Tuesday, March 10, 2015

平和の意義、重み、についての再考のすすめ



 今日、平成27年三月十日は、昭和二十年三月十日の東京大空襲からの第70周年記念日です。改めて犠牲になられた方々の御霊に黙祷でもって祈りを捧げます。そして、明日、三月十一日は、東日本大震災からの第四周年記念日であり、日本人として、更に、私と同じ日本人の多くが苦しみ、命を失ったことについて、犠牲者の御霊に祈りを捧げながら、その意義を改めて深く考えたいと思います。特に、今を生きる残された日本人として、これらの痛ましい経験から私達はいったい何を学び続け、これからの私達の生き方、そして、民主主義立憲君主国である日本の在り方とその将来についても考え続けていかねばなりません。 

東京大空襲だけでなく、日本の他の主要都市をあっと言う間に火の海の生き地獄にした大空襲、そして、それらの極めつけとも言うべき、人類史上初めての原子の火による生き地獄となった広島と長崎の、赤ちゃんやそれをかばう母親もが被った、罪無き一般市民の苦しみと死、について改めて心を寄せて戦争の恐ろしさや愚かさ、そして、平和の重要な意義について考え、行動し続けることが私達の責務です。東京裁判史観により唯一の加害国と見なされている日本という国の一国民として、そして、東京裁判史観的な見方ではタブー視されがちな、東京大空襲をはじめとるする日本各地でのさまざまな空襲や原爆というとてつもない大量殺害兵器、更に、沖縄本土戦、南樺太や満州における侵略による被害国の一国民として、改めて戦争と平和、そしてその背景に潜みがちな、本当の悪について考えていたいと思います。

しかし、どうも今でも東京史観的に、平和教育イコール日本の過去の戦争責任の糾弾といった一次方程式な考えをしている人がいるようです。確かに、日本の戦争責任をしっかりと客観的に認識することは平和教育にとって不可欠な必要条件です。しかし、それは決して十分条件になりうるものではありません。それどころか、こうした単純な考えだけの平和教育はかえって反日思想と結びつき、日本とアジア諸国の連帯感に亀裂を入れるだけの非常に危険なものとなりかねません。

良識ある日本人として、私達は平和教育の名においてこのような愚に陥ってはなりません。一方、過去の戦争責任の認識を怠ってもなりません。日本の平和、そして、世界平和に貢献できる日本人として、私達は、過去に日本軍によって苦痛を強いられ、殺された人達の国の人達と一緒になってどうして日本があのような軍事行動ととるようになったのか、広い範囲での歴史的、地政学的、更に、心理学的要素までをも含んだ統括的な議論を進める必要があります。まあ、私のこうした提案に対して条件反射的に、私が故意に平和教育問題を複雑にして、皆を混乱させ、そのどさくさに、過去の日本の戦争責任を希薄化させる危険なものだと早合点する方もいるかもしれません。私は、そのような方にこそ、こうした私の平和教育の提案で挑戦したいのです。日本だけを叩き、それをあたかも平和教育だとしてしまうようなものでもなく、過去の日本の戦争責任だけでなく道義的責任から逃避したりそれを希薄することなく、より客観的に包括的に、人類すべての問題として皆で一つになって議論し続けることこそ、より意義があり実りのある平和教育だと信じております。

こうした平和教育への取り組みを新たにする努力こそ、70年前の東京大空襲、そして、大阪などの他の都市での空襲、広島と長崎での原爆投下、更に、旧日本軍による上海、南京、シンガポール、マニラなどのアジアの諸都市での空襲や爆撃などで苦しみ、犠牲になった無数の罪無き一般市民の方々の御霊への償いだと思います。

過去の日本の戦争責任イコール悪の元凶だと東京裁判史観のように一次方程式に結論つけるのは、キリストを殺したのはユダヤ人であると決め付けるような恐ろしい神学理論と同じようなものです。

正統な神学を学んだ人は、キリストを殺したのは、人類誰もが潜在的に持っている病的な心理的な可能性でると認識しています。ユダヤ人として生まれたキリストは、同じユダヤ人の陰謀により当時、ユダヤ人を植民地支配していたローマ帝国の手によって罪なく大罪悪人だけの為の極刑に処せられたのです。私達、誰もがキリストを殺したくて自分たちで直接手を汚さずに、支配しているローマ人の手により殺させたユダヤ人になり得るのです。だから、ユダヤ人という聖書にある表記は、寧ろ、私達だれもが心の奥底に潜ませている妬みなどの病的な心理の潜在性なのです。聖書を心理学の眼で読めば、キリストを殺させた心理的背景に妬みがあることがわかります。妬みの心理はユダヤ人特有のものでなく、人間、だれもがその可能性を秘めています。

旧約聖書の創世記のアダムとイブの話に照らし合わせて考えるならば、こうした危険な心理的可能性は、彼らによる原罪の賜物かもしれません。一方、仏教でいうならば、これは、私達が波羅蜜多や随喜などの精進をする中で克服すべき煩悩によるものだといえましょう。妬みは、自我への執着の一つですから。

これと同じように、東京裁判史観的な考えは、キリストを殺したのは、ユダヤ人とみなす間違った考えに並行します。歴史的には、キリストをローマ人の手で殺させたのは、心無きユダヤ人でした。同じように、歴史的には、大東亜戦争において多くの罪無き人達が苦しみ殺された背景には理性による統制ができなくなった過去の日本の軍国主義があり、日本はその道義的責任があることは事実です。しかし、それだけで事を結論付けることは、将来の紛争予防、解決、ひいては、戦争防止と終結への効果はありません。こうした考えは、将来の紛争の火種となるだけでしょう。しかも、”平和”の名においてですから、それこそ偽善的ではないでしょうか。

キリストの処刑の例で説明したように、大東亜戦争において多くの人々が苦しみ殺されたことは、東京大空襲や広島と長崎の例などからも言えるように、被害国、加害国、といった分別をするものではなく、人類共通の問題です。 妬みのような人類共通の心理的弱点がもたらし得る戦争や殺戮の狂気について、過去の加害国、被害国の分け隔てなく一緒に考えないと、過去の犠牲者であっても、将来の加害者になる可能性はいつでも潜んでいます。よって、過去の日本の軍国主義の悪魔だけを叩くのではなく、旧日本軍、そして、かつての日本そのものが、どうしてあのような殺戮の背景にある道義的責任の対象となったのか、そして、アダムとイブを原罪に陥れた悪魔のように、旧日本軍とかつての日本、大日本帝国、を軍国主義へと陥れた外因的要素について、広角的、包括的に歴史的、地政学的な観点からだけでなく、心理学的な観点から、更に、仏教やキリスト教などの宗教的、神学的な観点からも検証していくことが不可欠です。

要は、私達一人一人の心の持ち方なのです。その為には、先ず、常に自分の心の中を見つめ、妬みなどの基となりうる潜在的心理的要素を、内視鏡検査による癌化以前のポリープ早期発見と排除のように、見つけ出し、摘みとることが大切です。間違ったイデオロギーや歴史観に振り回されて一次方程式な考え方をしない為にもこうした心の訓練を常時怠らないことが大切です。

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