Friday, May 29, 2020

仁の美徳による良心と自由と寛容性について:Covid-19 パンデミックに対する自粛呼びかけと民衆の行動的対応


新型コロナウイルスによるCovid-19パンデミックに対する政府による自粛呼びかけとそれに対する人々の行動的反応は、自由と寛容性は個人の私的欲望ではなく公的共通利益が前提であり、その更なる前提は仁の心による良心であることを改めて考えさせてくれます。

自由という言葉の他、あたかもそれが普遍的であるかのように使われている言葉の一つに寛容性という言葉があります。その理由の一つに、これらの言葉が意味する概念に相関性があるからだといえます。つまり、自由であれば、必然的に、寛容性もそこにある、と考えることができ、また、寛容性を自由にとっての必要条件ともみなすことができるからです。しかし、自由にしろ、寛容性にしろ、これら各々には思いがけない落とし穴が内在していることにお気付きでしょうか?

そもそも、私達が思いがちの自由とは本当の自由とは限らないからです。しかも、本当の自由でない自由を自分でそうだと思い込んでいる人は、寛容性についても正しい認識をしていないと考えられます。自由や寛容性について誤った考えを持つ人は、それらを主観的に絶対化し、また、普遍的なものであると思い込んでいる傾向にあるといえます。そして、こうした人達はどちらかというと自己中心的で、自己主張が人一倍強く、自分の権利を過大評価的に主張する一方、自分の義務については過小評的だといえます。それもそのはず、彼が思い込んでいる自由にとって義務というのはそれを制約する要素だからです。つまり、彼らがいう自由とは我がまま、気まま、他の人のことや社会のことに気遣いすることなく振舞える環境のことなのです。彼らの自由とは自分の頭の中で作り上げたおとぎの世界の桃源郷でしかないのです。

しかし、現実はおとぎの世界と違い、様々な義務があり制約もあります。そして、その理由は自由を制約、制圧、することが目的ではなく、社会全体の秩序を維持することが目的なのです。しかし、彼らの不条理な考え方からみれば、義務や法や道徳というものは自由の敵と見なされるのです。なぜならば、彼らには義務、法、徳、の目的について盲目的だからです。そして、その盲目性の背後には、彼らの自己中心的、つまり、ナルシシスト、な心理があるからです。

そして、こうした間違った自由についての思い込みをしている人は、自分が勝手気ままに振る舞い続けることができる限り、秩序維持の為の義務、法、徳、を無視して行動することで社会の治安や公衆衛生を脅かしかねないような他の人達を寛容という名の下で容認する傾向にあります。

現在の新コロナウイルスによるcovid-19の世界的パンデミックの中、この自由と寛容についての問題が露呈されています。

疫病の広まりを最小限に食い止める為に政府は外出自粛、マスク着用、適切な対人距離を置くこと(三密禁止)などを国民に呼びかけ、その殆どがこうした政府からの呼びかけで速やかにこれらのことを実行してきました。そうの効果あって、国際的にも日本のcovid-19対策は効果的だと評価されています。

欧米の新聞などは、人口密度が欧米諸国よりもかなり高いにも関わらず日本のcovid-19による死者が1000人未満であり収束に向かっている事実の背後には日本人に特徴的な他人や社会全体のことを思う心で行動する美徳があると評価しています。これは、東日本大震災後の被災者の秩序正しさと辛抱強さについて、欧米の報道が分析をした時にもこうした日本人特有の美徳だと結論付けていました。

しかし、たとえその数は少ないとはいえ、マスクなしで外出し、三密状態を形成し、また、そうしたことを助長する人もいました。政府からの呼びかけだから実質的に法的拘束力がないので無視して、疫病拡散防止などといった公衆衛生よりも自分の自由を自分が思うままに追求するのです。そうした人達を寛容する人達は、社会の自由とか寛容性ということで自分勝手な行動をする人達の容認を正当化します。更に厄介なのは、こうした自由や寛容性の理解をしている人達の中には、covid-19は、ある勢力が皆を恐怖に陥れ世の中を混乱させる為に作り上げた脅しなので、本当は普通のインフルエンザだから大騒ぎして家に篭ったり、わざわざマスクつけて外出しなくてもいい、ただ今まで通りに暮らしていればいい、というように陰謀説でもって自分たちの反社会的行動を正当化します。

ここで大切なのは、政府からの呼びかけを個人の自由への干渉だと思い込み、それに対応した行動ができずに、行動し続ける人は、そうした行動が自己本位であり、ただそれだけでなく、それ故に、他の不特定多数の市民の健康、ひいては社会全体の公衆衛生を脅かしかねないものであるということが自覚できていないといえます。これは、発達心理学的な問題でもあり、自己中心的だった幼少期のまま、思春期の頃までに体験すべきだった自己欲求と社会との協調、共存についての必要性からの二極的対立の葛藤を克服できずに体だけが大人になった結果です。こうした彼らの発達上の問題に理解を示しても、それだからといって彼らの間違った自由に沿った自己中心的行動を容認するということは間違った寛容性です。

他人や社会のことを思うことができる人であれば、政府から法で縛られなくても、自分の良心もってこうした呼びかけに何の違和感をも感じず、当然のこととして自粛などへと行動を変えていきます。そして、これは良心や思いやりの心があるからこその本当の自由なのです。つまり、本当の自由とは行動の動機そのものにあり、他人や社会への心遣い、思いやりが無い自己中心的な心での行動の結果ではありません。

こうした自己中心的な行動を取り締まることなく、そうした行動をとっている人個人の自由なんだからと容認し続けるという寛容性は、犯罪行為、非人道的行為をも、寛容性という正当化で容認していることと本質的に同じ事です。なぜならば、こうした自己中心的行為は反社会的だといえるからです。そして、こうした反社会的行動に対して寛容的でありそれを容認してしまえば、社会の公安、衛生は損なわれ、結局、皆がその弊害を被り、社会は崩壊していくことになります。そうなってしまえば自由なんてありません。




 行動としての自由や寛容性というものには、社会全体の衛生や公安ということを維持する上で障害となりうるのであれば、制約をうけねばならないということがプラトンから孔子まで、世の東西共通の法哲学原理、社会倫理にもあります。そして、プラトンの弟子、アリストテレス、更に、孔子の弟子、孟子、は更に、思いやり、仁の美徳、をその特徴とする良心を活かすことの重要性を説き、そうすれば、寛容的で自由な社会がその公安と衛生を維持しつつ達成できると結論付けています。


別に、哲学やその一分野である倫理学、そして法学などに精通する必要はありません。社会的良識があり他人を思いやる心さえあれば良心の自由で自分らしく振舞い続けることができるからです。

つまり、本当の自由とは良心なくして有りえないものであり、寛容性とは、良心にそった行動ができないが故に社会全体で皆で共有すべき無形財産ともいえる公安や公衆衛生に支障をきたす人達を社会を構成する人間として尊重しつつも、彼らのこうした行動を容認するということではないのです。もし、私達が良心にそって行動できないのであれば、社会の秩序を守る道徳的かつ法的義務がある政府は法によって、社会の公安、衛生維持の為、私達の行動を法で規制し、それでもこうした法を遵守できないのであれば、規制というよりも束縛するようになるでしょう。

良心があれば政府からの呼びかけ、勧告、だけで私達は社会の公安と衛生の為、ひいては、他の人のことと自分のこと両方をおもいやり、適切な行動ができるのです。そして、こうしたことに対し、自分の自由が奪われたとは考えないものです。

良心で行動できる市民が大多数を占める社会であれば、政府からの呼びかけや勧告だけで市民の良心を喚起できる為、より束縛的な法によらなくても社会の秩序、公安、衛生、などが脅かされたり損なわれることなく維持できます。そして、こうした社会全体で共有できる秩序、公安、衛生、という目的を共有できる限り、その手法についての個人の様々な個性や意見の違いを尊重でき、慣用性も必然的に機能できるわけです。つまり、自由とそれに関連する寛容性は、思いやり、仁の美徳が備わった人間の良心がしっかりと機能するという絶対必要条件があることを忘れてはならないのです。

人間が人間である理由は進化学的にみても、それは他人を思いやる心があるということです。恐竜滅亡後、哺乳類は他の小動物と同じようにそれまで恐竜からの脅威に対し自己保全だけに生きてきましたが、こうした脅威からの開放され、集団でお互いを助け合いながら暮らせるようになりました。そうした中、直立歩行でき、目の位置も顔の両側から前面へと移り、道具を開発することでより便利な集団生活を営めるようになり、社会を築いてきたのです。個々で大切なのは、目の位置の変化であり、恐竜からの脅威により自己保全だけに生きていた四つんばいの時代、哺乳類の目はネズミなどのげっ歯類の目のように顔の左右両側にあり、これにより360度に近い視界を維持し、警戒していました。しかし、恐竜からの脅威からの開放によりそうした必要もなくなり、集団生活に営むことで自己保全に執着しなくてももっと他の人達と協力しあうことで自分一人ではできないことも皆で成し遂げられるようになることを体験し、自分同様に一緒に協力して働く他人のことをも思うようになり、目の位置も自分の目の前へと移行することで自分の目の前にいる他人へと集中できるようなったわけです。

つまり、進化の過程から、私達の祖先は、脅威からの解放で得た自由により、自己中心的な執着からも開放され、他人の存在の意義を認識できるようになり、協調のある集団生活を営むことで、それまでの自己中心的な生活ではできなかったより多くのことを他人との協力によって達成できることを体験してきながら、公安と衛生という二本柱の共有財産を維持できる社会というものを形成してきたわけです。こうした道のりで得たものが、目の位置の進化学的変化が示すように、他人への思いやりであり、仁の美徳であり、これがアリストテレスや孟子が説く良心の真髄となったわけです。そして、こうした良心があってこそ、私達は本当の自由を享受していけるわけです。また、本当の寛容性とは、反社会的行為を容認することでこうした自由を妨げるものであってはならないのです。

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