Monday, March 16, 2015

既存の平和教育概念が陥りそうな盲点を突く - 横風に振り回されない平和教育

前書き

終戦70年目、平和、平和、っていうけど、皆、自分が何言ってんのかわかってんのかな?私も含めてそうだけど。だからこれ書きました。文句ある奴、こそこそ影で文句言うよりも、真っ向からかかってこい!受けて立つぜ!平和を知りたければ、戦わんと。そう、平和って、パラドックスがわからんと、わからんものですよ。勝海舟も同じように考えるのでしょうか。

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平和教育において大切なのは、右翼だけでなく左翼にも関与しない、中道を貫くということです。

右翼的イデオロギーで軍を動かすこと、左翼的なイデオロギーで民衆を動かすこと、どちらも危険です。前者については、2.26事件とそれ以来のかつての日本軍幹部の行動とそれがもたらした結末を考えればその恐ろしさは火を見るよりもあからさまですが、一見、”平和的”な呈を奏す左翼的思想が民主主義という”戦術”を巧みに使い、”大多数”という武器により国を征しても、絶対値的な見方をすれば、前者のように危険なものなのです。彼らも平和主義とかPacifistとか言いながらも、結局は、自分達のイデオロギーを浸透されて、世論を制覇しようとしているだけです。そうすることで、違うイデオロギーとの”争い”をなくそうとする勢力拡大闘争や抗争を大多数波、あるいは、世論、といった武器で展開しているだけなのです。一皮向けば、右翼同様、好戦的なのです。終戦後、台頭しきたマルクス主義がもたらしたもの、単なる思想改革だけではないですよね。戦争とは言わなくても、結構、流血事件となってましたから。そもそも、社会学を大学で履修した人なら誰でも知っているでしょうが、マルクス主義って、下克上的な闘争性があるものですよね。羊の皮かぶった狼のような者でしょうか?

狼という点では、右も左も、本質的には同じです。

左右のイデオロギー双方が好む、いたちごっこの戦争が悪い、軍隊が悪い、どこどこの国が悪い、云々といった議論のような、あたかも憎みあうかのような”戦い”の平和教育”よりも、もっと頭を冷やした、包括的な視点からの平和教育が必要なのではないでしょうか?

クールな頭では、平和教育云々と言うことにこだわるよりも、どうして人間を含めた動物は争うのか?という問いから私達は考えていかねばなりません。そして、こうした考えに沿った科学的、歴史的、な検証をしていく中で、平和とはどういったものか、そして、それを維持するにはどうすべきか、そして、その限界についてもしっかりと認識できるようになります。そうした上で、私達はより現実的、かつ、効率的に、左右のイデオロギーに振り回されずに平和とそれを脅かしかねない要素について対処していけます。

進化学的にみて、そもそも絶対平和なんんていうのはありません。

私達人間がいまこうして38億年近くにもわたる長い進化の過程で今でもこうして存在しているということは、天敵のような存在や他の様々な脅威から身を守る能力を高め続けてきたからです。そして、文明を構築する以前から、原始人の時代より、人間は人間として人間同士で活動するようになると、どうしても強いものが弱いものを征服したり、支配することで、集団を形成し、その集団内の秩序を作り上げてきます。こうしたことをについてより科学的なことは、社会心理学や社会学で学ぶことができます。

このような原始的背景が現在の文明社会における基盤となり、法治国家、民主主義国家とはいえ、それが君主的なものであれ、軍事的なものであれ、民主主義における多数派であれ、力が強いものが法を作り、社会を治めるようになるのです。

徳川幕府の時代は日本は平和だったといいますが、確かに、それ以前の戦国時代に比べればそうでしょう。しかし、あの平和な徳川時代、いったいどのようにして確立できたのでしょうか?今の社会科の先生って、こうしたことを生徒に問わないのでしょうか?それとも、社会科教師がこうした問いを生徒にすることを、文部科学省であれ、日教組であれ、何かの圧力団体が何かの理由で阻止しているのでしょうか?或いは、今の社会科教師は単に鈍感?いや、いや、私はちゃんと生徒に聞いてますよ、とおっしゃる先生が沢山いることを、世界平和に貢献できる日本人を育成する為にもそう願います。

人類の歴史や進化の過程からみて、力のバランスが維持される限り平和ですが、それが崩れるとまた紛争となり、更に引き戻そうとする反作用から、紛争は継続し、更に発展することもあるのです。いってみれば、平和とは抗争の上に作られ、勝者がその平和を維持できるように弱者は反乱者を法や軍といった手段で抑えるが、このパラダイムが維持が弱まったり、挑戦されると、更に強力な法律、或いは、軍事力で押さえ込もうとする。それでも、維持しきれないと、また抗争となり、下克上のようになったり、或いは、鷸蚌相争漁夫之利のように、他から強い者がやってきて今まで抗争し合っていたすべてを制圧し、支配するといったようなことも起こります。そして、それもいつかは、来る新しい勢力に取って代わられるという繰り返しの連続なのです。

だからと言って、平和に対して悲観的になれというのではありません。ただ、妄想的な平和感だけでの平和教育はあまり意味がないのではないかと懸念しているのです。やはり、より科学的、客観的な目で、現実的な観点から平和教育を進めるべきではないでしょうか?

その際、できるだけ、右からのイデオロギー、そして、左からのイデオロギーからも揺り動かされることなく進めていきたいものです。

どうして、他の動物を含め、人間という動物は、”平和”を求め、抗争、闘争をするのか?それは、あまりにも”平和”にこだわっているからではないでしょうか?幸せ、あるいは、幸せになりたい、ということのこだわる人ほど、幸せになれなくて不満だという人、私はメンタルヘルスの専門家として沢山看てきており、どうも、平和についても似たようなことが言えると思うのです。それ故、平和とその正反対ともいえる抗争が表裏一体となる。皮肉ですね。

更に、もっと突き詰めて、どうして人間も他の肉食動物と同じように、様々な動物を殺すことで生命を維持しようとするのであろうか、そして、完全なベジタリアンでない限り、何か動物蛋白がないと生きていけないような人は、自分は戦争反対の平和主義者だと思い込んでいても、深層心理学的には、自分も結局、獣と同じような存在でしかないことに気付いていないだけではないのでしょうか?

生存し子孫を残す為には動物性蛋白質が必要だから、それを得る為に幾つかの動物を殺すことは”仕方がない”、という考えと、自分達が平和の主として自分達の子孫の為にも安泰な暮らしを確保する為にはそれに対して挑戦してくる邪魔者を排除する上で犠牲になってもらうのは致し方ないという考え、比較検討しなければいけませんね。

私のこうした問いに対し、気を悪くされた反戦主義者や平和主義者の方もおられるでしょうが、私は、平和について真剣に取り組みたいものは、敵を作るなとはいいません。寧ろ、いがみ合っていた西郷隆盛と江戸城無血開城を実現する背後にあった勝海舟は、敵を作ることを恐れるよりも、寧ろ、敵がいることはいいことだ、とまで断言していましたから。敵、つまり、自分の考えや自分が信奉するイデオロギーや既成価値観とは違った考えをする人、抗争しかねないような人、を持つことは、平和について本当に取り組んでいく上では、寧ろ大切なことではないでしょうか?

波風を立てたくないという”平和的”理由から、あるいは、単なるナルシシスト的な理由から、こうした”敵”を意図的に避けようとしたり、非武力的圧力によって潰そうとする反戦主義者や平和主義者、寧ろ危険だと思います。因みに、勝海舟は敵をもつことは結構なことだとただ言ったのではなく、実際に、敵を避けたり攻撃するというよりも、敵をよりよく知っていけるように努力し、その努力の結果、流血をさける道を見つけてきた人です。勝海舟は武士ですから刀二本いつも身につけていて、必要ならば、いつでも死を覚悟して応戦できる人でしたが、面白いことに、勝の刀は血に染められることなく、というよりもいつでも鞘の中に納まっていました。敵がおり、斬られそうになってでもです。そして、どの敵からも殺されずに長生きした人です。

より広い縄張り、より沢山の食料や資源、こうしたものを獲得することで、人間も他の動物もただ強いという達成感やプライドだけでなく、”ああ、これで安定した生活が営める”といった一種の平和感をいだきます。こうした平和の為、私達人間は、他者の縄張りを侵略し、領土と食料や資源、すべてを略奪します。

人類の歴史はこの繰り返しでしかありません。そして、この力学的バランスが変わる度に戦争がありました。

平和だと言われた徳川幕府時代も、たかが250年ちょっとしか続かず、外国からの脅威によって、崩壊し、その後の日本は、明治維新という激動的変化を遂げた後、数々の流血戦争を重ねた挙句、危うく国を失いそうにまでなりました。玉砕という名においてでも、戦勝国という勢力の下においてでも。現在の日本は、その後、70年続いている平和な状態ですが、徳川幕府が300年足らず、あの”Pax Romana"で有名なローマ帝国ですら数世紀ですでに分裂し、残りの数世紀でその平和は失われてしまい、西洋の歴史は、相変わらず血みどろの抗争、闘争の連続となり、幾度となく国境を敷き直していました。そして、自分達同士でのこうした抗争や闘争に飽き足りず、アジア、アフリカ、そして、アメリカへとその覇権欲を拡張してきました。この延長にあるのが、幕末期の黒舟来航なのです。
1648年、西洋ではウエストファリア条約が結ばれ、今まで自分こそが平和を維持するものだという考えでもって血みどろの争いをし合っていた連中が、もう争いはこりごりだから、今の国境のままでもうあれこれとケチつけるのを止めようと誓い合いました。ところがどうでしょうか、ウエストファリア条約の効果、何年続いたのでしょうか?西洋史の本を紐解かなくても、それが一時的なものでしかなかったことは分かります。その後、更に実に沢山続いた西洋での流血抗争、闘争、と植民地獲得と拡大における西洋以外の地での流血を考えれば、ヨーロッパで起こった第一次世界大戦よりはるか以前の、この17世紀の平和条約は無用の長物化していたことが分かります。

平和教育において、私達は皆、どうしてウエストファリア条約の効果は維持できなかったのだろうかということを始め、どうして、第一次世界大戦終結後にできた国際連盟は第二次世界大戦を抑止できなかったのか、ということよりも、どうして、皮肉にも、こうした”平和”を求める連盟が第二次世界大戦の火種となったのかというレベルまで追求せねばなりません。そして、人類史上初めて核兵器が罪のない人達に使用というより、”強用”された第二次世界大戦終結により作られた現在の国際連合の平和維持効力の問題点もわかってくるはずです。

こうした人類の文明の歴史の流れの中での平和追求とその結果として生じる数々の流血戦争の連続を、人類の進化上の流れの中でとらえると、平和というものが絶対的なものではないことが認識できます。

こうして、絶対的ではない平和というものを、今までのように抗争や闘争をすることなしに、どのようにして求め、それを維持していけるのか、問い続けねばなりません。
こうした問いがない、あるいは、できないような平和教育、ただ歴史を繰り返す為の道具でしかありません。

やはり私達は、どうも、”平和”と言う概念にあまりにもこだわりすぎているのではないでしょうか?それ故、さまざまな争いが起きる、というのがどうやら、人類の歴史だけでなく、進化の過程をもが教える教訓だと思います。

こうした教訓を活かし、今まで、人類文明史上何千年もの間、繰りえされてきた平和と闘争、抗争の表裏一体のサイクルを止める意味での平和を追求することは、旧約新約両聖書に見られる人類の罪と神の赦しの繰り返しである、Deuteronomic Cycle、を超越したレベルでの神との和解と恒久の平和である救世を得るようなものではないでしょうか?

その為には、やはり、心理学的な要素からも平和とその敵であるものについて、ただ、抗争や闘争、といった表面的なことの裏に潜む深層心理などについても検証せざるを得ません。

その脳の構造からも分かるように、人間を含めた全ての動物共通の自己保存本能、更に、フロイトが説いた、自己防御システムなどの心理学的、生物学的な観点から、私達の平和にとっての本当の敵が何であるか私達自身の心の中にまず見出すことが全ての平和教育の出発点であると思います。

同時に、心理学だけでなく、仏教でもあつかう、執着についてより真剣に考える必要があります。仏教の三毒の一つである執着の問題の背景にある心理的な要素を、愛着理論といった基本的な発達心理の観点からも考えていけるような平和教育が大切です。

繰り返し、私は、平和という概念へのこだわりがその反対のものを招いているのではないかということを問いましたが、このことは、つまり、私達が犯しがちな、平和への執着がもたらしかねない、盲点、危険性を指摘するものなのです。そして、こうしたこだわり、執着、の背後には、森田療法で取り扱うように、不安定な心があるのです。その心の更なる背景には、発達心理学的にみた不安定な愛着形成が幼少の頃に経験しているということも考えられます。 だから、いつも満たされない不安定な心でいるわけで、それが嫌なので平和、安泰なもの、幸せ、といったことにこだわり、知らないうちに執着してしまう傾向にあるのです。

私達は、だれでも、程度の差はあれ、こうした執着、あるいは、その素質がある為に、つい、平和という概念の背景にある盲点に気つかず、平和について議論し続け、数十年であれ、数世紀であれ、一時的な平和を打ち立ても、いずれは、それが脅かされ、その対応のしかた、あるいは、こうした脅威をうまく防止できないが故に喪失し、また戦いの中に陥ってしまうのです。

こうした、心理学的、進化学を含めた生物学的な要素をも含めた包括的平和教育は、歴史問題云々とかいった左右イデオロギーに振り回されがちな議論をして頭カッカさせあうよりもよほど効果的だと思うのですが。。。

えっ?単に、私のような考えを持つものは歴史問題を避けようとしているだけの反平和的な存在だ?そういった好戦的態度で私にかかってくる反戦主義者や平和主義者、是非お会いしたいですね。なぜならば、自分達が墓穴掘っているところを見ていただきたいですから。平和云々ということだけでなく、歴史問題云々ということに執着していませんかね。。。そして、そうした執着の恐ろしさ、毒性にまだ気がついていない人なんでしょう。

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ある意味では、平和教育とは飛行機を操縦するようなものです。

離着陸であれ、水平飛行であれ、航空機の操縦にとって一番厄介なのは強い横風です。横風を受けると、期待は揺れ、あまり心地よいものではありません。着陸時の強い横風は特に危険です。右からにしろ、左からにしろ、横風は航空機にとって操縦士がうまく対処せねばならない敵です。

平和教育においてもそうです。

右翼からの風、左翼からの風、どちらにせよ、こうしたイデオロギーの横風の影響を受けないような平和教育を操縦していきましょう。


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