Friday, March 11, 2016

東日本大震災から5年目の記念日に際して、四旬節にあるクリスチャンはどうあるべきか

東日本大震災から丁度5年目を向かえました。一見して、今の日本はあたかも5年前の大震災があったのきあなかったのか分からないほど“Back to Normal”の呈を示していますが、そうしたfaçadeの背後には、あたかも”臭いものに蓋“をされたように扱われている、大震災の長引く後遺症に苛まれ続けながら生きている人達が今でも沢山います。

こうした”陰“の部分の”復興“の現実について昨日書いたブログでも触れましたが、今日はキリストを信仰するクリスチャン、特に、キリストを三位一体の神学概念の中で理解し、キリストの本質でもある聖霊の働きを重視しながら聖霊による刷新をすすめる日本のクリスチャンの姉妹兄弟達に語りかけたいと思います。

この俗世界に生きる私達は、復興、復興、と騒ぎ立てても、復興が進めば進むほど、蓋をされて覆い隠された長引く苦しみの中にいきる被災者達と復興の利益が享受できる人達とのギャップが更に拡張していることにどれだけ知っており、関心を払い、こうした認識に対応した行動をとっているのでしょうか?聖霊の働きを重視するクリスチャンとしてどうなのでしょうか?このようなギャップがある限り、私達がマスコミや政府の宣伝を通して認識していることは本当の復興なのでしょうか?

私達、主イエスキリストの名において聖霊による刷新の触媒たる僕はこうした問題にどのように対処すればいいのでしょうか?

ただ原発今すぐ止めろと闇雲に恐怖的感情だけで叫んでも解決するものでもありません。これは福島の風評被害の問題のようなものです。そして、それは偽善者がただ自分をよく見せる為にやっているようなものでしかありません。イエスはこうした見せびらかし的偽善行為を厳しくとがめ、この話は、四旬節に入る際の灰の水曜日の福音朗読において私達も自戒しました。本当に原発を止め廃止したければ、まず私達一人一人が最低自分の消費する電力を30%カットし続けることです。このことは、電車、とくに桁外れの電気を食う新幹線、の利用を即刻カットすることをも含みます。いったい何人こうした斬新的な行動による“改心”ができるでしょうか?

私達が思っている被災者への寄り添いというのは、やはりどうしても偽善的な要素が強く、五年目にあたるこの四旬節に改めて反省してみる必要があるのではないでしょうか?そして、反省し、改心していき、それを今後の違った行動で示していく為にも、やはり聖霊による導きが不可欠ですね。

これは、xに適当な数を当てはめればどんな複雑な式であろうが必ず答えが出るといった方程式的な問題ではありません。だからこそ、人間の常識、理論的思考において理解しえないが現実である聖霊のお世話になるしかないのです。浄土真宗的にいえば、“南無阿弥陀仏”よりも、“南無聖霊”、つまり、聖霊に帰依します、ということですね。そして、聖霊は智恵の光による導き(Parakletos)でありまた正しい行動を遂行できる原動力でもあります。だから私達も聖霊に満たされればそれまでの人間の常識や知恵だけでは不可能とされていたことも可能にする触媒となれるのです。方程式のような数式を超越した聖霊による新しい“方程式”を立て、解を探しだしていくこともできます。

こうした意味でも、私達が復興について改めて考える際、先ずは聖霊を呼んで、聖霊の導きに“南無”しつつ、マインドフルにいれば、その聖霊が示さんとする解決へのビジョンがあぶりだされてくることが認識できます。そして、それがエアコンをこれからもう永久的に使わないことなのか、もう新幹線に乗らず、何度不便な乗り換えをしながら在来線で旅することなのかもわかってくるでしょう。

東日本大震災の記念日が四旬節の最中であるということは単なる偶然ではなく、私達クリスチャンにとって今までの考え方や感じ方、そして、それを反映したこれまでの行動を聖霊の導きにより検証、再検証し、悔い改め、改心することを反映した違った行動によって、これからの復興に取り組んでいくことではないでしょうか?

旧約聖書の預言書やエズラネやネヘミア書にも記されているように、バビロン捕囚からの帰還後に、あたかも爆撃を受けたように破壊されたエルサレムを先ずその神殿から新たに立て直すことで復興させる際、当時の指導者達は神の声に耳を傾け、神の意図するように神殿を再建し、エルサレムを復興させました。そして、神は新しい神殿とエルサレムの復興を喜び祝福しました。この歴史的事実からおよそ2、530年経った今の日本で、私達は東日本大震災からの復興について取り組み続けています。しかし、私達は本当に神の声に耳を傾け、神の意図の認識にそった復興への行動をとっているのでしょうか?それともマスコミや政府のプロパガンダといった俗世間の喧騒、それに、偽科学や先述した偽善者による“教え”だけしか聞こえてこない愚人なのでしょうか?

聖書をつっこんで読めば分かりますが、バビロン捕囚時代に悔い改め、心新たに廃墟となったエルサレムに戻り、神の声に聞き入りながらこの都市を復興させた人達は、なんと、その復興から一世代経つか経たないうちにまた神の声よりも俗世間の声や偽善者の教へと傾きはじめ、その挙句、復興後のエルサレムはまた腐敗し、復興から500年ほどたってイエスが降臨した頃までには、神の名において貧しい人達は巻き上げられ、その一方で神の名を使って宗教ビジネスをやっていた指導者達はローマ帝国にゴマをすりながら私腹を肥やすまでになってしまいました。そして、こうした腐敗した指導者達の陰謀によりキリストは殺されたという旧約聖書から新約聖書へのつながりからの教訓は、この四旬節に改めて東日本大震災からの復興について私達クリスチャンのありかたを再検証し正していく上で“温故知新”してみる必要があるのではないでしょうか?

バビロン捕囚開放後に復興されたエルサレムがどうしてまた腐敗の象徴となり、こうして堕落した都市を精神的に復興せしめんとしたイエスを謀殺するまでになり、貧しい人達がどんどん取り残されたままになったのでしょうか?そして、このことと、過去五年間の“復興”の陰に置き去りにされた今も尚大震災の後遺症に苛まれ続ける被災者との“陰陽”関係には何かのつながりがあるのでしょうか?


それとも、ただ私達はこんな面倒なこと考えるよりも来るイースターにただただ心を馳せるだけの薄っぺらい形だけの信仰しかできないクリスチャンなのでしょうか?

No comments:

Post a Comment