Wednesday, August 19, 2015

”Lost in Translation"? or “Lost in One’s Own Pride?” : 外国語、異文化コミュニケーションにおける心得

昨日、私が剃刀の刃を買いに近所の雑貨屋にいると、誰かが店の主人とのやりとり(communication)で難儀しているようでしたので、ちょっと様子を見てみると、この東洋人の客、店主に、”Nail cutter!  I am looking for a nail cutter! Do you have a nail cutter here?"と尋ねています。しかし、インド人の店主、この客が何を求めているのか、というより、nail cutterとは何なのかわからないような反応です。だから、この店主、”Sir, what is a nail cutter?”と説明してくれるように尋ねる客に質問しています。そしたら、この客、ちょっと苛立ちを示しながら、”It’s a thing to cut your nails!”、と、少し声を上げて、"貴様、そんなこともわからないのか、このアンポンタンめ!”とでも謂わんばかりに。

このおかしな英語表現とその独特のアクセントですぐにこの東洋人の客が日本人ではないかと思いました。日本語で爪切りと言うのでそれを直訳し、nail cutter、と表現したんでしょう。でも、日本語を知らずに英語を使っているこのインド人の店主のような人や、英語を母国語とする人達にとって、nail cutterとは釘を切る工具だと思いがちです。というのは、釘のことも英語ではnailといい、”出る釘は打たれる”という諺は、”A nail that sticks out will be hammered down"というように表現します。

この雑貨屋、工具屋ではないので、当然、釘を切るような工具はないのです。しかも、工具屋でも、釘を切るようなものを見たこともありません。普通、釘って、打つものか、抜くもので、切ったりはしませんよね。だから、釘を扱うには反対側に釘抜きがついた金槌(hammer)で事が足ります。だから、インド人の店主、nail cutterとは何ぞやと摩訶不思議に思ったのでしょう。そして、そうとも知らずに苛々してきた日本人と思われる東洋人の客、これぞ、”lost in translation”がもたらす弊害のいい例ですね。

ちょっとお節介だったかもしれませんが、この日本人らしき客が探している”nail cutter”が爪切りのことを意味していると思った私は、店主に、”I think this gentleman is looking for a nail clipper. I think he means a thing to cut finger nails and toe nails”、と"水を差す”と、それこそ、”水を得た魚”の如き、爪切りを取り出してきて、その客に、”Is this what you are looking for?”、と確かめました。すると、この客、”Yes, that’s what I need!”と、納得したような顔して、さっさと金を払って店を出て行きました。

ただ、気にかかったのは、この日本人らしき客の態度です。

私が”水さすこと”事が解決したことが癪なのか、この客、自分の正しくない英語表現による質問に辛抱強く付き合ってくれた上で、探していた爪切りを差し出したのに、”Thank you”のサの字も言わずにただ金を払ってプイっと店を出ていったあの態度、どうもそれは日本人のものだとは思いたくないのです。日本人は、海外でも、こっちがお金を払って買い物する客の立場であっても店主や店員にたいし、ついつい無意識的”ありがとう”と言う国民性で有名です。やはり、店主や店員もいくら商売とはいえ私という客を満足させる為に努力しているんだということへのありがたさを認識しているからなんです。

あの日本人だと思いたくない爪切りを買っていった客、私の”でしゃばり”によってプライドが傷つけられたのかも知れません。だったら、店主とのcommunicationで難儀しているところを見て見ぬふりして放っておけばよかったのでしょうか?でも、店主のほうは私が勘定をしている時に、”By the way, thanks for helping me understand that customer”、と言ってくれました。まあ、見方の違い、立場の違いによって、プライドを傷つける余計な世話、また、痒いところに手が届くような援助、ともなるのですね。

英語にしろ何語にしろ、私達が外国語でcommunicationをする時、やはり日本語からの直訳がもたらしかねない弊害について心得ておき、そうした愚を犯さぬようにその言語で正しいとさせる表現に慣れ親しんでおく努力が大切です。しかし、やはり、それ以上に大切なのは、自分のプライド剝き出しでcommunicateしないということですね。まして、自分の母国語でない外国語でのcommunication、知ったかぶりの傲慢さほど機から見ていてよろしくないものはありません。

やはり、自分の外国語での表現が相手にうまく通じていないと悟ったら、”なんだ、この野郎、こんなこともわからないのか!”といった態度で苛立ちを覚えるよりも、”あっ、まずい!この表現、多分、日本語からの直訳だから相手にわからないんだ”と悟り、”じゃ、どうしたらうまく伝えることができるだろうか?”とcreativeに工夫しなければなりません。確かに、あの客も, “a thing to cut your nails”と説明し直していましたが、nailという言葉が爪を意味しているのか、それとも釘を意味しているのか、それだけではまだはっきりわかりません。だから、この客ももう一歩工夫して、”a thing that cuts (or clips) your finger and toe nails”とすると誰にでもわかってもらえるはずです。心理学的にみて、こうした一工夫ができず、自分ではわかりやすく説明して”あげて”いると思い込むゆえ、通じないで苛々する理由の背後には、やはり、プライドがあります。だから、つまらないプライドは、慣れない外国語での異文化コミュニケーションにおける大きな障害となることを心得ておきたいものです。

そういえば、ローマ教皇フランシスは、スペイン語を母国語とし、イタリア語やラテン語にも堪能であり、英語も相当こなせるのですが、謙遜して、”I am sorry, my English is not so good. Please be patient with me”といった旨の前置きをしてから、英語でのスピーチをしているのを聞いたことがあります。俺は世界に君臨するカトリック教会のボスだぞ!なんていった驕りやプライドはまったくなく、言葉や文化が違う国からさっきやってきたアミーゴが一生懸命に親睦を深めようとして謙遜かつ真摯に努力しているんだと受け止めるようになります。確か、チベット仏教の法王、ダライラマ14世も、決して流暢とはいえなくても、謙遜さを独自のユーモアを交えて英語で円滑にcommunicationしていますね。

やはり、下手なプライドなしにcommunicateする努力をすると、多少、”あれ?何言ってるんだろう?”と思われるようなところがあっても、creative かつ humorousに相互理解を進めていけます。


一見、よるあるような巷の雑貨屋での会話のやりとりですが、外国語による異文化コミュニケーションにおいて、humblecommunicateする努力を続けることの大切さを改めて実感する体験でもありました。

No comments:

Post a Comment