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Monday, March 30, 2015

聖なる一週間の聖書朗読の背景にある恐ろしい人類共通の潜在的精神病理




宗教教育及び臨床パストラル心理の専門家の観点からみて、受難の主日に始まり、イースターへと続く聖なる一週間は、心の中に潜み続ける精神病理のカビ、あるいはその胞子を見つけ出し、取り除く一層の努力をする時です。でないと、私達、だれもが、思いがけなく、妬みや不安が引き起こす憎しみや怒りの固まりのような人間へとあっという間に変貌してしまうかもしれないからです。2,000年ほど前のエルサレムでこうしたことにより無罪の男が処刑されました。その男の名はイエスです。そして、この悲劇の背景には沢山の偽善者がいました。

当時、偽善者達は自分達の心のカビ故に、自分達の都合のいいように神の名を使い、神の御子であるイエスキリストをローマ総督、ピラテ、や自分達が神の名において導いていた民衆を扇動し、処刑させました。これを記念するのが聖なる金曜日なのです。

偽善者とは自分の心にカビが生えていること、まだカビが生えていなくてもその胞子があることに気つけない無知な人のことです。こうした意味では、当時、エルサレムにいた一般市民もそうでしょう。彼らは、始め、イエスを救世主だと信じ、称えながら救いへの願いを声高く唱えていましたが、たった一週間もたたないうちに、イエスを熱狂的に憎しみ、彼に対して、排他的になり、あたかも村八分の八つ裂きにする如く、処刑に付しました。平和を好む善良な市民といった平然は顔をして。なぜならば、イエスを処刑する陰謀は、イエスという男はローマ帝国の平和を脅かすからだという政治的イデオロギーでしたから。そして、そうしたイデオロギーで民衆やローマ総督を扇動、洗脳、したのはイエスに対して妬みを抱き、その妬みが憎しみとなった当時の偽善的宗教指導者だったのです。
批判的思考力や道義的勇気がないが故、当時のエルサレムの民衆は、はじめ救世主だと称えていたにも拘らず、見せ掛けの平和主義によって本当の平和、救世、をもたらすイエスを殺したのです。2,000年以上たった今でもそれが分らずにいる人がいることは極めて遺憾です。こうした無知さゆえ、いつの時代でも偽善の平和主義者が現れ、争いの終わり無きサイクルが続いているのでしょう。

今年は終戦70年目の節目の年です。それ故、私達日本人は過去の私達のありかたについてより深く反省する時でもあります。どうして、私達はあのような戦争を許してしまい、日本人だだけでなく、諸外国の人達の命まで犠牲にしてしまったのか、今まで以上に真剣に考えねばなりません。しかし、こうした反省において、このブログの前の記事でも強調しましたように、左右からの横風的なイデオロギーに邪魔されずに、日本人としての良心と批判的思考能力を活かして本質を突いて考えなければなりません。そうでないと、私達は当時のエルサレムの偽善的愚衆と同じような平和主義者に陥ってしまいかねません。

戦後、日本では靖国神社を軍国主義の象徴でもあるかのように考える人がいます。しかし、精神病理学的にみて、この考え方の影には、前述したキリスト処刑当時のエルサレムの偽善的善良市民が持っていたのと同じような心のカビ、あるいはその胞子が潜んでいます。

こうした心理の人は、靖国神社をあたかも平和の敵であるかのような考え方をします。しかし、正常な日本人の心でもって平和を願う人であれば、もし、自分の青春時代が70年前だったら。。という問いかけから当時の日本人の様々な姿に共感します。

もし、あの辛い時に自分が青春時代を生きていたなら、そうであったとした場合の自分を当時太平洋に咲き散っていった桜に投影しながら、彼らの心に想いをはせてみる。。。そうすると、涙が込み上げ、感謝の気持ちで一杯です。そして、どうしても靖国神社に参拝に行きたくなります。今の日本の平和の背後には靖国神社に祀られている英霊があるということを素直に理解できます。

A級戦犯の霊も祀られているから、靖国は軍国主義の象徴だから、そのようなことで、英霊達の平和への願いをやみに葬り去ることができるという心理、異常だとしか思えません。
本当に平和を願う人はそのような考えをしません。

靖国で祀られている英霊達も平和の敵である軍国主義という悪魔の仕業の犠牲者なのです。自分の異常な心について無知な故、どうしても偏った見方しかできない偽善的平和主義者などは靖国イコール悪といった一次方程式的な考えしかできず、それに執着したままなのです。

もし、あなたがこのような教育を受けた故、このような考え方であったとしても、あなただって、もし70年前に青春時代を送っていたならば、日の丸振りながら彼らを送り出していたはずです。それとも、非国民とされて厳しい処罰を受けることを覚悟して、戦争反対、若い命を無駄にするなというプラカードを立てて憲兵隊に向かっていけるだけの勇気がありますか?そういった意味では、結局は、2,000年ほど前、イエスを救世主と祭り上げておきながら、いともたやすく扇動、洗脳されてたった5日で、イエスを極悪人扱いしたエルサレムの群集と精神病理学的には同じなのです。

本当に心から平和を願う人は、揺ぎ無い良心、同義的勇気と批判的思考力を備えつつ、高い共感性を持っており、紛争や戦争がもたらす苦しみを受けた人すべてに心を寄せることができます。こうした共感においてつまらないイデオロギーを入れて分別しないのです。そして、こうした共感の教えはイエスの教えにも、釈迦の教えにもつながるものなのです。

確かに、靖国を政治的利用に使おうとするのは危険です。これは、イエスの教えから生まれたキリスト教という宗教を政治的利用する危険性と同じです、だからこそ、靖国神社に祀られている英霊達に心を寄せることができる人は平和を願う故に、靖国を軍国主義の復活に政治利用されないように戦うことができるのです。同じように、本当にイエスの教えに従い実践することに精進している人は、教会が政治利用されないように戦っているのです。これが分らない無知の暗闇にいつまでも生きる人は偽善者であり、偽りの平和や救いを唱え、世界を危険な方向へ導く悪魔の手先なのです。

そうせてしまえば、私達は2,000年ほど前に起こったキリストの十字架での死を無駄にしようとしているのです。そうさせてはなりません。これは、戦時中犠牲となった人たちの御霊を侮辱することと同じです。

以前、このブログでも書きましたが、四旬節とは灰の水曜日からイースターまでの主日を除く40日間を心と魂の悔い改めと清めの精進に充てる期間でります。これは、主の復活、イースター、に向けての準備期間です。聖書学的にみて、40という数は何かに向けての準備という、ことを示唆し、イエス自信も、救世に向けての活動を始める前の準備として砂漠で40日間の断食の修行を行いました。そして、この四旬節という大切な準備期間の最後の大詰めが、イエスが私達罪深き人間の救いを目的とした受難の為にエルサレムにやってきたことを記念する受難の主日に始まる聖なる一週間なのです。

*****

聖なる一週間の始まりに行う受難の主日のミサは、2,000年ほど前、過越祭を前に多くの人で賑わっているエルサレムにイエスが驢馬に乗ってやってくる、十字架で処刑される5日前を想い起しながら始めます。

ザカリアの預言書9:9には、救世主は驢馬に乗ってやってくると書いてあり、しかも、過越祭は、かつて神が神の民であるユダヤ人をエジプトでの苦しい奴隷生活からモーゼを指導者として起用し導き開放したことを想い起し、神に感謝する祝日です。よって、過越祭を前にして各地から集まってきた人達で活気あふれるエルサレムに驢馬に乗ってやってくるイエスを見た人達は彼こそが先祖代々待ち望んでいた救世主だと思い、私たちを救いたまえ!と、椰子の葉を振りながら叫んで歓迎しました。

しかし、ミサの中での長い福音書朗読にあるように、イエスが驢馬に乗ってやってきた日曜日にこうして称えながら歓迎していたエルサレムの群衆、一週間もしないうちにイエスに対する態度をコロッと180度変えてしまい、ローマ帝国の総督、ピラテ、に向かって、”こいつを貼り付けの刑に処せよ!貼り付けに処せよ!”と怒り狂ったように叫び続けるようになります。

ほんの5日前は喜び称えていたのに、殺してやりたいという憎しみに変わってしまう心理とはいったい何でしょうか?

この心理、戦後、あたかも一夜にして批判的思考能力を失い、終戦までは熱狂的に支持していた政策や政治家を、憎しみの対象へと化してしまいました。戦争での苦しみ、そして、敗戦のいたたまれない悔しさ、をこうした人達にぶつけました。そして、戦後70年たった今でもそのような感じです。マスコミもそうです。

だから、かつて八紘一宇、八紘一宇、大東亜共栄、大東亜共栄、大日本帝国万歳、大日本帝国万歳、と熱狂的であったのに、終戦により、コロッと180度かわり、こうしたことを忌々しさの対象にしてしまいました。そして、そうすることで精神的に自分達の過去の戦争責任を清算しようとしているかのようです。しかも、自分の心の奥底に潜み続けているカビや胞子について無知のままで。だれかのせいにすれば、自己検証しなくていいですし、カビにとってもいい温床となります。

心理学的にみて、こうした戦後日本人の態度の変化、単刀直入にいえば、たった5日でイエスに対する歓迎の心を憎しみの心にコロッと変えてしまい、処刑させた2,000年前のエルサレムの群集の心理と同じパターンのものです。そして、日本人の態度の変化の背景にはGHQによる心理的工作、そして、2,000年前のエルサレムの群集の態度の変化の背景には当時の宗教指導者による心理的工作があります。

こうした、大衆の心を短期間で効率的に変えてしまう心理的戦略は、ヒットラーが行ったものと社会心理学的にみて同じ毛色のものです。批判的思考力の欠如、そして道徳的、道義的勇気のない人ほど、こうした大衆心理動員工作の餌食となりやすいのです。

戦後70年目の聖なる週間を迎えた今日、私達日本人は、キリスト教徒であろうがなかろうが、2,000年ほど前に起こったキリストの受難が人類共通のこうした潜在的精神病理によるものであるということを認識せねばなりません。左右からのイデオロギーにあやつられ、お互いを責めあいながらの議論をやり続ける限り、憎しみの心理が優越しており、いつこの病的心理が殺傷的テロ行為や戦争へとつながるか分りません。

それなのに、戦前戦時中の反省をしない人、しようとしない人達の無知が問題であることは勿論ですが、実は、自分は戦前のことを批判し、否定しているから平和的な人間なんだと思い込んでいる人の無知ほど、偽善的であり、精神病理学的にみてより恐ろしい可能性を秘めているといえましょう。ただ自分や周りの人はそれに気付いていないだけです。そして、両者にある無知が二極化対立を促し、それとともにお互いの憎しみもより危険なレベルへと高まっていきます。実は、いままでの歴史の中において、さまざまな戦争防止の条約などを作っても、この世の中がいまだに平和ではないのは、こうした心理的な問題が私達の無知さゆえ皆の心の奥底に潜み続けているからです。

聖なる一種間が私達に教えることは、人間だれでもこうした恐ろしい精神病理の可能性を秘めていることを認識し、こうしたことが問題化しないように精進していくことが救い、あるいは、涅槃への道へとつながることを理解し、行動していかねばなりません。これは、仏教的にいえば、仏になる為に不可欠な悟りでもあります。

こうした悟りを得た人は、謙虚となり、凶悪事件や戦争などの責任は特定の犯人や戦争犯罪人だけではなく、被害者、加害者などの区別を問わず、人間だれもが潜めている、目に見えないカビの胞子のようなものであると理解しているので、こうしたことが起こる度に、誰かを憎んだり責めたりするよりも、自分自身をより深く洞察することの教訓としています。そして、犯人は責任者も、こうしたことを悟り、改心していくことを祈り、支援するのです。

こうしたことこそ、博愛精神のキリスト教であれ、慈悲の心の仏教であれ、何かを信仰する人がとるべき態度ではないでしょうか。

戦後70年目の聖なる一週間、イースターを前に、何がキリストを殺したのか、その背景にある人類共通の潜在的病的心理を自覚し、その対処に精進しつつ、私達日本人は一回り精神的に成長しなければなりません。

昨日まであんなに敬い、称えていたのに、今日となっては、憤りと憎しみの的。昨日まで善良な市民だったのに、今日は世間を振るいあがらせる凶悪犯。どうして?
この聖なる一週間において、自分の心に潜み続ける精神病理のカビの胞子を見つけだし、適切に処置できる方法を悟り、実行し始めた人ならこうした問いへの答えは分るはずです。なぜならば、それは、ある意味では自分自身の認めたくはない可能性でもあるからです。

過越祭においてカビの一種である酵母を使ってパンを焼くことは神がモーゼに与えた律法では禁じられています。聖なる一種間の後、イースターを迎えるにあたり、私達は自分自身の心に隠れている小さな憎しみや妬みなどの精神病理というカビの胞子を取り除かねばなりません。その為には詩編51にあるように、神の恵みを請いながら、清い心を目指さねばなりません。

無知は心のカビにとっての最高の温床を作り上げますから、この今年の四旬節の締めくくりのこの聖なる一週間、改めて心のカビ、胞子の存在を調べ、早期対策に励み、主の復活を清い心で迎えましょう。

Tuesday, March 10, 2015

随喜の為の四旬節

宗教学者の端っくれでもある心理屋の仲田です。今日の演目は” カトリックの心理士から見た随喜の為の四旬節”というものであり、ちょっと変わってるな~とお感じの方もいらっしゃることでしょう。っていうのは、随喜という言葉、キリスト教の教典や聖書にはありません。これは、法華経にあり、仏教でも法華経を普通読まない浄土真宗などでもあまり耳にする言葉ではないかと思います。ちょっと、お騒がせさせていただきますが、興味を持っていただければありがたいです。

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普通のキリスト教徒にとって随喜という言葉はあまり耳慣れないものかもしれません。
随喜とは法華経にある法華三昧の救いへの精進の一つであります.

随喜とは、ひっくめて言えば、誰かが喜んでいるのを見て、自分も嬉しくなり、それがきっかけとなって、自分がいままで自分の人生について惨めだと思い込んでいたり、他人を羨んでいた姿を悔い改めていく精進の一つです。臨床心理学的にも、自我による執着がもたらすさまざまな不安にかかわる問題を解決する上でも理にかなっています。勿論、私がよく応用する森田療法にも応用できます。

今日は、この法華三昧の大切な要素である随喜について、更に、拡大解釈して、キリスト教の習慣である四旬節の意義と照らしあわせてみたいとおもいますので、しばらくお付き合いください。

まず、随喜という概念を仏教的コンテクストで拡大解釈すると、釈迦が説く法、仏法、の真理に触発された時に起こるいてもたってもいられない喜びで、自分一人の心の内にしまっておくのはもったいないと感じ、自ずと周りの人達に伝えていくものではないでしょうか?

この考えを元にキリスト教について相当する所に触れてみましょう。

こうした拡大解釈的な意味での随喜について、キリスト教においても似たような教えがあります。新約聖書の福音書(ヨハネ4:1-26、39-42)にあるお話しでは、ヤコブの井戸端で夏の暑い日、満たされない心の内に生きていたあるサマリア人の女が水を汲んでおり、そこに旅の途中で喉が渇いたイエスが現われ、このサマリア人の女に水をくれと頼んだが断られた、という切り出しの話です。イエスはこれに対し、”ああそうですか。お騒がせいたしました”と言って去っていったり、”なんだ、この~!、人がこうして喉がからからでみじめな気分になっているのに、少しの水も飲ませてくれないなんて!”と文句をいったりせずに、非常に愛想の悪いこの女と会話を続けようとします。今、こんなことやったら、女から、”あんたね、さっさとどっかへ消えないと、警察呼ぶわよ~!”といった仕打ちを食らうかもしれませんね。セクハラだの何だの、と皆、神経質になっているご時勢ですから。まあ、イエスとこのサマリア人の女がいたおよそ2,000年前のパレスチナではまったく違うご時勢でしたから、この女、警察呼んでまでイエスを追っ払ったりしなかったんでしょう。

ちょっと、脱線しましたが、この福音書の話の続きによると、イエスはこのサマリア人の女の心がどうして満たされていないのかビシっと指摘します。これは、心理士の私として、自分も患者さんやクライアントに対し、こうしてイエスのように相手も心のもやもやなんかをピターっと一発で指摘できるような超能力的な力があればと思います。まあ、私はまだまだ煩悩多き凡夫であり、心の弱さ故に罪深き身であり神の慈悲の恵みのお助けが必要な身ですので、イエスのような力は到底ございません。とにかく、イエスはすごい!そして、そのすごさに今、私がこうして改めて驚かされる2,000年近く前に、このサマリア人の女はびっくりし、イエスことがメシア、皆の待望の的であった救世主であると悟りました。

あなたがこのサマリア人の女であったと想像してみてください。もし、あなたがいままでの自分の生き方や在り方に満足がいかず、心がもやもやしていたならば、尚更です。自分がこの女であり、こうした形でイエスに遭遇したと想像してみてください。第一印象は、”なんだこのずうずうしい野郎め~!”っといった感じで、あまりいいものではないでしょう。そして、水をくれくれと更にしつこくせがまれるのだろうと思っていたら、いきなり変なことを言い出し始める。私はこうして有名なヤコブの井戸で水を汲んでいるのに、突然、あたかも私の喉が渇いているかのごとく話してくる。まったく、こいつ、ちょっと暑さと喉の渇きの為にちょっと頭がおかしくなったのでは?私が与える水を飲めば、もう永遠に喉が渇くことがなく、こうしていちいち井戸へ水を汲みにくるようなことをしなくてもいい。。。。いったいこの変な男、始め、みじめな面しながら私に水くれって頼んでたくせに、あたかも、私の喉が渇き、あたかも、私が水を請わねばならないような立場にいるような言い方しやがって!

彼女は、始め、こうしてイエスが語り続けてきている話の内容が意図することを知りませんでした。しかし、更にイエスが話し続け、自分以外に誰も知らないはずの自分の心の奥底の満たされない心の内をずばっと言われた時、ギクッとしたというよりも、それを超越して、あらま~!これでやった分かったわ~!この気違いみたいな男がどうしてあたかも私の喉が渇いているかのような話をしてたかが!そうだったのようね~、あれは渇ききっていた私の心の奥底の比喩だったんだよね~!しかも、この男、だれも知らないはずの私の心の渇き、すべてお見通しだわ~!すごい!こいつ、ただの気違いだと思ったけど、これが噂のメシアだわ~!えっ?マジ?ほっぺたつねったけど、うん、やっぱり痛い!マジで今私はメシアと話をしてるんだ~!

改めて想像してみてください。私のような心理士から、あなたの心の渇きはこうなんんでしょう?なんぞと言われているのではなく、イエスというメシアからこのサマリア人の女のように自分の心の渇きについて語られ、しかも、その処方箋までいただく。。。つまり、彼が与える水に例えられる、メシアがもたらす神の恵みによって癒され、潤され、そして、救われるんだと。。

あなただったらどうですか?心が喜びと希望で躍らされませんか?

私も心理士として、患者さんやクライアントにたいして、このようにお感じになっていただけるように努力してるんですが。。。

この福音書のお話の結論は、こうしてイエスの癒しと救い教えに心を潤され、触発されたこのサマリア人の女のそれまで萎んでいた心が歓喜に満たされ、その勢いで彼女は自分の村に走っていき、村中の女たちにイエスとの出会いの喜びを語り伝えたという話です。まさに、彼女の心の”ダム”はイエスが与えた新しい命の水で満杯となり、それでもどんどん湧き続けるので、堰を切ったかの如く、この新しい命の歓喜の水がど~と流れ出すように、このサマリア人の女は、他の女達へもこの水を届けに走ったといえるのです。

一見、法華経と新約聖書にある福音書、一見、釈迦とキリスト、まったく関係ないように思っている方もいるでしょう。しかし、こうして、人間の心を喜びで動かす力の教えという点では、相通ずるところが思っている以上にあるものです。仏教にもキリスト教にも、ある程度通じていると、こうしたことが認識でき、宗教の垣根を越えたところに真理を見出し、その喜びもひとしおとなります。そして、その喜びを他の人にも伝えることで、分かち合う。これこそ、法華経でいう随喜が意味することでしょう。こうした意味では、随喜という法華経にある大切な教えは、本当の意味で随喜である為には、法華経という枠、いや、天台宗などといった法華経を重んじる宗派の枠、更に、仏教という垣根を超え、キリスト教などの他の宗教にも同じような喜びを共有しながら救われ合う本当の喜びに意義を見出していけるのでしょう。

カトリックにとって、今は四旬節もたけなわ。もう、あと半分以下となり、イースターが近くなってきております。

あなたの心の悔い改めと清めは進んでいますか?

これは、典型的な今までの四旬節の懺悔に重点を置いた見方ですが、四旬節はただ懺悔の為にあるのではありません。懺悔の為に懺悔をするのだといったような態度で四旬節を迎え、過ごしているようでは、私達の心も、あのサマリア人の女のように渇いたものとなるかもしれません。臨床心理士の中には、そんな態度じゃあんたの自尊心も枯れきってしまうよ、なんて言う人もいるかもしれません。

四旬節は、主の復活の無量の喜びを共有する為の準備期間なのです。だから、その為の準備の一つとして懺悔があり、心を清めておくのです。お正月を祝う前に家をきれいにするようなものであり、また、お正月を迎える前の大晦日の除夜の鐘で心から108の煩悩を掃除するようなものでもあるのです。だから、四旬節というのは、”もういく~つ寝ると、お正月~”といったようなあの無垢な子供心が楽しみにしているように、常に希望に満ちていなければなりません。

こうした希望が四旬節にあるさまざまな試練を乗り越える力となり、そして、復活を迎える歓喜ともなるのです。

そして、主の復活の無量の歓喜を私達は随喜するのです。これぞ、キリスト教たるものの生き方であり、四旬節とはこうしたキリスト教徒たることの意義について改めて深く考えてみる時間なのです。

歓喜に満たされた心は、他の人の心をも歓喜で満たします。歓喜に満ちた心であれば、より善行に励み、それにより、歓喜は更に高まり、随喜も広がっていくのです。これが、キリスト教において主の復活がもたらす救いであり、法華経で教える随喜に見出せる救いでもあるといえましょう。こうした中において、妬みなどの煩悩、そして、それがもたらすさまざまな心の問題も、それを取り除こうといった計らいが特別になくても消滅していくことでしょう。福音書のおはなしにある、あのサマリア人の女が体験したイエスによる彼女が期待していなかった治療の療後所見が随喜となったように。


すべては随喜を通した救いの為に!

Thursday, February 26, 2015

四旬節と東日本大震災記念日: 四旬節における修行と、大震災被災者の苦しみや悲しみ、に見出す意義



ここシカゴではまた雪です。空は、相変わらず鉛色です。晴れ間が見えても、すぐに雲に埋められます。青空を鉛色の雲が埋め尽くすように、青いミシガン湖の水面も岸から見る限り殆ど一面、浮いている流氷で埋め尽くされています。岸辺には所々に巌のような氷の塊があります。もうすぐ3月だといえど、最高気温でも氷点下は当たり前。今日は日中最高気温でもマイナス10度。今夜はマイナス15度ぐらいまで冷え込みます。

こうした北国の厳しい寒さの中で四旬節の悔い改めと清めをする修行は、楽しみにしている復活祭に向けて続行中です。仏教的に言えば、四旬節の修行とは、完全な世界である彼岸へ渡れるような波羅蜜多に精進するようなもので、先ず、自我を制するというより、征することで欲望などの煩悩に打ち勝ち、つまり、罪につながる誘惑に打ち勝ち、自己を更に律し、強靭にしていきます。その為なら、この修行、波羅蜜多、の苦しみには耐えていけます。この苦しみの先には、キリスト教徒にとって彼岸の境地のようなキリストの復活の喜びと楽しみがあるからこそ、どんなに寒くても、空が鉛色でも、長い冬でも、イエスの砂漠での断食修行と十字架での断末魔の苦しみを想い、四旬節の修行を続行していけるのです。そして、釈迦も断食修行を何度も行い、その末に、断食の苦しみを超越した所に開眼し、仏法の宝に開眼し、救いへの悟りの道を開かれた。こうしたことも、想いながら四旬節の波羅蜜多に精進すると、復活したキリストという最高の仏、三位一体の神の中の完全な人間、が見えてくる。

四旬節、苦しみ、と言えば、東日本大震災が起こった時も四旬節の最中でした。そして、当時の被災地の空も鉛色でした。今年も四旬節が進む中、もうすぐ東日本大震災から4年目の記念日を迎えます。

そこで、記念日を前にして、臨床パストラル心理と宗教教育の一日本人専門家としての雑感を記してみました。

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東日本大震災により被災した東北地方は、私が住んでいるシカゴのように寒く、4年前の大震災の時も、鉛色の冬空の寒い日でした。

大きな町では道路などが素早く復旧され、救助捜索活動や、仮設住宅などで避難生活をする被災者への支援物資の輸送活動の効率化を図りました。しかし、事故原発近隣地帯は高レベル放射能汚染の為に人が住めなくなり、また、過疎地では今でも充分に復興しておらず、産業の立ち直れず、また、近くの町への交通手段も復興していないので、こうした過疎地の住民は村を捨て町へ出て行き、更なる過疎化が進んでいます。

4年目とはいえ、被災者の苦しみ、悲しみ、は続いています。今でも現在進行形です。
被災者の苦しみや悲しみは、眼に見えない形で私達が想像する以上に長く続くということは、20年目を迎えた今でも、かなり多くの阪神淡路大震災による被災者の方々がまだ様々な心と魂に受けた傷による影響を受けながら生きているという現実からも思い知らされます。よって、4年前の東日本大震災で被災された方々の苦しみや悲しみも、これからも長い間続く可能性があるということを示しています。

そうだからといって、悲観的になる人もいるでしょう。しかし、こうした現実や臨床心理的な事実にも拘らず、神、あるいは、何かを信じ、つまり、信仰心を持ち、それによる希望を維持しながら、苦しみや悲しみがどんなに辛く、長く続こうと、ただ耐え忍ぶのではなく、耐え忍びながら新しい意義を見出し、更に人間として大きく成長し、強靭性と感受性を高めていく人もいます。後者のパターンには、Post-Traumatic Growth(PTG)という、トラウマ経験をバネにして強くなり得るという臨床心理の大切な概念が見受けられます。
奇しくも、大震災記念日はカトリックの復活祭に向けての懺悔と清めによる信仰の強靭化の期間、四旬節、の最中でもあります。寧ろ、偶然というか、実は、その背景には何か深い意義があるのだと思います。

悔い改めと言えば、大震災直後、アメリカのプロテスタント原理主義者、グレンベック、はあのような大震災が日本を襲ったのは、日本人の殆どがキリストを信じず、悔い改めない罪深き人だから神が罰を与えたのだ、といった内容の屁理屈を言い、議論を醸し出しました。つまり、あの大震災を、神による天罰と、間違った聖書の解釈によって、そういった誤った結論を導き出した人達がいました。

このように、聖書を用いて、被災者の苦しみや悲しみは罪深さの為の天罰だといったことを言われると、回復に対し、より一層悲観的になり、キリスト教などの宗教に対する苛立ちを覚えます。

日本人カトリックパストラル心理の臨床専門、それに、宗教教育の専門家として、こうしたことに対する聖書のあり方についての誤解と正し、グレンベックのような心無き一部のクリスチャンが犯した被災者の心や魂を痛めつけるという罪を悔い改める為にも、大震災から4年目の四旬節のこの時に、私なりに、正しい聖書の理解とそれに基付く災害やそれによる苦しみについての正統なクリスチャンのありかたについて述べさせていただきたいと思います。

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聖書に出てくる災害は、天災であれ人災であれ、それらは神の民の敵、神に背き続け悔い改めない罪人やそうした人達の国に対する天罰であるといった主旨で記されています。だから、原理主義的に、通り一遍にしか聖書が読めない、スピリチュアル的に”盲目”な、グレンベックのような人は、どこかで災害があると被害者や被災者が苦しむのは彼らが罪深き人であり悔い改めなかったからだと主張します。

しかし、聖書には、多くの罪無き人達も苦しみ、死んだ、ということを記しています。例えば、イエスが生まれてからすぐに、ヘロデ王は彼がローマ総督の監督の下で治めるローマ帝国の属国、ユダの国の男の赤ちゃんを全て虐殺するというヒトラーのようなことをしました。この事件によって殺された赤ちゃん達にいったいどのような罪があったのでしょうか?

つまり、聖書にも、何の罪もない人が何かの事情、仏教でいえば、縁起、により災難を被ることもあるということが示されているのです。それが神の計らいだとは聖書のどこにも書いていませんし、また、ヨハネによる福音書、9:1-5にあるように、イエスは災難を被っている人はその人自身、あるいは、その人の親が何かの罪を犯し神の怒りをかったからだという弟子の思い込みを明確に正し、そうではないことを教え、寧ろ、こうした災難に苦しむ人へ神の恵みの力が働くように信仰を持つ者は精進しなければならないことを強調しています。よって、グレンベックのような原理主義者は、こうした聖書のとても大切なイエスの教えが分かっておらず、イエスに正される前の弟子達の間違った概念で、被災者が悲観的になる判断をしているだけです。

また、聖書においてとても大切なことは、イエスは罪無き潔白な人物でもある為に、裁かれるべき罪人達を愛するが故、彼らの代わりとなって、贖罪の犠牲になりました。それを象徴するのが十字架です。これは、イエスが、自分や、罪深くても民を愛する父なる神との揺ぎ無い愛着関係を維持しているが故、父なる神の慈愛そのものとして、罪人の身代わりとなったというわけです。そして、イエスの続き、ペテロやパウロの弟子達も、神からの天罰としてではなく、神への堅い信仰故に苦しみぬいたあげく殉教しました。
仏教で教えるように、災害などは私達には到底理解できないような不可思議な縁起の中で起こり、神であれ仏であれ、何かを信じる人は、ヨブ記から学べるようにそうした災難がなぜ起こったかについて不毛な議論をして時間と精神を浪費したり、宗教原理主義者のように”天罰”めいた屁理屈をつけて結論付けたりしません。それよりも、災難が降りかかってきた時には、神であれ仏であれ、その慈愛の恵みを信じ、神や仏のように苦しんでいる人や悲しんでいる人に共感することでこうした人への癒しと希望へとつながるように努力します。それが、正しく健全な信仰心をもった人の対応です。

また、苦しんでいる人への共感やこうした対応がもたらす苦しみは、イエスやその弟子達が分かち合った殉教の苦しみのように、自分が犠牲になることは他の人を救い癒しと希望を与える糧となる為だと信じ、こうした苦しみに意義を見出します。これは、自我による自己保存欲求を、こうした信仰心的な慈愛により超越し、愛する誰かを守ろうとしたり、救助しようとして、犠牲となり殉死した人たちの心にも見られましょう。

これらのことから、聖書を正しく理解する正統派のクリスチャンにとって、災害などで苦しむ人達は必ずしも悔い改めない罪深き人たちでなく、そうした災害は神からの天罰でもないということが分かっています。そして、被害を受け被災し、苦しみと悲しみの中にある人達に、神はその慈悲深さ故に被災者の心に共感し、一緒に心を痛ませつつ癒しの糧となる恵みをお与えになると信じています。こうした正統派のクリスチャンの神についての考えは、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族の方々、自衛隊員などの救助隊員や支援者の被災者への寄り添いの心に相通ずるものだといえます。

ただ、神は直接眼には見えない存在なので、神の恵みが苦しんでいる人達へ具体的にどのように伝わっているのかということを直接認識することはできません。しかし、例えば、被災者に優しく寄り添う天皇皇后両陛下の姿などを通して、慈悲深い神の癒しの恵みが具体的にどのように働いているかが分かります。

神は、神を信じる人達は勿論、そうでない人達でも、優しい心を持った人全てを、神の救いの手として、彼らの献身的な働きを神の恵みとして、被災者達に寄り添い、癒し、元気付けていきます。つまり、被災地で被災者達に寄り添いながら支援し続けている心優しい人たちは、神の聖霊の秘蹟のように、直接眼には見えない神の、眼に見える代理として、イエスキリストのように同じ生身の涙を流せる人間として、神の慈愛を示しているのです。勿論、天皇皇后両陛下もこうした意味において、両陛下の慈しみ深さ故、慈愛そのものである眼に見えない神の秘蹟的存在であるといえるのです。

四旬節の40日間の修行において、その辛さ故、時々、神は私達のことを忘れてしまったのか、と思うことがあります。神は私達の懺悔を受け入れ、私達の罪を赦してくれるかどうか、不安になることもあります。

被災者の方々にとってこの長い苦しみと将来への不安は、40日間どころではない、比較にならないほど長い”四旬節”であるかも知れません。しかし、それがどんなに長くっても、例え、彼らの四旬節がモーゼの苦渋の地エジプトからカナンにある新天地までの苦難に満ちた砂漠の旅を40年もの間続いたような長い多様な試練となるかも知れません。
ただ、聖書からも言えることは、神への信仰をどんな苦しみにあっても、それがどんなに長くても維持できる人は必ず救われるということです。こうした聖書の理解は、災難を被り、苦しみや悲しみがいつまでも続いても、それを、出エジプト記にあるような心と魂の砂漠の中の旅とみなし、神であれ、何かを信じ、希望を維持できる人は必ず成長しながら乗り越えられるということです。つまり、諦めてはいけないということです。そこに、苦しみや悲しみから逃げずに、忍耐強く向き合いながら生きていく意義もあるのです。
四旬節や聖書でいう悔い改めるということは、ある意味では、諦めへの誘惑と戦い、それに打ち勝ち、希望を捨てないということだといえましょう。

悔い改めるということの他、心、魂、そして、体、を苦行により律することも四旬節においてとても大切なことです。このことについて、先ず、師匠のイエスが実例を示しました。彼は、洗礼の後、聖霊の導きにより、砂漠の中で40日間の断食苦行を行い、それを終えようとしている時に悪魔からの3つの誘惑による攻撃を受けましたが、腹ペコにも拘らず、それらの攻撃を全て見事に跳ね除けることで、それから3年間に渡る救世の為の伝道の旅にでるのです(マタイ、4:1-11)。このイエスの40日間の砂漠での断食苦行は40日間に渡る四旬節の訓練的要素の背景でもあります。

ある意味では、イエスは、砂漠での40日間に渡る断食の苦行によって自分を律していたので、3年間に渡り、伝統し、その締めくくりとして、最後の晩餐の翌日の金曜日に十字架を背負う苦しみに耐え、貼り付けの断末魔の痛みと苦しみにも耐え抜き、イザヤによる預言書の52-53章にある預言通りに、その任務を全うできたのだともいえましょう。イエスの弟子パウロはガラテヤの信徒への手紙(5:22-23)で、聖霊の成果の一つに、愛や喜びや忍耐力と一緒に、自分を律する力を挙げています。また、パウロは更に、ヘブライ人への手紙(12:1-13)において、こうして、イエスのように自分を厳しく律することは、自分だけでなく、他人達の喜びや癒しにもつながると記しています。

私達も、聖霊に導かれ、40日間の四旬節の比喩的な砂漠における断食修行に入り、自己を律することで、誘惑や罪、それに、仏教でいう煩悩に密接に関係した自我を克服します。そうすることで、聖霊の成果が律する力、強靭性、愛、喜びなどとなって表れるのです。

四旬節の辛い修行は必ず主イエスキリストの復活、イースター、の無量の喜びへとつながります。聖書にある災難を信仰でもって、悔い改めて乗り越えた所には必ず神の恵みによる褒美が待っています。同じように、どんなに長引こうとも、何かを信じ続け、希望を捨てずに生きていれば必ず神の恵みは実を結びます。

そして、四旬節の悔い改めとは、神の恵みの実とは、必ずしも自分で思っていたものとは限らないということを、謙虚にかつ感謝でもって、森田療法でいうように、あるがままに享受できるということです。つまり、それは、自我を克服するという仏教的なことでもあるわけです。

私達も、四旬節という時期、長い長い四旬節を希望を維持しながら耐え忍ぶ被災者の方々に心を寄せ、共感の中で、神の恵みを享受しあい、悔い改めることで、自我を征し、より神の意思に謙虚に従順となることで、神の恵みの秘蹟的な存在となり、被災者を始め、この世の中で苦しんでいる人たちへの救いの糧となることができます。そして、この修行の努力、波羅蜜多、の成果が、キリストの復活のような喜びとなり、皆で共有できるのです。このことを信じる我ゆえ、正統なキリスト教徒は、どんなに辛くても、寄り添う人達がどんなに辛くても、共に希望を捨てずに乗り越えていけるのです。

どんなに長くても寒くても、冬は春へと続く。どんなに苦しみが多く、長くても、神、あるいは、何かを信じ続け、希望を失わない限り、苦しみを乗り越え、その先には必ず何か喜ぶものがある。聖書においても、たとえ、それが神による罪深き民への天罰であっても、神は必ず彼らの悔い改めによる改心を信じ、民を愛するが故、全てを修復へと計らう。被災者へ心を寄せながら、私達は四旬節をこのような真実を鑑みながら、より意義深いものにしたいと思います。

そして、阪神淡路大震災から20年経った今、東日本大震災から4年目の今、被災者の方々は程度の差はあるにせよ、苦しみ、悲しみ続けています。中には、こうした苦しみや悲しみは終わりのないものだろうかと思ったり、もう神や仏なんぞ、と思ったりもする方がいるでしょう。しかし、神や仏を信じつつ、四旬節の修行に励んだり、仏道の六波羅蜜多に精進する人は、被災者の苦しみや悲しみもこうした修行のようなものであると考え、修行を通して被災者に改めて共感のうちに寄り添い、お互いを律することで諦めなどへの誘惑に打ち勝ち、より強靭となり、更に、愛が高まり、喜びも生まれ、希望が更に高まっていくことと信じています。

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本当に神を信じ、正しく聖書を読み親しんでいる正統派のクリスチャンは、決して、苦しんでいる人に対して、聖書云々、神の裁きだとか、天罰だとか、言えるものではありません。災難など、人々に苦しみや悲しみをもたらす事象を罪深き人達への神の裁きだとか天罰だとか決め付けることは、それこそ神への冒涜だと考えられます。なぜならば、彼らは、神を自分の間違った考えや宗教観を神の名を自分の都合のいいように正当化しているだけなのです。こうした為に、苦しみや悲しみの中にある犠牲者や被災者の苦痛が一層辛いものとなり、また、神や宗教に対する希望を失わせ、より悲壮なものとしてしまいます。よって、宗教原理主義者のような考えは、神の名や聖書を悪用して、苦しんでいる人、悲しんでいる人、に理不尽で不必要な罪悪感を植え付けて彼らの魂を破壊しようとする非常に危険なものです。これこそ、まさに、神と神の民の敵である悪魔がクリスチャンの仮面をかぶり、苦しみや悲しみにある人達を神や仏から切り離し、更に深い苦しみと悲しみの底という地獄へと突き放そうとしているものでしょう。私達は、四旬節の修行として、こうした悪魔の危険な思想に翻弄されない強い精神を涵養し、また、宗教の如何にかかわらず、神や仏への信仰があれが信仰、そして、その有無にかかわらず、人間としての良識と人を思いやり人へ寄り添うことができる、いい意味での土居健郎が言う”甘え”といえる、共感、を磨き高めることが大切だと思います。

正統クなリスチャンは、カトリックであれプロテスタントであれ、寧ろ、人々の苦しみに対し、眼に見えない神の慈愛の恵みの秘蹟的存在として、眼に見える形で寄り添い、支援していくのです。皇后両陛下、自衛隊員、警察官、消防隊員、そして、無数のボランティア、そして、被災者自身が行ってきたように。たとえ日本はキリスト教国ではないといえ、その象徴でもある天皇皇后両陛下を始めとする、心優しい日本国民のこうした秘蹟的な行動が、日本は神の恩恵を受けている国であることを証明しています。