Thursday, February 26, 2015

四旬節と東日本大震災記念日: 四旬節における修行と、大震災被災者の苦しみや悲しみ、に見出す意義



ここシカゴではまた雪です。空は、相変わらず鉛色です。晴れ間が見えても、すぐに雲に埋められます。青空を鉛色の雲が埋め尽くすように、青いミシガン湖の水面も岸から見る限り殆ど一面、浮いている流氷で埋め尽くされています。岸辺には所々に巌のような氷の塊があります。もうすぐ3月だといえど、最高気温でも氷点下は当たり前。今日は日中最高気温でもマイナス10度。今夜はマイナス15度ぐらいまで冷え込みます。

こうした北国の厳しい寒さの中で四旬節の悔い改めと清めをする修行は、楽しみにしている復活祭に向けて続行中です。仏教的に言えば、四旬節の修行とは、完全な世界である彼岸へ渡れるような波羅蜜多に精進するようなもので、先ず、自我を制するというより、征することで欲望などの煩悩に打ち勝ち、つまり、罪につながる誘惑に打ち勝ち、自己を更に律し、強靭にしていきます。その為なら、この修行、波羅蜜多、の苦しみには耐えていけます。この苦しみの先には、キリスト教徒にとって彼岸の境地のようなキリストの復活の喜びと楽しみがあるからこそ、どんなに寒くても、空が鉛色でも、長い冬でも、イエスの砂漠での断食修行と十字架での断末魔の苦しみを想い、四旬節の修行を続行していけるのです。そして、釈迦も断食修行を何度も行い、その末に、断食の苦しみを超越した所に開眼し、仏法の宝に開眼し、救いへの悟りの道を開かれた。こうしたことも、想いながら四旬節の波羅蜜多に精進すると、復活したキリストという最高の仏、三位一体の神の中の完全な人間、が見えてくる。

四旬節、苦しみ、と言えば、東日本大震災が起こった時も四旬節の最中でした。そして、当時の被災地の空も鉛色でした。今年も四旬節が進む中、もうすぐ東日本大震災から4年目の記念日を迎えます。

そこで、記念日を前にして、臨床パストラル心理と宗教教育の一日本人専門家としての雑感を記してみました。

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東日本大震災により被災した東北地方は、私が住んでいるシカゴのように寒く、4年前の大震災の時も、鉛色の冬空の寒い日でした。

大きな町では道路などが素早く復旧され、救助捜索活動や、仮設住宅などで避難生活をする被災者への支援物資の輸送活動の効率化を図りました。しかし、事故原発近隣地帯は高レベル放射能汚染の為に人が住めなくなり、また、過疎地では今でも充分に復興しておらず、産業の立ち直れず、また、近くの町への交通手段も復興していないので、こうした過疎地の住民は村を捨て町へ出て行き、更なる過疎化が進んでいます。

4年目とはいえ、被災者の苦しみ、悲しみ、は続いています。今でも現在進行形です。
被災者の苦しみや悲しみは、眼に見えない形で私達が想像する以上に長く続くということは、20年目を迎えた今でも、かなり多くの阪神淡路大震災による被災者の方々がまだ様々な心と魂に受けた傷による影響を受けながら生きているという現実からも思い知らされます。よって、4年前の東日本大震災で被災された方々の苦しみや悲しみも、これからも長い間続く可能性があるということを示しています。

そうだからといって、悲観的になる人もいるでしょう。しかし、こうした現実や臨床心理的な事実にも拘らず、神、あるいは、何かを信じ、つまり、信仰心を持ち、それによる希望を維持しながら、苦しみや悲しみがどんなに辛く、長く続こうと、ただ耐え忍ぶのではなく、耐え忍びながら新しい意義を見出し、更に人間として大きく成長し、強靭性と感受性を高めていく人もいます。後者のパターンには、Post-Traumatic Growth(PTG)という、トラウマ経験をバネにして強くなり得るという臨床心理の大切な概念が見受けられます。
奇しくも、大震災記念日はカトリックの復活祭に向けての懺悔と清めによる信仰の強靭化の期間、四旬節、の最中でもあります。寧ろ、偶然というか、実は、その背景には何か深い意義があるのだと思います。

悔い改めと言えば、大震災直後、アメリカのプロテスタント原理主義者、グレンベック、はあのような大震災が日本を襲ったのは、日本人の殆どがキリストを信じず、悔い改めない罪深き人だから神が罰を与えたのだ、といった内容の屁理屈を言い、議論を醸し出しました。つまり、あの大震災を、神による天罰と、間違った聖書の解釈によって、そういった誤った結論を導き出した人達がいました。

このように、聖書を用いて、被災者の苦しみや悲しみは罪深さの為の天罰だといったことを言われると、回復に対し、より一層悲観的になり、キリスト教などの宗教に対する苛立ちを覚えます。

日本人カトリックパストラル心理の臨床専門、それに、宗教教育の専門家として、こうしたことに対する聖書のあり方についての誤解と正し、グレンベックのような心無き一部のクリスチャンが犯した被災者の心や魂を痛めつけるという罪を悔い改める為にも、大震災から4年目の四旬節のこの時に、私なりに、正しい聖書の理解とそれに基付く災害やそれによる苦しみについての正統なクリスチャンのありかたについて述べさせていただきたいと思います。

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聖書に出てくる災害は、天災であれ人災であれ、それらは神の民の敵、神に背き続け悔い改めない罪人やそうした人達の国に対する天罰であるといった主旨で記されています。だから、原理主義的に、通り一遍にしか聖書が読めない、スピリチュアル的に”盲目”な、グレンベックのような人は、どこかで災害があると被害者や被災者が苦しむのは彼らが罪深き人であり悔い改めなかったからだと主張します。

しかし、聖書には、多くの罪無き人達も苦しみ、死んだ、ということを記しています。例えば、イエスが生まれてからすぐに、ヘロデ王は彼がローマ総督の監督の下で治めるローマ帝国の属国、ユダの国の男の赤ちゃんを全て虐殺するというヒトラーのようなことをしました。この事件によって殺された赤ちゃん達にいったいどのような罪があったのでしょうか?

つまり、聖書にも、何の罪もない人が何かの事情、仏教でいえば、縁起、により災難を被ることもあるということが示されているのです。それが神の計らいだとは聖書のどこにも書いていませんし、また、ヨハネによる福音書、9:1-5にあるように、イエスは災難を被っている人はその人自身、あるいは、その人の親が何かの罪を犯し神の怒りをかったからだという弟子の思い込みを明確に正し、そうではないことを教え、寧ろ、こうした災難に苦しむ人へ神の恵みの力が働くように信仰を持つ者は精進しなければならないことを強調しています。よって、グレンベックのような原理主義者は、こうした聖書のとても大切なイエスの教えが分かっておらず、イエスに正される前の弟子達の間違った概念で、被災者が悲観的になる判断をしているだけです。

また、聖書においてとても大切なことは、イエスは罪無き潔白な人物でもある為に、裁かれるべき罪人達を愛するが故、彼らの代わりとなって、贖罪の犠牲になりました。それを象徴するのが十字架です。これは、イエスが、自分や、罪深くても民を愛する父なる神との揺ぎ無い愛着関係を維持しているが故、父なる神の慈愛そのものとして、罪人の身代わりとなったというわけです。そして、イエスの続き、ペテロやパウロの弟子達も、神からの天罰としてではなく、神への堅い信仰故に苦しみぬいたあげく殉教しました。
仏教で教えるように、災害などは私達には到底理解できないような不可思議な縁起の中で起こり、神であれ仏であれ、何かを信じる人は、ヨブ記から学べるようにそうした災難がなぜ起こったかについて不毛な議論をして時間と精神を浪費したり、宗教原理主義者のように”天罰”めいた屁理屈をつけて結論付けたりしません。それよりも、災難が降りかかってきた時には、神であれ仏であれ、その慈愛の恵みを信じ、神や仏のように苦しんでいる人や悲しんでいる人に共感することでこうした人への癒しと希望へとつながるように努力します。それが、正しく健全な信仰心をもった人の対応です。

また、苦しんでいる人への共感やこうした対応がもたらす苦しみは、イエスやその弟子達が分かち合った殉教の苦しみのように、自分が犠牲になることは他の人を救い癒しと希望を与える糧となる為だと信じ、こうした苦しみに意義を見出します。これは、自我による自己保存欲求を、こうした信仰心的な慈愛により超越し、愛する誰かを守ろうとしたり、救助しようとして、犠牲となり殉死した人たちの心にも見られましょう。

これらのことから、聖書を正しく理解する正統派のクリスチャンにとって、災害などで苦しむ人達は必ずしも悔い改めない罪深き人たちでなく、そうした災害は神からの天罰でもないということが分かっています。そして、被害を受け被災し、苦しみと悲しみの中にある人達に、神はその慈悲深さ故に被災者の心に共感し、一緒に心を痛ませつつ癒しの糧となる恵みをお与えになると信じています。こうした正統派のクリスチャンの神についての考えは、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族の方々、自衛隊員などの救助隊員や支援者の被災者への寄り添いの心に相通ずるものだといえます。

ただ、神は直接眼には見えない存在なので、神の恵みが苦しんでいる人達へ具体的にどのように伝わっているのかということを直接認識することはできません。しかし、例えば、被災者に優しく寄り添う天皇皇后両陛下の姿などを通して、慈悲深い神の癒しの恵みが具体的にどのように働いているかが分かります。

神は、神を信じる人達は勿論、そうでない人達でも、優しい心を持った人全てを、神の救いの手として、彼らの献身的な働きを神の恵みとして、被災者達に寄り添い、癒し、元気付けていきます。つまり、被災地で被災者達に寄り添いながら支援し続けている心優しい人たちは、神の聖霊の秘蹟のように、直接眼には見えない神の、眼に見える代理として、イエスキリストのように同じ生身の涙を流せる人間として、神の慈愛を示しているのです。勿論、天皇皇后両陛下もこうした意味において、両陛下の慈しみ深さ故、慈愛そのものである眼に見えない神の秘蹟的存在であるといえるのです。

四旬節の40日間の修行において、その辛さ故、時々、神は私達のことを忘れてしまったのか、と思うことがあります。神は私達の懺悔を受け入れ、私達の罪を赦してくれるかどうか、不安になることもあります。

被災者の方々にとってこの長い苦しみと将来への不安は、40日間どころではない、比較にならないほど長い”四旬節”であるかも知れません。しかし、それがどんなに長くっても、例え、彼らの四旬節がモーゼの苦渋の地エジプトからカナンにある新天地までの苦難に満ちた砂漠の旅を40年もの間続いたような長い多様な試練となるかも知れません。
ただ、聖書からも言えることは、神への信仰をどんな苦しみにあっても、それがどんなに長くても維持できる人は必ず救われるということです。こうした聖書の理解は、災難を被り、苦しみや悲しみがいつまでも続いても、それを、出エジプト記にあるような心と魂の砂漠の中の旅とみなし、神であれ、何かを信じ、希望を維持できる人は必ず成長しながら乗り越えられるということです。つまり、諦めてはいけないということです。そこに、苦しみや悲しみから逃げずに、忍耐強く向き合いながら生きていく意義もあるのです。
四旬節や聖書でいう悔い改めるということは、ある意味では、諦めへの誘惑と戦い、それに打ち勝ち、希望を捨てないということだといえましょう。

悔い改めるということの他、心、魂、そして、体、を苦行により律することも四旬節においてとても大切なことです。このことについて、先ず、師匠のイエスが実例を示しました。彼は、洗礼の後、聖霊の導きにより、砂漠の中で40日間の断食苦行を行い、それを終えようとしている時に悪魔からの3つの誘惑による攻撃を受けましたが、腹ペコにも拘らず、それらの攻撃を全て見事に跳ね除けることで、それから3年間に渡る救世の為の伝道の旅にでるのです(マタイ、4:1-11)。このイエスの40日間の砂漠での断食苦行は40日間に渡る四旬節の訓練的要素の背景でもあります。

ある意味では、イエスは、砂漠での40日間に渡る断食の苦行によって自分を律していたので、3年間に渡り、伝統し、その締めくくりとして、最後の晩餐の翌日の金曜日に十字架を背負う苦しみに耐え、貼り付けの断末魔の痛みと苦しみにも耐え抜き、イザヤによる預言書の52-53章にある預言通りに、その任務を全うできたのだともいえましょう。イエスの弟子パウロはガラテヤの信徒への手紙5:22-23)で、聖霊の成果の一つに、愛や喜びや忍耐力と一緒に、自分を律する力を挙げています。また、パウロは更に、ヘブライ人への手紙(12:1-13)において、こうして、イエスのように自分を厳しく律することは、自分だけでなく、他人達の喜びや癒しにもつながると記しています。

私達も、聖霊に導かれ、40日間の四旬節の比喩的な砂漠における断食修行に入り、自己を律することで、誘惑や罪、それに、仏教でいう煩悩に密接に関係した自我を克服します。そうすることで、聖霊の成果が律する力、強靭性、愛、喜びなどとなって表れるのです。

四旬節の辛い修行は必ず主イエスキリストの復活、イースター、の無量の喜びへとつながります。聖書にある災難を信仰でもって、悔い改めて乗り越えた所には必ず神の恵みによる褒美が待っています。同じように、どんなに長引こうとも、何かを信じ続け、希望を捨てずに生きていれば必ず神の恵みは実を結びます。

そして、四旬節の悔い改めとは、神の恵みの実とは、必ずしも自分で思っていたものとは限らないということを、謙虚にかつ感謝でもって、森田療法でいうように、あるがままに享受できるということです。つまり、それは、自我を克服するという仏教的なことでもあるわけです。

私達も、四旬節という時期、長い長い四旬節を希望を維持しながら耐え忍ぶ被災者の方々に心を寄せ、共感の中で、神の恵みを享受しあい、悔い改めることで、自我を征し、より神の意思に謙虚に従順となることで、神の恵みの秘蹟的な存在となり、被災者を始め、この世の中で苦しんでいる人たちへの救いの糧となることができます。そして、この修行の努力、波羅蜜多、の成果が、キリストの復活のような喜びとなり、皆で共有できるのです。このことを信じる我ゆえ、正統なキリスト教徒は、どんなに辛くても、寄り添う人達がどんなに辛くても、共に希望を捨てずに乗り越えていけるのです。

どんなに長くても寒くても、冬は春へと続く。どんなに苦しみが多く、長くても、神、あるい、何かを信じ続け、希望を失わない限り、苦しみを乗り越え、その先には必ず何か喜ぶものがある。聖書においても、たとえ、それが神による罪深き民への天罰であっても、神は必ず彼らの悔い改めによる改心を信じ、民を愛するが故、全てを修復へと計らう。被災者へ心を寄せながら、私達は四旬節をこのような真実を鑑みながら、より意義深いものにしたいと思います。

そして、阪神淡路大震災から20年経った今、東日本大震災から4年目の今、被災者の方々は程度の差はあるにせよ、苦しみ、悲しみ続けています。中には、こうした苦しみや悲しみは終わりのないものだろうかと思ったり、もう神や仏なんぞ、と思ったりもする方がいるでしょう。しかし、神や仏を信じつつ、四旬節の修行に励んだり、仏道の六波羅蜜多に精進する人は、被災者の苦しみや悲しみもこうした修行のようなものであると考え、修行を通して被災者に改めて共感のうちに寄り添い、お互いを律することで諦めなどへの誘惑に打ち勝ち、より強靭となり、更に、愛が高まり、喜びも生まれ、希望が更に高まっていくことと信じています。

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本当に神を信じ、正しく聖書を読み親しんでいる正統派のクリスチャンは、決して、苦しんでいる人に対して、聖書云々、神の裁きだとか、天罰だとか、言えるものではありません。災難など、人々に苦しみや悲しみをもたらす事象を罪深き人達への神の裁きだとか天罰だとか決め付けることは、それこそ神への冒涜だと考えられます。なぜならば、彼らは、神を自分の間違った考えや宗教観を神の名を自分の都合のいいように正当化しているだけなのです。こうした為に、苦しみや悲しみの中にある犠牲者や被災者の苦痛が一層辛いものとなり、また、神や宗教に対する希望を失わせ、より悲壮なものとしてしまいます。よって、宗教原理主義者のような考えは、神の名や聖書を悪用して、苦しんでいる人、悲しんでいる人、に理不尽で不必要な罪悪感を植え付けて彼らの魂を破壊しようとする非常に危険なものです。これこそ、まさに、神と神の民の敵である悪魔がクリスチャンの仮面をかぶり、苦しみや悲しみにある人達を神や仏から切り離し、更に深い苦しみと悲しみの底という地獄へと突き放そうとしているものでしょう。私達は、四旬節の修行として、こうした悪魔の危険な思想に翻弄されない強い精神を涵養し、また、宗教の如何にかかわらず、神や仏への信仰があれが信仰、そして、その有無にかかわらず、人間としての良識と人を思いやり人へ寄り添うことができる、いい意味での土居健言う”甘え”といえる、共感、を磨き高めることが大切だと思います。

正統クリスチャンは、カトリックであれプロテスタントであれ、寧ろ、人々の苦しみに対し、眼に見えない神の慈愛の恵みの秘蹟的存在として、眼に見える形で寄り添い、支援していくのです。皇后両陛下、自衛隊員、警察官、消防隊員、そして、無数のボランティア、そして、被災者自身が行ってきたように。たとえ日本はキリスト教国ではないといえ、その象徴でもある天皇皇后両陛下を始めとする、心優しい日本国民のこうした秘蹟的な行動が、日本は神の恩恵を受けている国であることを証明しています。

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