Tuesday, March 29, 2016

浪人人生30年のフーテンが今年の浪人生諸君へ贈る言葉 




桜が咲き始めるこの季節、志望校に合格した方々、桜のつぼみが膨らむように、胸が希望で膨らんでいることでしょう。でも、そうした人達よりも、統計的にみれば、合格しなかった人達の方が多いのが現実です。倍率が1.0以下の学校ばかりならばそうではないですが。

今年、志望校へ進学する準備に希望の胸膨らませながら忙しい友人を横目に、浪人生となってしまった今からどう頑張って臥薪嘗胆するか落ち込む暇なく考えている諸君に、私自信の体験に基付く、浪人の極み、をお伝えしましょう。馬鹿にするな、俺のこと!と憤慨してしまった方、申しわけございませんでした。お詫びいたします。どうか、スルーして受験勉強頑張ってください。しかし、こうしたことを読む余裕がある浪人生、しばらくのお付き合いを。何か考えるものがあると思います。

この時期になると、私は毎年、統計の陽の当たる部分から外れて陰の部分にあったかつての自分を思い出します。当時、巷の桜のつぼみはいくら膨らんでいても、私の胸は寧ろ干しぶどうのように萎んでしまいました。これを三度の春経験したんで、しかも、野球では三振バッターはアウトですから、もう自分には花が咲かない、そうであれば、実を結べない、つまり、何の役にもたたない生きていても何の意味のないみたいなできそこない、不良品、だと思い、いっそ、死のうかと思ったこともあります。一浪目ならまだ、周りも、また次があるから頑張れと励ましてくれます。一回目のストライクで、ドンマイ、ドンマイ、次、狙っていこうぜ!と励ましてくれるように。でも2回目の浪人となると、自分への周りの視線もガラッとかわってきます。そして、3浪ともなると、既に合格して大学生活をエンジョイしている連中達とは違う世界にいるような感じがしてきます。俺はあいつらとは違う道に入り込んだんだといったような気がしてきます。これが、心理的な浪人です。バッターアウト!、つまり、あんた、出て行きなさい!とアンパイヤーから追い出しの令を受け、去らねばならないのです。今度は当てますから、あと一度、チャンスください!、と言っても駄目。チームの中には同情してくれ、そうだ、あと一回チャンス与えてやれと言ってくれる人もいるでしょうが、アンパイヤーは、決まりは決まりだ、の一言で撥ね付けるでしょう。だから、3浪以上の受験生に対する風当たりはこのように冷いものです。

はるうららかになりつつあるのに、こうした挫折による辛酸をなめ、疎外感に浸ってしまうと、回復不可能にまで落ちこみ、酒、タバコ、麻薬、セックス、ギャンブル、犯罪なんかにのめり込む人もいれば、こうした回り道せずに、自滅への最短距離を行き、衝動的に自殺してしまう人もいるでしょう。実は、私の場合、このどちらでもなく、本心本名の浪人として、合格してまじめに大学生になった堅気な連中とは違う、ちょっとやくざでフーテンな道を行くことにしました。まあ、男はつらいよの車寅次郎がいつも馬鹿扱いするオヤジと大喧嘩して反抗声明としてプイッと家出し、そのまま、浪人、つまり、フーテンとなってしまい、フーテンの寅さん、となったような感じです。

だから私皆のようにまじめに日本の大学で学ぶことなく、ギャラがいいので英語を使うバイトを重ね、日本の大学に入れなかった腹いせにアメリカの大学入学に必要なテストを受け、気がつけば、アメリカの大学の学生になっていました。そして、卒業したものの、いざ日本で就職して、やっとフーテン生活から足荒い、日本でまじめに大学出て社会人になっている連中と同じように堅気で安定した生活ができると思っていました。しかし、当時、バブルがはじけ、しかも、湾岸戦争の影響もあり、ダブルパンチの不景気で、思うように就職できませんでした。そこで、仕方がないので、大学院にでも行って時間を稼ごう、それに、上のレベルの学位をとれば、道が開けるだろう、と楽観的になって、大学院へ進学し、それなりの成績で、しかも、論文もパスして修士の学位を頂いたのですが、だからといって、日本に帰国して思っていたような堅気な生活への道は見えませんでした。

私の当時の大学院での専門はカウンセリング心理ですが、その頃、つまり、1990年代、まだ日本ではメンタルヘルスにおけるカウンセリングや心理療法で一人前に食べていけるだけの道はあまり確立されておらず(今でもそうみたいですが)、せっかくわざわざ苦労して修士まで取ったのに、乞食になる為に日本に帰るのは馬鹿馬鹿しいという気がして、アメリカで臨床経験を積みながらもうしばらく食べていくことにしました。しかも、メンタルヘルスの臨床家にとって、当時、アメリカでは日本よりもフルタイムでまともな生活が出来るほどの給料と福利厚生をいただける道が開かれていましたから。

こうしてアメリカでそのままメンタルヘルスの臨床をやっていましたが、大学病院のホスピスで悲嘆カウンセリングをしていた時、人が死に直面したり、愛する人を亡くした時の悲嘆という心理的反応は、大学院でそれまで学んだ普通の臨床心理学の領域ではなかなか扱いにくいものがあると実感しはじめ、こうした患者さんが、より哲学的、とりわけ、実存学的なこと、を宗教観やスピリチュアルなことに絡めて問いだすので、この分野における臨床家としての自分の限界を感じはじめました。

そこで、当時、まだ日本では知られていなかったチャプレンという病院の臨床宗教師、がこうした分野を扱うことができる専門家であることを知り、彼らと相談した結果、自分もこの道を進む為、また大学院で勉強することにしました。その頃、日本では臨床宗教について大学院レベルで学べるところはありませんでしたので、またアメリカで更に居候するという結果となりました。そして、それまでの心理学の知識と経験をベースに神学や哲学を人の苦しみや悲しみの現実に結び付けて深く学びました。

臨床宗教サービスの質の高さで評判な総合病院での基本的な実地訓練も終え、また更に学位を習得し、これで、やっと日本に帰って、カウンセリング心理の分野だけでなく、病院などでチャプレンとして、臨床パストラルケア、スピリチュアルケア、の分野でも活躍できるぞ、と期待に胸が膨らみ、ネットで調べ、あれこれとコンタクトを取って、 堅気に日本で暮らしていける道を再度探しました。しかし、こうした期待とは裏腹に、どこからもいい反応はなく、結局、今でもアメリカでフーテンな生活なのです。

気がつけば、アメリカへフーテンしてきてからかれこれ27年経ち、今年の夏で28年目です。その間、学士、二つの修士と、3つの学位をとったことをバネにして日本へ戻り、日本で大学に合格し卒業して社会人として堅気に生きている皆とこれでやっと一緒に足並みをそろえて生活できるということに胸を膨らませて、帰国への道を探りました。しかし、どれも、閉塞的で、今思えば、これでまたかつて自分が日本で志望校目指して3浪したように、3度目の空振り、つまり、三振バッターアウト、で日本で皆と同じように堅気で余生を過ごせる道は永遠に閉ざされたような感じがします。

あのとき自分はもっと勉強して志望校に無事合格していれば、現役合格するほど脳みそがなかっても、せめて1浪でなくても2浪で合格していれば、今では日本でしっかりとした堅気の社会人だったはずでしょうが。アメリカで寄り道することでかえって日本での堅気の道が開けると思ってアメリカで頑張ってきて27年。そして、その間、また3浪、つまり、3度のトライがすべて失敗。また、自分の名前や受験番号が合格者発表の掲示板になかったあの春の日が鮮明に思い浮かんできます。

どうやら私の人生は永遠に浪人、つまり、フーテンです。いままで何をやっても駄目、というか、その本来の目的、つまり、日本で大学合格した皆と同じような堅気の道を行くこと、を果たせませんでした。ここまで来れば、もうどうこう言っても仕方がないことでしょう。となれば、私は浪人として、フーテンとして、これからも一生日本に帰ることなく生きていくしかないと悟るしかありません。これぞ、私なりの浪人の極みです。

私自身の日本での3浪生活、そして、アメリカへ放浪してから27年間の浪人生活を通して悟り、今年浪人生となった諸君に申したいのは、浪人したからといってあまりネガティブな自己認識をしないで欲しいということです。なぜならば、浪人という寄り道をした人生のほうが、いや、それ故に、何か得るところがあるからです。そして、それが何かを自分なりに探索し、見つけだし、自分のものとして更なる成長に活かしていくことで、皆も浪人生活を極めることができるはずです。

私にように30年も浪人していると、確かに得るものは沢山あります。日本で就職し、堅気に暮らすということに囚われていれば、私の浪人人生は落ちこぼれ、失敗、とか難とでもいえるでしょう。しかし、浪人には浪人なりに極める道があることを悟れば、そして、こうしたことが理解できる程の頭脳と心のある人がいれば、浪人という、統計学的にいう平均とは違ったユニークな人生で自分を豊かな人間として成長させていくことができます。浪人というあなたなりの成長の道には、受験テクニックのようなものや、GPSナビゲーターのようなものなありません。すべては試行錯誤です。或る意味では、確率論的に感じるところが多いかもしれません。しかし、こうした一見、バラバラに思われることから帰納的に何かを見つけ、それを体系的にしていくところが浪人生の成長への人生の道での腕の見せ所です。まあ、統計学や確率論が好きな人であれば、自分の人生は平均から漏れているが、いわば、標準偏差(ばらつきの法則)のようなものだと割り切ればいいのです。統計学を究めれば、標準偏差という値が平均という値よりも数学的価値が高いものであることが分かります(それに、統計学の試験にもこうしたことが問われるでしょう)。だから、浪人生となったあなたも、もう平均にこだわることをやめ、これからは標準偏差を極める道を思う存分悔いないように歩んでください。極めれば、あ~、俺は標準偏差でよかったと納得できるはずですから。

フーテンの大師匠、寅次郎兄貴の歌にあります、どぶに落ちても根のある奴は、いつかは蓮の花と咲くと。なんとなく、汚い泥からきれいな花を咲かす、蓮という、穢土あっての浄土というべく、仏教的な象徴でもあります。大学合格という平均からもれるというと、寅さんが歌うようなどぶに落ちたと見なす人もいるでしょう。でも、そういう感じる時、そう感じされられた時にこそ、浄土を象徴すべき蓮の花を思い浮かべ、その根がどこにあるのか考えればいいのです。

よし、浪人の先輩として現在の浪人生諸君に、受験勉強をかねて一つ英語の問題を出しましょう。
問題:あなたなら寅次郎兄貴(大師匠)の口癖、結構、毛だらけ、猫灰だらけ、ケツの周りは糞だらけ!をどう英訳しますかな? こうした英訳ができるようになれば、英作文に関しては、現役合格した連中よりも浪人生としての諸君の方が標準偏差 的に優れた英語力を有していると私は評価します。

で、浪人生としての先輩である私は、A cat with quite fluffy fur, covered with ashes, with full of shit around his ass. と訳してみたんですが、皆さんはどうですか?人それぞれ訳しかたがあっていいとおもいます。浪人しててスランプなどにぶつかり、クソっ!と言いたくなる時があるでしょう。そうした時こそ、こうした表現をあえて英語でしてみて、スランプを英語の勉強を兼ねて解消していくのです。

ところで、もっといい訳あるかな?私が大学入試英語問題作成委員だったらこうした問題を入試にしたいんですけどね。浪人の人生を過ごしてきたからこそそう思うのかもしれませんが。。。別に英語が専門ではありませんが、本当は英語よりも専門である心理学や神学、宗教学とこれらの関連科目を教えたいんですけど、英語も教えますよ。こんな英語でよろしければ。日本のどっかの大学で雇ってくれませんかね~?、なんて言い出したら私は今でも平均への未練があるようだ(と自分で自分を精神分析)。いけませんね、私としたことが、まだ、平均への執着という煩悩を完全に克服していないんですから。。。因みに、こういう毛色の英語は、浪人した学生の方が現役合格した連中よりも上手になる確率が高いというのが私の検定仮説(H1)です。堅気で役人的な英語の先生からはこうした英語は習うことはないでしょうが、私のようにフーテンでやくざな人からはいつでも習えますよ。だから皆さんも、私の仮説を支持できるように、型にはまった平均的な人間にならないように浪人生活を大いに意義深きものとして、次の目的達成に励んでください。

どうか、結構、毛だらけ、猫灰だらけ、ケツの周りは糞だらけを英語で言えるような標準偏差的な意義深い浪人生活を!応援しております

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