Thursday, March 10, 2016

東日本大震災から5年目の復興への道のりの分水嶺



今日、平成28年3月11日は2011年に起きた東日本大震災から丁度5年目の記念日です。5年という節目であり、今までの大震災記念日よりもより深く考えてみたいと思います。

この5年間、仙台などの都市部ではインフラ復興は世界でも注目される程の急ピッチで行われましたが、これは“陽”という現実の一面でしかありません。“陽”があれば必然的にその影といえる“陰”というもうひとつの一面があります。大震災から5年間、私達は“陽”のことばかりに気をとられすぎていなかったでしょうか?

あまり目を向けてこなかった“陰”という同じ現実のもう一つの側面において、まだまだ大震災の長引く後遺症と共に生きている人が沢山います。私達の多くが震災後新しく立て替えられたビルなどを知っていても、大震災後、ほとんどまったく同じ不便な生活をし続けている人達、また、更に生活の質が低下していっている人達が沢山いることにどれだけ関心を示しているのでしょうか?

この5年間、復興、復興、と頑張ってきましたが、その努力の背後で、大震災の後遺症に苦しみ続ける人達のことを忘れつつあるのではないでしょうか?

人は、頑張ろうが、頑張っている人からみて“頑張ってない”ようにみえても、人それぞれ、今生きている意義があるのです。それは、千差万別であり、金太郎飴的な尺度で測れ、理解できるものではありません。しかし、私達の頭というものは、合理性とかいう言い訳でもって物事をすべて“平均値”で割り切ろうとする癖があり、“平均”という“多数派による理想”から“標準偏差”というマージン以上かけ離れ、遅れていれば、“存在していないのと同然”として“破棄”、あるいは、“無視”してしまう傾向にあります。政策というものは得にそうではないでしょうか? “統計学的”に物事を処理してさっさとことを進めようとすると、“陰”という同じ現実のもう一つの側面がどんどん見えなくなってしまうという危険があることを、この5年目の節目の日に改めて考える必要があると思います。

この5年目の節目に、改めて、今までの復興、復興、のあり方を再検証することは、何も、これからも続けていかなければならない復興にブレーキをかけるものではありません。ただ“効率”を理由に、“平均“を重視しすぎた”統計的処理法“でしか前ばかりにしか目を向けずにがむしゃらに前進し続けることが果たして日本の本当の復興なのか、改めて問いただすことで、私達は、何か置き去りにしてしまったものがないか自問できるのですから。そして、置き去りにされたものや人達が、相対的にどんどん”後退“していくようになってしまいます。

自動車を運転する時、前方に注意を払いますが、それと同時に、鏡で随時後方も確認しますよね。ただ前ばかりに注意を払っていることが安全運転ではないのですから。

後ろを見ることで、置き去りにしてきたもの、“待ってくれ~!”と一生懸命叫びならが後ろから追いつこうとする人達の存在に気付くものです。
 
あなただったらどうしますか?

いちいち後ろなんか見なくても安全運転できるという自信からどんどん後ろを見ずに加速していきますか? 或いは、例え鏡で後を見たとしてお、置き去りにしてきた仲間の何人かが一生懸命自転車で追いつこうとしていることを、時間がもったいないからといって、あえて無視して走り続けますか? それとも、後ろから忘れていた仲間のうち何人かが一生懸命叫びながら追いつこうとしていることに気付き、車を止め、待ち、そして、皆で、残された人達とも一緒にペースをあわせて前進できるようにひとまず戻りますか? 或いは、後戻りして置いてきぼりにしてきた人達と一緒になりたいが、戻ることにより過去のトラウマを再体験することが怖いので“気の毒”だけど、そのまま戻らずに後ろから追いつこうする置いていった仲間を振り切って更に加速しつつただ前進しますか?

節目である記念日とは、後ろが見える鏡に目をやり、置き去りにしてきた人達のことを改めて認識し、良心にそって、後戻りし、こうした人達とも一緒に進めるように再出発できるようにする機会ではないでしょうか?

戻ることでまたトラウマを再体験するのではないかと心配する人もいるでしょう。それ故に、あえて後ろ見ずに今までただただ前進し続けてきた人もいるでしょう。しかし、全ての人がまだそうでないにしろ、5年という時間が経ち、今では時間的にも地理的にも、置き去りにしてきたトラウマの場に戻る勇気と力があるのではないでしょうか?そして、このことへの不安をかき消すのが、そこに今でも残され、トラウマから逃げ切れず、震災の後遺症に苛まれ続けている人達への共感性なのではないでしょうか?

メンタルヘルスと臨床パストラルケアの二つの分野でトラウマを経験された人達の回復のお手伝いをさせていただいている経験に鑑みて、本当の意味での癒しと回復は、トラウマを受けた過去の状況に立ち戻る力が湧いてきた時に始まります。それまで“回復”だと患者さんが思い込んでいた“前向き”な行為は、実は、過去のトラウマの痛みからの“逃避行”でしかなかったと気付くのです。本当の意味での癒しとは、自分ひとりが救われればとか、自分は人一倍努力したのだから自分だけであろうが自分が救われるのは当然で、あとの人達がどうであれ、自分の知ったことではない、と“割り切ろう”とすることも、臨床宗教的にみても、臨床心理学的にみても一種の“逃避”行為なのです。

トラウマのある後ろからただただ逃げ続けるような形だけの“前進”すること、“頑張って前進”できる自分からみて“頑張れない”人達がとりのこされた“惨めさ”を思い起こしたくないから、あえてこうした人達のことを考えないようにしながら“前進”し続けるということは、砂上の楼閣を構築するような努力をすることです。

本当に過去のトラウマや辛さなどによる束縛から自由になれるような形の復興を目指すには、車の運転の際に後をただ鏡で見るようにするだけでなく、必要に応じて後方に何か気付いたものがあれば、恐れたり面倒がらずに戻り対処できるようになることです。再トラウマを引き起こすことを恐れること故に逃げ続けてきた震災の過去とそれを彷彿させる場所との心の清算ができるということが絶対必要条件なのです。それができれば、だれもそこに置き去りにされることもないでしょう。

今までの5年間の復興という名目の前進、本当にこうした心の清算をしながら行ってこれたでしょうか?もし、過去のトラウマを再体験することを恐れるが故、清算しきれていない過去のトラウマや痛みから逃げ続けることで残し続けてきた精神的なしこりが、やがて意識の表面にまで浮き上がってきて、前方の視界を霧のようにさえぎり、事故を起こすような形で復興が終わることもあります。常に鏡で後方を見ていれば、この霧が背後から視界を包み込んできていたことを手遅れになる前に察知でき、安全に徐行運転すること、或いは、一時停止することで致命的な事故だけは避けることができます。しかし、過去との清算ができ、過去からの再トラウマをもはや心配することがなければ、何からの逃げる必要がありません。つまり、過去の恐怖から逃げることで、ついに恐怖に呑まれてしまうという愚に陥らないような復興の前進が必要です。この教訓について無知な故、過去の恐怖からの逃避行による進歩は、時が経つほど、より多くの人を取り残すだけでなくこうした人達の厳しい“陰"の現実をどんどん忘却してしまいます。そして、偽りの”陽“だけのみせかけの復興におわり、それも、恐れていた過去から逃げ切れなくなってしまった時に砂上の楼閣の如き瓦解してしまいます。

5年目の今日、加速的に頑張れる自分達だけが復興し、復興とはこうして自分達のように頑張ることができる人達だけの“特権”なのか、それとも、頑張ることができるからこそ、もっともっと今でもまだ大震災の後遺症故に頑張りたくても頑張ることがなかなか難しい人達を支援することに頑張るべきなのか、改めて考え直す時ではないでしょうか?そして、今までの復興の道のりが過去のトラウマを再体験することを恐れるが故の逃避行でなかったかもしっかりと再検証することも必要ではないでしょうか?功利主義による物質的な復興だけなのか?それとも、思いやり、優しさを重視しつつの希望に満ちた前向きな心を中心とした復興なのか?こうした問いに答え、これからの復興への道のりの方向性を決める一つの分水嶺に来たのではないでしょうか?

この分水嶺から先の復興への道程はいつも鏡で後ろを確認しながら安全運転で前進したいものです。

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