するようなプロテスタント的なキリスト教の教えにあります。そして、こうしたプロテスタント的な教えは16世紀のルターによる宗教改革で興った本来のプロテスタントの考えとも違ったものでもあり、依然として神への信仰心を第一とするカトリックやそれを代表するといえる聖トマスアキナスの哲学的神学論をあまりにも”他力本願”的すぎるので、カトリック文化の国々ではプロテスタント文化の国々に比べてその国民達は勤労性に欠け、産業革命も大幅に遅れて、経済生活水準は低いと見下したような考え方があることは否めません。

しかし、こうした偏見の背後にあると考えられる自力本願を他力本願よりも優位とするような宗教教育はイエスのたとえ話の本意から逸脱した解釈でもって自力本願的な考えを宗教に当てはめこむことを正当化しようとしているにすぎません。このたとえ話でイエスが教えんとしているのは、神が与えたものを私達がどう活用するかということであり、その活用の仕方によって私達は最終的に神の評価をうけるということです。よって、私達の努力というものは神からの恵みを通した神との関係の中で議論されなければなりません。これを、勝手に、努力して成功すればそれを神が報うので、宗教は自力本願だと解釈するのは早合点でしかありません。

そもそも自力本願の宗教なんてありません。神や仏の力なしに、自己救済でき、自力本願で生きていける人に神や仏は必要ないでしょうし。よって、宗教というのはその性質上、他力本願なのです。

しかし、ここで誤解しやすいのは、他力本願の意味です。

他力本願とは他力に任せっきりで自分は何も努力しないということではなく、自分は自分なりに一生懸命努力、精進するが、自分の力だけでは行き詰まることもあるので、神、或いは、仏の本願が必要ですからよろしくお願いいたしますという、謙虚な心を現しているのです。

自力本願はどちらかというと自信過剰、過信、などに陥るリスクが高く、傲慢にもなりやすいでしょう。すべてが自分の思い通り、自分の努力がすべて自分の思い通りに実を結んでいるうちは幸せでしょうが、もし、そうではなく、完璧なはずの自分の努力がまったく思い通りの結果もたらさない場合、自分のプライドが自分の道を閉塞してしまい、最悪の場合は自殺という結果になりかねません。

これに対し、他力本願を体得している人は、行き詰まりを感じた時、それまでの前進前進のありかたから一歩外に出て深呼吸して考え直す余裕があります。そして、一歩外に出て深呼吸して考え直すということは、それまでの自分のやり方を反映している自分の努力の限界を知り、だからといって諦めて止めたり投げ出したりするのではなく、念仏により仏の智慧、或いは、祈りにより神の智慧を請うことで袋小路的、四面楚歌的な状況からあまりストレスをためずに抜け出す事ができるというわけです
他力本願を身に着けていると自分の努力を独立したものと見なさず、仏や神の智慧などの恩恵があってこそその最大の効果が得らるものだと認識しています。無宗教ゆえ、仏も神も信じていない人でも、他力本願的な考え方、態度、にある人は、自分の努力は、自分ととりまく様々な人々や自然の恩恵などがあるおかげで自分の努力も最大の効果がえらるものだと認識しているので、自己意思の独り歩きというよりも、皆で協力しあって物事を成し遂げるものです。勿論、仏を信じる仏教徒も三位一体の神を信じるキリスト教徒も、その他力本願において、仏、あるいは、神、の本願は神の創造物である自然の賜物や他の人達との協調性のある自分の努力によって最高の実を結ぶという考えで行動できるのです。

親鸞上人が教えた浄土真宗の仏教において、阿弥陀如来仏は、大無量寿経にあるように、その四十八本願の中(特に、第十八願、第十九願、第二十願)で、此岸において煩悩の中で苛まれながら生きている愚衆を救いたいという本願をその48本願として、彼岸からわざわざ私達愚衆のところへこうした他力本願の教えを通して南無(帰依)することで、そして、この阿弥陀仏との帰依した(南無した)対象関係というコンテクストにおいて日々精進努力していくことで救われるものであると考えられます。一方、古代ユダヤ教を母胎とするキリスト教においては、三位一体の父としての神は、創世記第三章にあるように、アダムとイブが原罪を犯してしまった時、エデンという楽園から追い出したものの、創世記3:15にある漠然とした表記が示唆するように、やがてその時がくれば、マリアを穢れ無き乙女としてこの世に生まれさせ、自分が聖霊の力でこの乙女を妊娠させ、父の御子である穢れ無きマリアの血肉を分けた人間の姿の神、イエスキリストとして、原罪の後遺症に苛まれながらこの世に生きる人間達と交わりながら、罪深き人間の心を悪魔による誘惑の鎖から切り離して開放し、そして、最終的には原罪をアダムとイブに引き起こさせ、その後遺症を引きずらせ続ける悪魔とその共謀者達をすべて成敗することで罪深き人間達を救う、三位一体の神の私達を救済する本願を表されているのです。そして、乙女マリアが神の御子、キリストを産み、人間として現れた神は聖霊という同じ神と共に、この世の終わりまでに悪魔を退治し、罪深き人間を救い続けるというわけです。




パウロによるフィリピ人への手紙第四章や親鸞上人による教行信証の行巻などを読んでみるといいでしょう。 私達にとって神や仏との対象関係に生きる為の指標である宗教は本質的には他力本願であることがわかります。

自力本願で自己救済ができる人にとって、阿弥陀如来仏や三位一体の神の人類救済の本願なんてピンとこないものかもしれません。だから、仏教とキリスト教に関していえば、宗教は本質的に他力本願なのです。

合掌。アーメン。   

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