Saturday, May 4, 2013

低頭の美徳、低頭の心理的効果

低頭 非弱者 是慈悲

退步 非懦者 是智慧

悲 智 雙運

稻穗結穗愈多者愈低頭

德行工夫愈深者愈謙悲
釋覺淨
  
これをぱっと見て思い浮かべるのが、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”という謙虚さの美徳を表現することわざ。でも、釋覺淨という偉い台湾の坊さんによれば、これこそが優れた自分の能力を表現するいい方法であるということ。で、思いつくのが、”能ある鷹は爪を隠す”。でもちょっとこれはニュアンスが違うか。

この台湾の坊さんの説明から示唆されるように、自ら頭を低く下げられる謙虚さをもっている人は自尊心が欠けているとかいうことじゃなくて、寧ろ、しっかりとした強い心をもった人だといえます。勿論、こうした謙虚さのあるひとは慈悲の心、つまり、困っている人を憐れみ、寄り添い、助けられる能力を持ち備えた人でもあるわけで、優しい心とは、強靭な心は二面一体性の関係にあるかといえます。 実は、心の優しさと精神的強靭性の一体性は現在の私の心理学における臨床と研究において中心的な概念です。

臨床的には、低頭になれる心とは竹のようにしなやかな心でもあり、つまり、環境の変化にも臨機応変に対応でき、それ故、適応性の高い心であるといえます。 ストレスによる様々な心身的な問題はバブル崩壊後の日本においては一層深刻な社会問題ですが、ストレスがもたらす心身的なトラブルは環境の変化への適応性が充分でない、あるいは、そのペースにうまくついていけないからだとも考えられます。つまり、適応性の高い、竹のようなしなやかな心は、ストレスによる悪影響を受けにくく、それ故、臨床的に、強い心であると言えます。

”強い”というと樫の木をイメージすることもあります。でも、樫の木はある一定の外圧、外力には他の木に比べて持ちこたえられますが、キャパを超えるとポキっと折れてしまうこともよくあります。一方、竹はどうでしょうか?樫の木は風なんぞには左右されることなく、見た目には確かに強いものですが、竹はちょっと風が吹いただけでも結構ゆれるもので、一見、”頼りなく”見えます。

しかし、どうでしょうか?樫の木の耐圧の限界で折れてしまっても、竹はぐ~とひくく曲がってしまっても、まだ折れずにがんばっています。そして、外圧の要因がなくなると、またもとのようになる。しかし、一度折れてしまった樫の木はもう二度と元どうりには戻らない。

樫の木、一見強かった心がある日、累積されたストレスのために”キレ”る症状にたとえられます。しかし、しなやかさのある竹は、”低頭”の美徳、また、”七転び八起き”のような、達磨さんのようなちょっとやそっとではくたばらない心のイメージが浮かんできます。

また、工学系の方にはピンとくることでしょうが、飛行機の主翼や高層ビルには竹の原理が応用されていますね。だから、飛行機の羽はビヨンビヨンと空中でかなりゆれるのが物理的には寧ろ安全(それだけ、モーメントがかかり、乗っている人としてはけっこう”怖い”体験をする人もいますが。。)。それに、超高層ビルは揺れることで耐震性を高めていますし。

心理学的にも、本当に強い心を涵養するには、やはり、竹のようにしなやかである心、適応性の高い心を目指すことですね。 樫の木のような心は、とちらかというと、エゴ、意地、プライドなどで硬直した心であり、それが、低頭できない心の象徴にもなるように、プライドの故、絶対に謙虚になれない驕り高い心の比喩ともなりましょう。 そうであれば、自分より低い立場、状況にある人と共感することも不可能であります。共感できなければ、当然、慈悲、憐れみの心も養えないということで、どことなく、ナルシシストな心になってしまいます。


低頭の美徳は茶道にある禅の精神を象徴したにじり口にもありますね。平民であろうが殿様であろうが、お茶を楽しむには、だれでもあのにじり口を腰をかがめて通っていかねばならない。 謙虚なこころでもってこそお茶を楽しめるのだという禅の精神。 勿論、にじり口は千利休が考えたものだといわれています。

実は、秀吉が千利休を処刑する前、そして、バテレン追放令を出す前、千利休の茶道の優秀な弟子のおおくがカトリック大名だったということ、ご存知でしょうか? 迫害が進み、処刑はまぬがれたが、棄教を拒んだ故、城や領土などのすべてを取られ、フィリピン、マニラへと流刑となった、元、摂津の国のキリシタン大名、高山右近、は利休の茶道の秀でた弟子の一人でした。 右近の銅像、マニラの一角にあります。

仏教的キリシタンとして、にじり口を見るたびに、禅的な茶道とカトリックの精神の共通性を実感します。というのは、”狭い戸口から入るように努めなさい”(ルカによる福音書13:24)というイエスの天国への道についての教えを思い出すからです。 勿論、カトリックのミサにおける聖体拝領においてキリストの尊い御血の杯を皆で頂く儀式が茶道の儀式と似ていることもキリシタン大名にとって仏教的な茶道がすんなりと受け入れられるものだったのでしょう。










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