Monday, February 23, 2015

天照大神とイエスを並行させて四旬節に春を辛抱強く待ち望む北国の日本的カトリック季節感  



シカゴのようないつまでも空が鉛色で鬱陶しくてくそ寒いところでカトリックとして懺悔の四旬節を迎えるとこんな風に考えてしまう。。。。天照大神を想い、イエスを想う。。。そして、自分を内省し、清め、神と和解し、その信頼関係を修復して、スピリチュアルなお天道様が再び現れ、そして、私達のしぶとい罪により生贄として殺され死んだイエスも復活し、本当の春がやってくることへの希望の下、たとえ鉛色の鬱陶しい空の下で懺悔と清めの四旬節の修行を続行できるのです。

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日本では、今年の五穀豊穣を祈念して、宮中や各地の神社では祈年祭が行われ、もう苗の植え付けに備える頃であることを告げ、まだ肌寒いとはいえ、田植えの時がもうそんなに遠くないことを示唆しています。それとともに、各地では梅も満開で、鶯も鳴き始め、三寒四温と言われるような過渡期とはいえ、確かな春の足取りを感じます。南国沖縄ではもう既に桜が咲いていますが。。。

しかしこうした春の気配とは裏腹に、東北、北陸、北海道のような北国、雪国では、まだまだ氷点下の寒い日々が続き、雪も降っており、春の実感は程遠いものです。
ここシカゴでも春の兆候どころか、冬という季節の執拗さを実感させられます。そろそろ、冬という季節にも荷物をたたんで出て行って欲しいのですが、まだまだじぶとく居候したいようで困ります。でないと、春という季節が参上仕り難くなり候なんで。。。

北国シカゴでは、3週間前の大雪の後、先々週も先週もずっと灰色の空で、マイナス15度から20度の間を行き来する雪が散らつく日々でした。こうしたお天道様を拝めない日々がこんなに続くと、天照大神の岩戸隠れを彷彿させられます。そして、こうした季節の中、今年も、カトリック教徒にとって懺悔と清めの修行をすることで神との信頼関係を修復して主の復活に備える為の40日の四旬節となりました。

こうして日照時間の少ない、寒い日々が続くと、天照大神は、私達の日頃の罪深き行いに呆れ返ってしまい、弟のスサノオ尊の暴動の酷さに嘆き悲しんだあげく天岩戸に隠れこんでしまった時のようになってしまったのではないかと。。。そして、もう私達へその太陽の恵みの光をお与えにならないのではないかと。。。だから、いつまでも空が灰色で、寒くて鬱陶しくて。。。と思ったりします。ということは、シカゴの冬のしぶとさは、仏教的に言うと私達の欲望や執着の執拗さそのものを比喩しているものかも知れません。そして、それ故、神からみれば、私達はいつまでも頑固に罪深い、と内省します。

このように、キリスト教やその母体ともいえるユダヤ教にある天地創造の全能の神に記紀の日本神話にある天照大神を投影して四旬節について考えてしまうのは、私が古事記や日本書紀にある日本神話に親しむ日本人であり、かつ、聖書に親しむカトリック教徒でもあるからではないかと思います。

というのは、カトリックにとってこの季節は、自分達の罪深き心を正直に見つめ、自分の罪が何であるか的確に認識し、更に、自分の罪、罪深き心ににより神との信頼関係、そして神ご自身がどのように傷つけられたかをも知ることで、神と和解し、信頼関係を修復する四旬節というであり時期でもあるからです。

シカゴのような所に住んでいると、四旬節の始まる灰の水曜日はまだ寒い真っ只中で、まだまだ鉛色の雪が降る冬空が続き、太陽が見える青空がとても待ち遠しいものとなります。晴れても曇ってても、殆ど一日中、太陽の光の恩恵を感じない真っ暗なアラスカやカナダ北部のような北極に近いところではこのように感じることは尚更でしょう。そして、懺悔の修行に集中する四旬節がもたらす、自分の罪深さに関わる心理的効果もあって、悔い改めることでお天道様がまた姿を現し、鉛色の空の下の冷え切った私達の世界を青空の下で暖めてくれることを切に切に願うものです。そして、このお天道様の再来による暖かい光の恵みを請う心は、カトリック教徒がそれまでの罪深さを悔い改め、神の赦しと、再び神の温かい恵みを謙虚に請う心へと投影されます。

新約聖書は、神の御子であるが故、神であるキリスト、イエス、はその慈愛故に私達の罪を、私達の代わりに背負い、私達を罪の束縛から解放し救われるようにする為に、神の赦しの生贄として十字架に貼り付けられたことを教えています。また、イエスは、十字架での死後、三日目に聖霊の力で復活することで、私達も罪深くても彼を信じ悔い改めれば救われることを証明しました。

このことに基付き、カトリックの教えでは、イエスキリストの復活を祝うイースターの前40日間を四旬節と言う、イエスが私達の罪の為に生贄となった意義を深く想い起しつつ悔い改めをする期間としています。こうすることで私達も神と和解し、私達の罪によって傷ついた神との信頼関係を修復できるわけです。しかし、私達の悔い改めることなく、罪深いまま神の背き続けていると、旧約聖書にある預言書からの教訓にあるように、また、新約聖書の最後にある黙示録にあるように、神の審判が下る時にはもう神との信頼関係を修復することが手遅れとなりかねません。万一、そうなれば、もう光の恩恵のない永遠の暗闇へと葬られてしまうことになります。
つまり、四旬節とは、誘惑に負けやすく罪深い私達が素直に私達自身を内省し、悔い改め、神の慈悲の恵みを請い、赦しを請い、和解し、神との信頼関係を修復、維持することで、神の慈愛の光の中でいつまでもいられるように律する期間です。こうすることで、イエスキリストの復活の意義がより深く実感でき喜べるようになるわけです。

とはいえ、四旬節とは典礼カレンダーB年の第一主日のマルコによる福音書1:12-15からの朗読にあるように、イエスが洗礼後に聖霊の導きにより砂漠の中で40日にわたる断食の厳しい修行をすることで福音の伝道と癒しの活動に備えたという事実に照らし合わせて、私達も罪深さや誘惑への弱さを克服する為にあたかもイエスがいた砂漠にいるように自分自身を律するように修行するわけで、長引く冬の厳しさに身と心を引き締めて耐えながら自己を鍛えるようなものです。

日照時間の少ないシカゴや東北などの北国、雪国にいると、あたかも高天原を治める天照大神が海原を治める弟のスサノオ尊の乱暴さに激怒して天岩戸に引きこもり、世の中が光を失い真っ暗になってしまい、命が消えてしまったかのような錯覚を覚えないわけでもありません。しかも、こうした環境におかれると、まだまが先が長い春の到来を辛抱強く、寒さと暗い空の鬱陶しさに耐えながら待つことが要求されます。これは先述の、B年における四旬節における第一主日のマルコによる福音書からの朗読において自分を砂漠の中で断食しながら耐え続けながらこれからの救世の為の大仕事に備えるイエスの忍耐強さに投影しながら、私達自身の四旬節における忍耐を確かなものとできます。

天照大神を全能の神に投影することで得られる日本神話と聖書を対照させたこうした考えは、英語で日曜日をSunday, つまり、太陽の日、ということと、スペイン語では日曜日をDomingo, つまり、主(神)の日ということを対照させればすんなり受け入れられることかと思います。英語でSundayというと天照大神、スペイン語でDomingoというと聖書にある三位一体の全能の神。日本神話と聖書の双方を読む日本人カトリッククリスチャンにとって、北国、雪国の寒い鉛色の空の日々に特徴付けられる四旬節は、私達の罪を贖う為の具体的な伝道を始める前にイエスが砂漠で40日間断食の修行をしたことの他に、天照大神がスサノオ尊の暴動への悲嘆から天岩戸に隠れこもってしまったことをも照らし合わせながら、自省、内省し、懺悔行い、神との和解、神との信頼関係を象徴する春の到来を忍耐で待ち望むのです。

三位一体において御子イエスは天にいる全能の父なる神の“son”であり、息子を意味するsonという英語の単語は太陽を意味するsunという英語と同じ発音であることから掛詞にする、ちょっとした語呂合わせを楽しみながら、四旬節を天照大神を御子イエスに投影し、天照大神の岩戸隠れとイエスの砂漠に潜みながら修行していたことを並行させながら、私達も、日頃入り浸っている欲望や誘惑の俗界から距離を置いて、ある意味では懺悔の為の岩戸の向こう、そして、またある意味では、砂漠のような厳しいところで欲望や誘惑がもたらした罪によって弛んだ魂を律して、四旬節を意義深く過ごして、魂、心、体を清め、クリスチャンにとっての本当の”日の出“かつ”春“である主の復活に備えたいと思います。

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