Wednesday, August 5, 2015

広島原爆投下70周年目に際し、核兵器問題の本質である煩悩と罪の克服に向けて考える

今日は、広島原爆投下70周年記念日です。この日は、人類が人類に対して人類史上初めて核兵器を使用したことを記念する日でもあります。

犠牲者への慰霊と、今も苦しまれておられる被爆者の方々の苦痛の軽減と苦痛からの癒しによる開放を心よりお祈り申し上げます。

犠牲者の御霊と被爆者の方々が先頭に立って展開される核兵器のない平和な世界を目指す非暴力手段による戦いは、人類史上初めて原子爆弾が人類に対して人類により使われた所、広島、から始まりました。戦後70年目の今日も、この平和への戦いは続行しております。

世界で唯一の被爆国として、日本はこれからも非核原則を貫き、非核世界平和実現キャンペーンのリーダーとしてその道義的責任を末永く全うしていかねばなりません。核兵器大国であるアメリカとの同盟関係の中で戦後70年間平和を享受してきた日本、ある意味では、既に、アメリカの核の傘下での平和ともいえましょうか。そして、アメリカを始めとする同盟国との集団的自衛権行使に際し、日本が従来維持し続けてきた非核原則が更に困難になるかもしれません。こうしたこれからの厳しくなる現実に備える為にもどうしても克服しておかねばならない落とし穴があります。

よく、戦後70年経った今でさえ、広島と長崎への原爆投下によってあの長い苦しい戦争、大東亜戦争、の幕を閉じさせることができた、と考えている人がいますが、本当にそうでしょうか? そうした考えは、アメリカの一般市民殺傷を目的とした原爆の使用を正当化する屁理屈と同じであるばかりではなく、私達が今後も一同になって取り組んでいかねばならない原爆、ひいては、核兵器の問題の本質を欠いた考えではないでしょうか?

こうした考えは、被爆され、被爆により愛する家族や友人を失い、今でも、被爆による様々な心身的、スピリチュアル、実存的、な後遺症に苛まれ続けている人達が毎日直面する現実に対してあまりにも無頓着で侮辱的な見方でもあるといえましょう。こうして被爆とその二次、三次的な問題により、戦後70年経った今も毎日苦しんでいる人達にとって、昭和20年8月6日の広島への原爆投下は、新しい戦争の始まりなのです。そして、あの70年前の暑い日に始まった戦争は今でも続いているのです。

広島原爆投下に始まった被爆者達が戦い続けている戦争はただ被爆のトラウマとその後遺症が引き起こす様々な苦しい症状と戦うことだけでなく、今後、絶対に人類が核兵器を使用することがないように、非核世界平和の実現に向けての戦いでもあるのです。世界から核兵器がなくなり、イデオロギーの対立、地政学的、経済的、問題などがすべて解決しなくても、核兵器がまったく不必要な世界が実現すれば、昭和20年8月6日に広島で始まったこの戦争の使命が果たせたといえましょう。

私は、心理学と神学(カトリック)が専門なので、どうしても、こうした専門分野の観点からこのテーマについて考えてしまいます。こうした私自身から観て、広島への原爆投下に始まる非核平和への戦いは、本質的に、人類の間違った核への執着を断ち切る精神的な戦いであると信じます。なぜならば、なぜ、アメリカは昭和17年のシカゴ大学におけるフェルミという物理学者の核分裂実験成功を発端として、ロスアルモスの砂漠の中の研究所で進められたマンハッタンプロジェクトという原爆開発事業を膨大な予算で推し進めたのでしょうか?

この背景の心理は一貫して、不安でした。当初、ナチスドイツが対アメリカ戦にむけて原爆開発をすすめており、アメリカとしてもそれに対抗する為、つまり、ナチスによる核の脅威へのコーピングとしてアメリカはマンハッタンプロジェクトを立ち上げ、独自の核兵器開発に躍起になったのです。しかし、このプロジェクト半ば、ナチスは降伏し、アメリカへの核の恐怖はなくなり、本来なら、この時点でマンハッタンプロジェクトを中止し、核の恐怖からの開放感を享受すべきだったのですが、なぜ、アメリカはそれでもマンハッタンプロジェクトを強引に押し進め続けたのでしょうか?

この時点では、かつての不安という心理が、科学者達の未知の強力な核兵器への好奇心的な執着、そして、原爆開発へ多大な投資をした企業や投資家達の金銭的な貪欲な執着があると考えられます。だから、たとえ、ナチス降伏により核の恐怖からの不安がなくなったとはいえ、原爆開発プロジェクトを慣行せねざるを得なかったのです。この執着の心理は、一度何かの依存症に陥ってしまった人が、誰が何と言おうが、理屈では依存がいけないことをわかっていても、どうしても止められないようになってしまった中毒状態に例えられる精神病理だといえましょう。

こうした中、当時、まだアメリカと対戦中の日本は、マンハッタンプロジェクト完遂にとっての格好のターゲットとなったのです。実は、日本も、アメリカに比べれば非常に小さなスケールでしたが、独自の原爆開発を秘密裏に仁科博士をリーダーとして湯川博士も関わり、理化学研究所で行っていました。まあ、これは失敗に終わりましたが。もし、日本の原爆開発が成功し、アメリカより先に原爆を手に入れていれば、日本はアメリカへ原爆投下していたでしょうか?考えただけでも、背筋がぞっとします。

つまり、現在も続行中の世界の核兵器問題の本質には、不安への間違ったコーピングが引き起こした核兵器への執着があり、この執着を包み込んでいるのが核兵器を保有することイコール安全であるという妄想的な安心感です。そして、この不安、不安から引き起こされた執着と妄想的安心感という、核兵器の存在をいつまでも許し続ける依存症的な精神病理を絶ち斬る為ことが、70年前のこの日に広島で始まった非核平和実現への戦いの本質なのです。

ただ、どうも腑に落ちないのは、こうした非核平和への戦いに熱心に参加されている方々の中に、原爆と投下されたことの責任は日本政府が取るべきだ、と厳しい口調で議論する一方、原爆を実際に投下したアメリカ政府に対しては、同じような厳しい口調で責任追及したり、怒りをぶちまけたりしていません。こうした人達の考えは、日本がアジア諸国を“侵略”したり真珠湾を奇襲攻撃してアメリカに宣戦しなければ原爆なんて落とされなかったんだ、ということのようです。だから、アメリカ政府よりも、日本政府の方に責任があると考えているのです。

しかし、いつまでもこうした考えでいては、本当の非核平和は訪れません。そして、日本政府であれ、アメリカ政府であれ、原爆投下と被爆者達の苦しみの責任を執着的に追及し続けることがあたかも一種の非核平和への道であるかと勘違いしていないでしょうか?
確かに、原爆投下に対する政治的責任と道義的責任は、アメリカ政府だけでなく、日本政府にもあります。しかし、どちらの政府にどれだけの責任があるからどうのこうのと70年経った今でも血眼で議論することは、問題の本質追及し解決することを欠いたものであり、的外れな不毛な議論だと言っても過言ではないでしょう。なぜならば、こうした議論の背景には、理性が欠けた感情論しかないからです。だから、怒りという激しい感情の矛先を問題の表面的レベルでしかあっちこっち、アメリカ、日本と振り回すだけなのです。しかし、理性によってこうした感情のベクトルを決めれば、その矛先は、本質的には日本でもアメリカでもなく、人類すべてに共通の心のアキレス腱ともいえる、仏教でいう煩悩、キリスト教でいう罪、の心にあるのではないでしょうか?この問題視的は何も、人間の本質が悪であるというような、韓非子や荀子による法家思想的な性悪説を言っているのではありません。ただ、人間の心は本来、慈悲や愛を求め、お互いに共感し合えることで進化学的にも存続し繁栄することができるものであり、こうした進化論に沿った生物学的、心理学的な事実は、人間が生来持っている善である心の本質を煩悩や罪という穢れを改心という精神的な禊により回復しようという、仏教やキリスト教にある宗教学的な教えと同じものなのです。

こうした、日本政府であれ、アメリカ政府であれ、何か特定な対象を非難の対象とをすことで、原爆問題、核兵器問題を議論する意義を見出すことは、キリストを殺したのは”ユダヤ人”であると批難することでキリスト教における”十字架”の意味を理解する間違った考えと本質的には同じ心理です。だから、キリストを十字架での死に追いやった本当の問題は、不安、嫉妬、怒り、そして妄想的な安心感の追求や自己的利潤追求への執着といった人類共通の心のアキレス腱を狙う悪魔による心の腐敗であったことを見過ごしてしまうのです。よって、日本政府にどれだけの批難の対象があり、アメリカ政府にどれだけの批難の対象があるかどうか怒りによる感情だけでしか議論できない人は、こうしたキリストの死にまつわる間違った議論と同じような愚を犯しているのではないでしょうか?

よって、問題の表面的なレベルに拘ることなく、もっと、理性を活かしたマクロな視点と深い洞察力で広島と長崎の苦しみと核兵器問題の本質について考えねばなりません。

確かに、日本が軍国主義に走っていなければ、日本がアメリカに宣戦なんぞしていなければ、そして、日本がもっと早く、最低でもイタリアやナチスドイツが降伏した時点で連合国軍に降伏していれば、原爆投下はなかったと言えないわけではなりません。

しかし、原爆問題や核兵器問題を、どこの国の責任云々と怒りによる感情論であれこれ議論して、日本が軍国主義に走らず、真珠湾を攻撃したりしなければ原爆は日本に落とされなかったから日本政府が悪い、とか、アメリカはもうすでに天皇陛下の昭和20年7月の御前会議時点で明確にされた戦争早期終結に向けてアメリカと和解する意向を察知し、しかも、ヨゼフグルー元駐日大使が日本との和解交渉を進言していたにもかかわらず、こうした事実を故意に無視し原爆を投下させたことから、アメリカが憎らしいと言ったところで、どちらも非核平和実現と広島と長崎の苦しみへの癒しにとって本質的には不毛です。
矛先が間違った怒りは、新たな憎しみを産み、そしてその憎しみが新たな怒りの連鎖反応を引き起こし、それを核兵器への妄想的な安心感を追求することになれば、再び、核兵器が長崎に続いてどこかに落とされかもしれません。キリストの死をユダヤ人のせいにし、ユダヤ人への憎しみを扇動させ、この憎しみの連鎖反応が世界の歴史にどのように影響してきたかを考えれば、問題の本質を欠いた考えの的外れの恐ろしさが理解できるでしょう。広島で始まった私達んの反核平和と癒しの戦いは、こうした本質を欠いたことが引き起こした愚の轍を踏んではならないのです。

私は、かつて、日本人として、そして、広島と長崎で被爆された方を数人知っているので、原爆投下を決断したトルーマン大統領がすごく憎かったのですが、もっと歴史を学び、トルーマンの立場の辛さについて考えるようになれば、トルーマンに対しての憎しみが、彼に対する気の毒さに変貌してしまいました。

トルーマン大統領、さぞ、辛かっただろう、誰にも言えない辛さがあったはずだろう。。。といった一種の共感でしょうか。

トルーマン大統領だって一人の人間として、原爆なんか投下し多くの罪のない広島と長崎の一般市民を大量殺戮することで戦争を終結するのではなく、日本と終戦交渉を進めたかったはずです。しかし、そうさせない圧力がトルーマンや戦争終結に向けての対日交渉を買って出た日本通でもあったグルー元駐日大使などのアメリカ政府内部の原爆利用反対派にかけられていたのです。この圧力の本質こそが私達の怒りのベクトルの矛先が向けられるべき対象ではないでしょうか?

生来善である人間の心を悪で腐敗させ、お金儲けの為になら動物だけでなく同じ人類すら平気で何人でも殺せる、核兵器開発と販売による利潤を執着的に追求する依存症的な精神病理こそ、70年前の今日広島で始まった私達の反核平和の戦いの矛先ではないでしょうか?

そして、こうした精神病理の種は、この反核平和と広島と長崎への癒しの為に戦い続けている私達の誰にでもあることをも決して忘れてはなりません。この恐ろしい精神病理の種は仏教でいう煩悩であり、キリスト教でいう罪の心です。これが本当の魔物であり、問題の本質でもあり、克服すべき落とし穴でもあるのです。




広島原爆投下、人類が人類に対して始めて核兵器を利用した日、そして、反核平和への戦いが始まった日から70周年を記念する今日、私達はまず、人類共通の心の内部にある隠れた煩悩という敵に正義の矛先を向け、愛と慈悲を"武器”として、常に己を理性と精神的内省により律っしながらこれからも、まず、人類の心共通の煩悩、罪、から戦っていきましょう。そして、本来善である人類の心の本質を死守していきましょう。この戦いこそが、被爆により犠牲となった無数の方々の御霊と被爆者の今でも続く苦しみに癒しをもたらし、世界から核兵器のない本当の平和が実現できることの戦いの本質でもあるわけですから。


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