Tuesday, September 13, 2016

現代人の心の処方箋としての万葉の心にある男女の感受性



初秋の時候の私の創作一句です。

風に揺る 垂れる尾花に 吾想ふ、 何処や何処 其の思ひ草や

仲田 昌史

私は詩人でもなく歌人でもなく、メンタルヘルスの臨床と臨床宗教を専門とするコンサルタントですので、あまり上手な歌を詠むことができません。下手を承知で恥知らずに歌を詠むとすれば、このような歌となるのですが、歌に詳しい方ならすぐにピンとくるでしょう、この歌は私の創作とはいえ、万葉集などにある尾花と思ひ草のコンビを、古代の先人の歌詠み心を想いながら、私なりに詠んだものです。それから、メンタルヘルスと臨床宗教における専門家として、人になかなか打ち明けられないような心の奥底にある孤独感に独りで悩み続ける人達のお世話を毎日させていただいているという立場上からも、こうした歌を詠んでしまうのです。

万葉集、そして、尾花と思ひ草、といえば、 ”道の辺の 尾花が下の 思ひ草、今さら更に 何をか思はむ”(第十巻、二二七0、作者不詳, という恋心の歌をご存知の方は多いでしょう。

ここで言う、尾花とは秋の季語でもあるススキ、そして、思ひ草とは、ススキの裾に生える南蛮煙管という丈が短い草です。思ひ草は、一般に、尾花に寄り添うように生えているので、尾花と思ひ草のコンビは、愛し合う男と女、夫と妻、の一体性の象徴、比喩、だと考えられます。しかも、思ひ草は、その小柄さからして、そばに生えている丈が高い尾花でよく見えないものです。とはいえ、思ひ草は、薄赤色の美しい花を咲かせます。 こうした思ひ草は、奥ゆかしさのある美しさに象徴される日本女性そのものを象徴しているともいえましょう。そして、娶られ、妻となっても、奥ゆかしさと美しさを保ちながら夫のそばに寄り添い続けるように、思ひ草は尾花のそばに生え、人目に目立つことなく美しい花を咲かせているのです。勿論、尾花に例えられる夫は、その美しい花を自分に寄り添うように、かつ、奥ゆかしく咲かせる思ひ草に例えられる愛い妻の存在を有り難く思うのです。

21世紀の今、これが夫婦のあるべき姿なんて言えば、封建的だ、とか、女性の権利に対する侮辱だ、とお叱りを受けるでしょう。しかし、よく考えてみれば、こうした尾花と思ひ草の関係にあるような夫婦関係をその在るべき姿だと思う、というよりも、夫婦というのは、やはり、尾花と思ひ草のような関係にあることへ、ほのぼのとした情を寄せることは、個人の自由だとか、女性の権利、とかいうことのうるさい現在の日本社会が忘れ捨てようとしている先人の感性ではないでしょうか? そして、個人、特に、女性の、自由とか権利にとらわれがちな現在、愛し合う男と女の心や夫と妻の寄り添う愛を尾花と思ひ草に比喩的に投影する万葉の日本的感性が相対的に衰退しており、こうしたことも一因となって現在の日本では、結婚し、子供を授かり、家族を設けて養っていくことを望む若い男女が少なくなっており、少子高齢化へと連動しているのではないでしょうか?

やはり、少子高齢化現象の背後にあるのは、”私、結婚とか、家族っていうのに縛られるのではなく、自分の思うままに自由に生きていきたいの、だって自分の人生だから”、といった”自由”思想だと思います。それから、バブルの頃に育った世代には過保護な育児環境にあった人が多い為、”ママ”がいないと殆ど何もできず、必然的に、恋愛だけでなく、他の対人関係においてもなかなかうまくいかず、慢性的自己不安となり、更に、実存的不安へと陥る人が目立ちます。だから、異性への興味があっても、それをうまく言葉でも行動でも表現できず、ただ一人で悶々と悩み続ける葛藤のストレスの渦中にある若者が多いことが懸念されます。こうした心理的な痛みに対する自慰的な反応として、こうした葛藤から抜け出せない人達には、酒や薬物、そして、セックスなどの快楽追及への依存症に強迫神経症的な症状を伴って陥ってしまう人がみられます。ここでいうセックスとは、本当の意味での愛のない、単なる肉体的快楽への欲求を満たすだけの自己中心的な行為です。だから、結婚へ導けるような恋愛が慢性的にうまくできず、しかも、いつも異性への性的な欲求をうまく処理できないので、病的な性の”オタク”となり、ポルノや売春といった性を売り物にするビジネスの虜となっていきます。勿論、こうした病的な人達の欲求不満の処理がうまくいかぬが故、その根底にあった性的欲求処理に関わる劣等感が怒りとなって、前頭葉の統制も効かなくなって、”爆発”すれば、レイプなどといった性を媒体とした恐ろしい犯罪、精神病理行動へと発展していきます。

一見、こうした現代日本の社会病理とその背景にある慢性化した病める心は、万葉の心にある感性を個人の自由とか権利といったことを主体とした幸せを飽くなき追求してきた皮肉な結果なのではないでしょうか?

別に男女の関係は万葉の昔のようであれと言っているわけではありません。ただ、21世紀の今、この心が病んでいる時こそ、”温故知新”というように、万葉の時代の心にあった感性に戻り、何か心が温かくなるものを感じ取り、これからの時代を個人主義的な自由や権利ということにとらわれることなく、本当の意味での自由に生きていける新しい知恵が得られるのではないかと思うのです。自由でない妄想の自由にとらわれた病み疲れた心を、癒していき、先人達から受け継いできた自然的感性に”温故知新”的に目覚める為にも、私達は改めて万葉の心に触れることが大切だといえます。

ということで、歌に戻りますが、尾花と思ひ草の双方に共通することは、垂れているということです。どちらも上を向いていないからこれらの植物は落ち込んでいる男と女を象徴しているのではないかと思う人もいることでしょう。まあ、そう考えれないとも言えません。もし、そうだとすると、これは、二人で一緒に悩む夫婦だといえましょう。勿論、結婚して家族を養っていくとなると、夫も妻も、父として、そして、母として、あれこれと一緒に悩むことがあり、時には憂鬱になることもあるものです。悩みや心配がなく、落ち込むことが無い人生なんていう”絵に描いた餅”のような人生は、寧ろ、不自然です。このことと同様、二人で一緒に悩み、時には落ちこむことがあることは、愛し合う男と女、夫と妻、父と母、という一体性の人間関係においてごくあたりまえのことです。こうしたことからの逃避としての自由は寧ろ間違った妄想の自由だといえましょう。

だから、この私の歌にあるように、思ひ草が裾に見当たらない尾花は、今の若い人達にみられるような、一緒に悩んでくれる女がいない孤独な男を比喩的に象徴したものです。いくら男だからとはいえ、やはり、やせ我慢することなしの正直な心情を打ち明ければ、一緒に悩んでくれる女がいないと何ともいえないような心情があるのです。これは、かつて恋をした人、また、恋をしてみたいと思う人であれば尚一層でしょう。そして、ただ秋風に揺らされるままの思ひ草のない尾花のように、自由の名の下にどんどん希薄化する人間のつながりを吹き飛ばすような世間の風に曝され、嘆いているのです。そばに寄り添い一緒に悩んでくれる思ひ草のような愛い女はいったい何処なんだろうと、風の吹かれながら嘆いているのです。

こうした意味では、男の正直な心が認める”弱さ”をも含蓄した歌だといえましょう。だとすれば、この歌にある心は、いくら古臭い男性優位の男女関係を思わせる昔の心情を反映したものだからといって、”男尊女卑”で”封建的”だと言い切れるでしょうか?

一見、大きくて力強いように見えても、男の心は結構脆いところもあり、それ相応の感受性もあり、こうした心を一緒に寄り添い悩みながら理解してくれる思ひ草のような女がいて欲しいという正直な心情を詠んだものなのです。

やはり、男と女は感性豊かに恋をして、恋に悩みながらも、その喜びをも知っていく。そして、こうした過程の中に、一生死ぬまで悩みと喜びを共有していきながら成長し続け、二人の愛の結晶として子を授かり、愛情と責任をもって育て、家族を養い、無量の価値の多くの実を結び、遺していくことができるのです。自分だけ好き勝手にできる自由の飽くなき追求の果てに一人ぼっちで悩むことがいいのか、それとも、いつも好き勝手に振舞えるような”自由”はないが、いつもそばに寄り添って悩みも喜びも共有してくれる人がいるほうがいいのか、万葉の頃の感受性高い心に帰って、秋風に吹かれながら考えてみましょう。男も女も、人間にとって一番辛いのはやはり、孤独感です。ついこの間列聖されたマザーテレサは、“孤独こそ最大の貧困である”、とまで言っていますし、これは、誰にも看取ってもらえることなく死んでいくことの実存的、スピリチュアルな苦痛ともつながるもので、どんなに多額のお金を出して、どのような鎮痛剤でもっても緩和できるものではありません。こうした究極苦痛を和らげるのは、何と言っても、尾草と思ひ草が一緒に苦痛を共にできる一体性のある愛の人間関係です。

神を信じる人にとっては、こうした男女の愛の関係は、愛である神(1ヨハネ4:8)とその愛の第一の対象である人間との絆を反映したものでもあります。この意味では、私達人間とは、尾草に例えられる神に思ひ草寄り添いながら生きることで意義のある人生が得られる存在なのです。慈悲深い神は、孤独などの心の痛みを憐れみ、尾花が下を向くように、私達を見つめています。だから、私達も、神の愛に満ちた慈悲の恩恵によって、こうした苦痛が和らぎ、癒され、元気になって思ひ草のような小さな美しい花を咲かせることができるのです。神の元で。

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