Tuesday, March 22, 2016

春の彼岸後の思わぬ寒さに想うこと

暑さも寒さも彼岸まで、と申ふせども、春の彼岸と思ひきや、けふは寒ふござる。そこで思はず一句。

東風吹かず、桜まだまだ、いついつ咲かん。然らずば、寒風吹けど、今はかほらん、梅の花。

仲田昌史

もう春の彼岸も過ぎ、桜の四月がそこまでというのに、彼岸前からのここ数日、あたかも未だ2月のような感じの寒さです。何か、梅の花のあの香りが恋しくなりました。桜の甘い香りが待ち遠しいとは言えど、寒さが戻ると、梅の甘酸っぱい香りもいい。

3月も下旬の今、2月の梅は去り、4月の桜は未だ。もうすぐだという桜は今日この頃の思わぬ寒さのせいで遠のかされたような気がする一方、もう既に散ってしまった梅の花へ心が馳せる。

今年は東日本大震災から丁度5年目ですが、復興、復興とこの5年間、期待だけが先走りしてきた感じが否めません。そして、今もなお仮設施設などで不便、孤独な暮らしを強いられている多くの被災者達が忘却されつつあります。このことは、どことなく、来る春への期待だけが先走りする故、震災時、震災直後の死者や被災者達のことを忘れがちになる私たちの心理的傾向と相通ずるところがあるような気がします。

あの寒い日を境に、多くの命が流されてしまいました。あの日流された命は、或る意味では、彼岸を過ぎた今では散ってしまった2月の梅のような感じがしないではありません。“川は流れてどこどこ行くの、人も流れてどこどこ行くの、そんな流れが着く頃に、花として、花として咲かせてあげたい”、と“花”という歌を口ずさんでしまいます。あの日、津波という“川”で流された人達はどこへ着いたか未だ定かではありませんが、この歌が願うように、そして、"花は咲く“という大震災後の希望を託した歌にもあるように、辿り着いた先々で各々の花となって咲くのです。そして、私達が忘れない限り、私達の心という辿り着いた所で、毎年、毎年、咲くのです、なぜならば、私達の心からの想いがこうした花を咲かせることを可能にするからなのです。


もうすぐ桜の花の季節だというのに、思わぬ季節はずれの寒風に曝され、今では散ってしまった2月の梅が恋しくなるということは、あの大震災で流されていった命が辿り着いた先々で咲かせた花を今一度想い、そして、今でも困難で不便な生活をしている多くの忘れられつつある被災者への想い、を忘れないようにすることかもしれません。こうしたことを忘れずにしてこそ、流された人達が、今尚苦しみと悲しみにある被災者と、そうではない人達も全てが一緒に楽しめる心の花を咲かせてくれます。こうした本当の意味での心の復興の到来は待ち遠しい桜の花が咲くよなものでしょう。

東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花、主無しとて、春を忘るな
菅原道真

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