Tuesday, May 21, 2013

障害と向きあいながら生きている人達を支援するには。。


日本でも近年になってやっと障害と向き合いながら生きている人達にとって暮らしやすい社会を目指す運動が顕著になってまいりました。しかし、実際に、日本における障害と向き合いながら生きている人達を支える法的体制、社会的体制はアメリカのそれに比べ、やはり遅れているような感じがします。

アメリカでは1990年に  The Americans of Disabilities Actという連邦法により、役所などは勿論、学校などの公共施設に車椅子がアクセスし易いように、階段だけでなく、緩やかな坂を付設したり、車椅子用の大きめのエレベーターを設置したりするようになりました。また、私が住んでるシカゴでは、ボタン一つで車椅子が乗り入れできやすい様々な工夫がバスや電車にも設けられており、乗車してからは、一部の指定された席を簡単に動かし、そのスペースで車椅子を安全に固定できるような工夫もされており、車椅子に乗っている人でも、バスや電車でより安全かつ快適な移動ができるようになっています。こうしたことから、日本に比べ、アメリカの方が障害と向き合いながら生きている人たちにとって暮らしやすいような感じがします。

とはいえ、アメリカに比べ、日本では障害と共に生きている人達への支援にあまり関心がなかったのかとは言えません。なぜなら、日本では既に1949年(昭和24年)に身体障害者福祉法、1950年(昭和 25年)には精神保健及び精神障害者福祉に関する法律を制定しており、更に、1960 年(昭和 35年)に障害者の雇用の促進等に関する法律を定め、また、  1970 年(昭和45年)520日に障害者基本法を制定しております。こうした日本の障害を持つ人達への法的保護と支援体制はアメリカのThe Americans of Disabilities Act1990)だけでなく、Rehabilitation Act (1973)よりも先を行くものなのです。しかし、私が日本で暮らしていた昭和40, 50, 60年代は障害と共に生きている人達はどちらかというと“隔離”されていた感じがあり、しかも、公共機関や交通機関への車椅子などでのアクセスは大変困難なものであったことを覚えています。

こうしたことから、法律だけで障害と向き合って生きている人達の保護や支援をしても、それは、寧ろ、“建前”的でしかなく、やはり、まず、私たちが心から障害と向き合いながら生きている人達に共感し、支えてけるような社会体制を法律の如何に関わらず進めていくという“本質”が先行していなければなりません。だから、日本では障害者基本法が大阪万博の年に制定されていても、依然としてその法律の意図するものがあまり具体化されていなかったのです。大阪万博、車椅子専用のレーンとかがありましたでしょうか?
戦後の個人主義と物質主義が過酷な競争社会を生み出し、その結果、自分の周りに障害を持ち、それと一生懸命向き合いながら生きていかなければならない人がいても、自分自身の成績、出世、などの成功、自分の“幸せ”を追求する上での“負担”や“足手まとい”になりかねないということで、こうした人達に共感し、支援していくことを敬遠しがちになってしまった戦後のほぼ70年ではないでしょうか?

西洋では個人主義とはいえ、やはり、今でも、ユダヤ、キリスト教的な精神的なバックボーンがある。だから、旧約聖書にあるユダヤ教の教えではやはり、障害を持つ人への支援を奨励しています。たとえば、申命記(Deuteronomy)2718節によると、目が見えない人を道に迷わす者は呪われる、とあります。また、新約聖書はルカ(Lukeによる福音書 10 2537にあるキリストの話に出てくるサマリア人が、サマリア人達はユダヤ人を長年嫌っていたにもかかわらず、暴漢に襲われ半殺しにされて道端で一人うめいていたユダヤ人を助けたということが、慈悲の心を人種や宗教などの違いを超えてそれを実行する博愛の心であるという教えなどは、聖書の精神的、道徳的影響を受けている西洋人の心にはあります。だから、一般的に、聖書の影響が薄い日本人が、先祖からの憐れみの心、仏教的な慈悲の心を忘れ、個人主義に酩酊した場合と違い、西洋人が個人主義を唱えても、どことなく、困っている人、サポートが必要な人に対しを見てみないふりをしにくいのでしょう。

日本人には生来、憐れみの心、また、仏教の影響もあり、観音様のような慈悲の心があります。しかし、戦後アメリカからもたらされた個人主義的物質主義文化と、それに比例した物質的経済成長やバブルの中で、私たち日本人が祖先から受け継いだ憐れみの心を眠らせてしまったのではないでしょうか?だから、行き過ぎた競争社会を生み出し、現在の平成社会特有な異常、不可解な社会現象を醸し出しているのではないでしょうか? 
西洋人に比べ、聖書による精神的影響をあまりうけていないとはいえ、日本人には元来、もののあはれにつながる憐れみの心があります。古今集などにあるように、あはれの心とは、深く感じ入る心であり、哀れ悲しむといったようなpathosだけを感じ入るという心ではなく、すべての感情を深くあるがままに感じ取り、また、共有できる能力を意味しているのです。つまり、これは日本人特有な心理的な繊細さの真髄なのです。こうした日本人特有のあはれの心、憐れみの心でもって自分の周りの人の心情に深く感じ入り、共感することは、オーストリアの精神医学者、Heinz Kohutによる“Epathische Einstimmung“(Empathic Attunement,  共感による同調)Einfühlung (共感により心をひとつにする)というObjektbeziehung(対象関係,Object Relations)理論とも相通ずるものがあるかと思います。

このような、比較文化的、歴史的な背景をも踏まえ、今一度、私たち日本人は障害と向きあいながら生きている人達の心に、日本人特有のあはれみの心でもって共感できるようにならねばなりません。障害を持つ人に共感できずに、形式上、建前上の寄り添い、支援などをしても、心のつながりのないもので、機械的、官僚的なケアになってしまいます。だから、昭和24年の身体障害者福祉法を筆頭に、戦後、いち早く障害と向きあいながら生きている人達を保護、支援する一連の法律をアメリカに遅れることなく制定していても、障害と向き合って生きている人達への実際の保護と支援はアメリカよりもかなり遅れたものとなってしまいました。

やはり、いくら障害を持つ人が暮らしやすい制度や障害を持つ人の人権についての法律を制定したとしても、国民一人一人の心に障害を持つ人に共感でき、受け入れる心がないと効果的な制度や法律とはならないでしょう。その為にはまず、障害を持つ人達への私達の認識について一人一人検証してみることから始めねばなりません。

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