Tuesday, March 10, 2015

随喜の為の四旬節

宗教学者の端っくれでもある心理屋の仲田です。今日の演目は” カトリックの心理士から見た随喜の為の四旬節”というものでありちょっと変わってるな~とお感じの方もいらっしゃることでしょう。っていのは、随喜という言葉、キリスト教の教典や聖書にはありません。これは、法華経にあり、仏教でも法華経を普通読まない浄土真宗などでもあまり耳にする言葉ではないかと思います。ちょっと、お騒がせさせていただきますが、興味を持っていただければありがいです。

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普通のキリスト教徒にとって随喜という言葉はあまり耳慣れないものかもしれません。
随喜とは法華経にある法華三昧の救いへの精進の一つであります.

随喜とは、ひっくめて言えば、誰かが喜んでいるのを見て、自分も嬉しくなり、それがきっかけとなって、自分がいままで自分の人生について惨めだと思い込んでいたり、他人を羨んでいた姿を悔い改めていく精進の一つです。臨床心理学的にも、自我による執着がもたらすさまざまな不安にかかわる問題を解決する上でも理にかなっています。勿論、私がよく応用する森田療法にも応用できます。

今日は、この法華三昧の大切な要素である随喜について、更に、拡大解釈して、キリスト教の習慣である四旬節の意義と照らしあわせてみたいとおもいますので、しばらくお付き合いください。

まず、随喜という概念を仏教的コンテクストで拡大解釈すると、釈迦が説く法、仏法、の真理に触発された時に起こるいてもたってもいられない喜びで、自分一人の心の内にしまっておくのはもったいないと感じ、自ずと周りの人達に伝えていくものではないでしょうか?

この考えを元にキリスト教について相当する所に触れてみましょう。

こうした拡大解釈的な意味での随喜について、キリスト教においても似たような教えがあります。新約聖書の福音書(ヨハネ4:1-26、39-42)にあるお話しでは、ヤコブの井戸端で夏の暑い日、満たされない心の内に生きていたあるサマリア人の女が水を汲んでおり、そこに旅の途中で喉が渇いたイエスが現われ、このサマリア人の女に水をくれと頼んだが断られた、という切り出しの話です。イエスはこれに対し、”ああそうですか。お騒がせいたしました”と言って去っていったり、”なんだ、この~!、人がこうして喉がからからでみじめな気分になっているのに、少しの水も飲ませてくれないなんて!”と文句をいったりせずに、非常に愛想の悪いこの女と会話を続けようとします。今、こんなことやったら、女から、”あんたね、さっさとどっかへ消えないと、警察呼ぶわよ~!”といった仕打ちを食らうかもしれませんね。セクハラだの何だの、と皆、神経質になっているご時勢ですから。まあ、イエスとこのサマリア人の女がいたおよそ2,000年前のパレスチナではまったく違うご時勢でしたから、この女、警察呼んでまでイエスを追っ払ったりしなかったんでしょう。

ちょっと、脱線しましたが、この福音書の話の続きによると、イエスはこのサマリア人の女の心がどうして満たされていないのかビシっと指摘します。これは、心理士の私として、自分も患者さんやクライアントに対し、こうしてイエスのように相手も心のもやもやなんかをピターっと一発で指摘できるような超能力的な力があればと思います。まあ、私はまだまだ煩悩多き凡夫であり、心の弱さ故に罪深き身であり神の慈悲の恵みのお助けが必要な身ですので、イエスのような力は到底ございません。とにかく、イエスはすごい!そして、そのすごさに今、私がこうして改めて驚かされる2,000年近く前に、このサマリア人の女はびっくりし、イエスことがメシア、皆の待望の的であった救世主であると悟りました。

あなたがこのサマリア人の女であったと想像してみてください。もし、あなたがいままでの自分の生き方や在り方に満足がいかず、心がもやもやしていたならば、尚更です。自分がこの女であり、こうした形でイエスに遭遇したと想像してみてください。第一印象は、”なんだこのずうずうしい野郎め~!”っといった感じで、あまりいいものではないでしょう。そして、水をくれくれと更にしつこくせがまれるのだろうと思っていたら、いきなり変なことを言い出し始める。私はこうして有名なヤコブの井戸で水を汲んでいるのに、突然、あたかも私の喉が渇いているかのごとく話してくる。まったく、こいつ、ちょっと暑さと喉の渇きの為にちょっと頭がおかしくなったのでは?私が与える水を飲めば、もう永遠に喉が渇くことがなく、こうしていちいち井戸へ水を汲みにくるようなことをしなくてもいい。。。。いったいこの変な男、始め、みじめな面しながら私に水くれって頼んでたくせに、あたかも、私の喉が渇き、あたかも、私が水を請わねばならないような立場にいるような言い方しやがって!

彼女は、始め、こうしてイエスが語り続けてきている話の内容が意図することを知りませんでした。しかし、更にイエスが話し続け、自分以外に誰も知らないはずの自分の心の奥底の満たされない心の内をずばっと言われた時、ギクッとしたというよりも、それを超越して、あらま~!これでやった分かったわ~!この気違いみたいな男がどうしてあたかも私の喉が渇いているかのような話をしてたかが!そうだったのようね~、あれは渇ききっていた私の心の奥底の比喩だったんだよね~!しかも、この男、だれも知らないはずの私の心の渇き、すべてお見通しだわ~!すごい!こいつ、ただの気違いだと思ったけど、これが噂のメシアだわ~!えっ?マジ?ほっぺたつねったけど、うん、やっぱり痛い!マジで今私はメシアと話をしてるんだ~!

改めて想像してみてください。私のような心理士から、あなたの心の渇きはこうなんんでしょう?なんぞと言われているのではなく、イエスというメシアからこのサマリア人の女のように自分の心の渇きについて語られ、しかも、その処方箋までいただく。。。つまり、彼が与える水に例えられる、メシアがもたらす神の恵みによって癒され、潤され、そして、救われるんだと。。

あなただったらどうですか?心が喜びと希望で躍らされませんか?

私も心理士として、患者さんやクライアントにたいして、このようにお感じになっていただけるように努力してるんですが。。。

この福音書のお話の結論は、こうしてイエスの癒しと救い教えに心を潤され、触発されたこのサマリア人の女のそれまで萎んでいた心が歓喜に満たされ、その勢いで彼女は自分の村に走っていき、村中の女たちにイエスとの出会いの喜びを語り伝えたという話です。まさに、彼女の心の”ダム”はイエスが与えた新しい命の水で満杯となり、それでもどんどん湧き続けるので、堰を切ったかの如く、この新しい命の歓喜の水がど~と流れ出すように、このサマリア人の女は、他の女達へもこの水を届けに走ったといえるのです。

一見、法華経と新約聖書にある福音書、一見、釈迦とキリスト、まったく関係ないように思っている方もいるでしょう。しかし、こうして、人間の心を喜びで動かす力の教えという点では、相通ずるところが思っている以上にあるものです。仏教にもキリスト教にも、ある程度通じていると、こうしたことが認識でき、宗教の垣根を越えたところに真理を見出し、その喜びもひとしおとなります。そして、その喜びを他の人にも伝えることで、分かち合う。これこそ、法華経でいう随喜が意味することでしょう。こうした意味では、随喜という法華経にある大切な教えは、本当の意味で随喜である為には、法華経という枠、いや、天台宗などといった法華経を重んじる宗派の枠、更に、仏教という垣根を超え、キリスト教などの他の宗教にも同じような喜びを共有しながら救われ合う本当の喜びに意義を見出していけるのでしょう。

カトリックにとって、今は四旬節もたけなわ。もう、あと半分以下となり、イースターが近くなってきております。

あなたの心の悔い改めと清めは進んでいますか?

これは、典型的な今までの四旬節の懺悔に重点を置いた見方ですが、四旬節はただ懺悔の為にあるのではありません。懺悔の為に懺悔をするのだといったような態度で四旬節を迎え、過ごしているようでは、私達の心も、あのサマリア人の女のように渇いたものとなるかもしれません。臨床心理士の中には、そんな態度じゃあんたの自尊心も枯れきってしまうよ、なんて言う人もいるかもしれません。

四旬節は、主の復活の無量の喜びを共有する為の準備期間なのです。だから、その為の準備の一つとして懺悔があり、心を清めておくのです。お正月を祝う前に家をきれいにするようなものであり、また、お正月を迎える前の大晦日の除夜の鐘で心から108の煩悩を掃除するようなものでもあるのです。だから、四旬節というのは、”もういく~つ寝ると、お正月~”といったようなあの無垢な子供心が楽しみにしているように、常に希望に満ちていなければなりません。

こうした希望が四旬節にあるさまざまな試練を乗り越える力となり、そして、復活を迎える歓喜ともなるのです。

そして、主の復活の無量の歓喜を私達は随喜するのです。これぞ、キリスト教たるものの生き方であり、四旬節とはこうしたキリスト教徒たることの意義について改めて深く考えてみる時間なのです。

歓喜に満たされた心は、他の人の心をも歓喜で満たします。歓喜に満ちた心であれば、より善行に励み、それにより、歓喜は更に高まり、随喜も広がっていくのです。これが、キリスト教において主の復活がもたらす救いであり、法華経で教える随喜に見出せる救いでもあるといえましょう。こうした中において、妬みなどの煩悩、そして、それがもたらすさまざまな心の問題も、それを取り除こうといった計らいが特別になくても消滅していくことでしょう。福音書のおはなしにある、あのサマリア人の女が体験したイエスによる彼女が期待していなかった治療の療後所見が随喜となったように。


すべては随喜を通した救いの為に!

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